「羅刹の剣と桜の花」
 
 彼──魂魄妖忌は、目前に立つ桜の巨木を見上げた。
 花の頃は満開。
 朱い月明かりの下、風にそよぐ枝葉の音は黄泉の国から響くごときに。
 冥界と幻想郷を守る大結界の外。山の深いところに存在するその桜は、妖忌以外の観客もないまま。その花を咲き乱れさせていた。
 もしも幻想郷にある一本の桜、西行妖を知っている者がこの場にいたなら、そのあまりの似姿に驚いたことだろう。
 裏の西行妖。
 元々西行寺家初代がその根元で人生を終えたという西行妖は、本来現世の穢れを集める役割を持っていた。
 当時世に溢れていた穢れを集め、それを一定周期に浄化する役目をその桜に与えたのは、妖忌が仕えた初代西行寺家当主である。
 古い、古い話だ。
 法師であり、また歌聖とも称された彼の意思に賛同し、西行妖を生み出すことに手を貸した時のことを、妖忌は昨日のことのように覚えている。
 西行妖にまつわる真実を知る人間は少ない。
 西行寺家初代と自分だけだ。
娘を、お願いします
 桜の舞い散る季節。
 自ら生み出した命の後を託し逝ってしまった、百合のようにたおやかで、月下花のように儚いその姿は、たとえ幾星霜経ようとも妖忌の瞼の裏に焼き付いて離れることはない。
 その姿と共に、胸の奥に深く鈍い痛みが落ちる。
 西行寺家初代が西行妖を生み出した理由。それは、自らの娘のため。
 異能の力を持ち、それに苦しむ娘を少しでも楽にするため、悪霊や怨霊を生み出す温床となる穢れを集めて浄化してしまうのが目的だった。
 目的は上手くいった。
 行き過ぎてしまったのだ。
 当時世に満ちていた穢れは想像よりも遙かに強く、結果として自分達はそれを押さえつけることにも、従えることにも失敗した。
 満開となった西行妖は強大な力を持ち、際限なく穢れを集めるようになってしまった西行妖の影響で狂ってしまった霊たちに苛まれ、それまでにも自らの力を疎んじていた娘は、西行桜の下で自らの命を終わらせてしまった。
 その娘の亡骸を依り代に西行妖は初代に封印されたが、やがて初代自身は失意のうちにその人生を終えることになる。
 幸い西行妖の封印はうまく機能し、再び荒れ狂うことは無かった。
 その後、封印の際に手を貸してもらった妖の提案で西行妖は冥界に移され、すべては終わったかに見えた。
 西行妖監視の為、密かに冥界へ移住した妖忌が、ある日その木の下で一人の娘の姿を見つけるまでは。
 亡霊となち再び現世に戻ってきた娘に生前の記憶は無く、その屈託のない笑顔を見た妖忌は、すべてを己の胸の内にしまうことを決意し、新たに娘が心易く過ごせるように策を講じた。
 封印されたとはいえ、西行妖の力は無くなったわけではない。穢れや濁りは少しづつ堆積していき、再び娘を苦しめる時が来るだろう。
 新しい西行妖……裏の西行妖を生み出す。
 それが妖忌の選んだ方法だった。
 幸い、本来の西行妖……表の西行妖に危険性を感じていたらしい、最初の封印時に協力を得た妖の助力も受けられた。彼女にとっては、結界内の平和こそが最優先されるべきものであり、その為に必要なことだと納得しての上のことだ。
 表の西行妖が集めるべき穢れを裏の西行妖で集め、先に浄化してしまう。
 言葉にすれば簡単だが、すべてを妖忌一人でこなさなければいけない。
 先の妖は、結界の外にある裏の西行妖には大して興味がないらしい。どうやら自らが守っている結界外で起こること以外には一切興味が無いようだが、自分が無事でいるうちは、この一件に関することを一切口外しないという条件だけは呑んでもらった。
 少しづつ、少しづつ、一千年もの長い間、妖忌は一人で戦ってきた。
 だが、それもやがて限界がくることは判っていたことだ。澱のように少しづつ沈殿していく穢れは、裏の西行桜が満開になると共に限界に達する。
 そして、今夜が裏の西行桜が満開になる時。
 強力な穢れと、それに惹かれて集まってきた妖の気配が、どんどんと濃くなってきていた。
 中には、大妖と呼ばれる強力な妖の気配も混じっている。
 だが、妖忌の心は静かだった。
 今度こそ、果たせなかった約束を果たす。
 瞼の裏に、約束を交わした姿が浮かぶ。
 すでに周囲の妖気は、手で触れられそうな程濃くなってきていた。
 妖忌は、手にした朱塗りの大太刀の柄に手をかけ、すう、と音も無く抜く。
 丁度三尺の剛刀は、月下に妖しく禍々しい姿を晒した。
 錯覚ではなく、重ねの厚い直刃の刀身から、霜のように立ち上るのは妖気と呼ぶのも生易しい、強烈な障気。
 長い時の中、穢れを斬り続け、穢れをその刀身にまとい続けてきた妖刀である。
 妖忌の総髪が、刀身からの障気でわずかに揺れた。
 かつて、親好を結んだ、何人もの剣士たちを思い出す。
 千年を超える時を生きてなお、彼らの境地に辿り着けない己を顧みる。
 頓悟など、我ながら面白くもない冗談だ。
 半霊であり、彼らとは比べものにならない時間があったというのに、彼らの綺羅星のごとき輝きには到底及んではいない。
 あと一千年もあれば、辿り着けただろうか。
 それとも、そもそもが自分には辿り着けない境地だったのだろうか。
 戦いの気配が濃くなり、じわりと自らの中に生まれる熱を感じながら、妖忌は一人ごちる。
 普通の人間なら、とうの昔に気死しているだろう障気の海の中、妖忌は俯いた。
 ──想いは、いらぬ。
 最初の七百年は庇護者として、残りの三百年は従者として。
 その背中へ、罪悪感と共に、あの人の面影を透かしていた姿を。
 ──愛も、いらぬ。
 師として、血縁として。
 厳しさのみしか与えてやれなかった自分の後を、懸命に追っていた幼い姿を。
 ──過ぎ去った時間も、哀しみもいらぬ。
 初めての心を抱いた人として。
 半霊の自分が背負う業に、誰よりも心を痛めてくれていた嫋やかな姿を。
 己の心から、引きちぎる。
 見えない傷跡からは、見えない血が吹き出し、胸の内を染め上げていく。
 溢れるその血潮は、もはやその命が尽きるまで止まることはない。
 かっと見開いた妖忌の目に、蠢く妖の大群が映った。
 完爾として笑う。
 地獄の鬼をも喰らう悪鬼羅刹の笑み。
「修羅の道行なり──。地獄への供は、この剣のみ」
 銀の総髪がなびき、妖刀の燐光が尾を引く。
 風が、桜の花びらを散らせた。
 
      **********
 
「少しね、見てもらいたいものがあるのだけど」
 珍しく幽明結界を越えて白玉楼を尋ねて来た八雲紫が、客間の一室で開口一番そう言った。
「見てもらいたいもの、ですか?」
 身長はやや高いものの、多分に少女らしさを残した容貌の白玉楼主・西行寺幽々子は小首を傾げた。
「貴女のお庭番も一緒にね」
「できれば、ではなく?」
「そう」
「場所は幻想郷?」
「その外よ。それほど離れてるわけじゃないけど」
 紫の答えに、幽々子はますます首を傾げた。
 基本的に彼女は結界内の事件に関しては敏感だが、それ以外に関して興味が薄いらしいというのは、彼女を知っている者には周知のことだ。
 それを、わざわざ冥界までやってきて、他人を連れて行こうというのだから、珍しいとしか言いようがない。
 じっと探るような視線を紫に注ぐ幽々子。
 いぶかしく思われているのは感じているのだろうが、紫は眉も動かさない。
「……なにをさせようというんですか?」
「別に。見れば判ると思うわ」
 特に熱意があるわけでもないし、なにかを企んでいる様子でも、深い作為があるわけでも無さそうだと判断した幽々子はゆっくり頷いた。
「妖夢、妖夢いる?」
「はい」
 幽々子がさほど大きくもない声で呼ぶと、程なく小柄な白髪の少女が客間にやってきた。
「出掛けるわ。準備をお願い。貴女にもついてきてもらうから、そのつもりでね」
「はあ。どこまでいかれるのですか?」
「博霊結界の外らしいけど」
「結界の外、ですか? 今から準備するとなると……」
「大丈夫よ、私が案内するから」
「八雲様が?」
 主人との交流があるので、紫のことを見知っていた妖夢も一瞬訝しげな表情を見せたが、主人の命に逆らうつもりは無いのか頷いて下がっていった。
「主従揃ってそういう態度を取られると、少し傷つかないでもないわね」
「普段の態度が態度だからでしょう」
 どこまで本気なのか判らないが、苦笑いで言う紫に、幽々子も笑いながら返す。
「妖夢には用事を頼んでしまったし、お茶のお代わりは私が淹れてきましょうか」
「……できるの?」
「なんでも式にさせている貴女と違って、それくらいはできますよ」
 今度は幽々子の方が苦笑いしつつ、お盆を持って立ち上がった。
 
「う……やはりこの感覚には慣れません……」
 紫が開いたスキマから出てきた妖夢が、少し青い顔で口元を押さえた。
「妖夢は平衡感覚が敏感過ぎるのよ。気を楽にしてればいいのに」
 だらしない様子を見せる庭師兼剣術指南に軽く小言を言ってから、続いてスキマから現れた
幽々子は最後に顔を出した紫に顔を向ける。
「ここが連れてきたかった場所?」
 ぐるりと周辺を見回す。うっそうとした森が広がっているが、特別な景色は何処にもない。
「いいえ。少し刺激的な現場だからね、一旦離れたところに出たわ。少し移動するから、足下には気をつけてね」
 そう言って紫は半身をスキマに残したまま、滑るように先導して移動し始めた。
 深呼吸を繰り返して体調を整えた妖夢は、歩き出した幽々子の背を追って踏み出しかけた身体を固めた。
 空気がおかしい。
 妖気も殺気も感じないが、それは戦場の空気だった。
「幽々子様……」
「ええ」
 幽々子にも判るというということは、妖夢の勘違いではない。
 おそらくはすでに何かが終わってしまった後なのだろうが、妖夢はいつでも主を守る体勢を整えながら、油断無く森の道を進んだ。
 やがて森が開け、一行の目の前に広がった景色は、壮絶を絵に描いたような状景。
 その一角だけ、大地は裂け、木々は消し炭と化し、開けた土地の上に死屍累々と横たわるのは、無数の妖の死体だった。
「おかしいわね」
 明らかに戦いの犠牲と思われる死体たちをぐるりと見渡し、幽々子が眉根を寄せた。
 これだけの妖が戦い、倒れたというのに、一切の妖気が存在しない。これだけ大量の妖の死体が集まれば、障気に満ちた場となっていてもおかしくはないというのに。
 そして、その修羅場の中心に屹立するものに、幽々子は目を向ける。
 桜の大木が、一本。その場の主人であるかのように存在していた。
 白玉楼に根を下ろした桜の巨木、けして花を咲かすことのない西行妖によく似た桜だった。
 だが、決定的に違う点が一つ。
 この桜は、ただの桜だ。
 周囲に花びらが散乱しているところをみると、最近まで花を咲かせていたのだろう。今は一輪の花もつけていない枝には、妖気の欠片も見あたらなかった。
「それで、私になにをさせたいのでしょうか?」
「別に」
 振り返って問う幽々子に、なにもない空中から上体を生やした紫は首を横に振った。
「なにがあったのか、私は知っている。でも、それは約束があるから喋れない。でも、貴女たちにはこの景色を見る義務があると思ったから連れてきた。それだけのことよ」
 しばらく紫の顔をじっと見つめていた幽々子だったが、この古い妖が約束を口にした以上、どう問い質しても情報を引き出せないと判断し、惨劇の場に目を戻した。
 改めて妖たちの死体をつぶさに観察する。
 すべてが太刀傷が原因で屠られている。しかも、ほとんどが一刀。
 凄まじいまでの剣の冴えだ。あまり真面目にやっていないとはいえ、幽々子にも多少の心得はある。それが、どれだけ高い技量に支えられているのかぐらいは判る。
 ふと、もう随分前に暇乞いをして隠居した、先代の庭師兼剣術指南の姿を思い出す。
 彼になら可能だろう。彼に比肩しうる剣士など、幽々子の記憶には誰一人としていない。
 だが、それならばなぜ?
 彼にこんなことをする理由がどこにある?
 妖気が残っていないため確信ではないが、みるからに大妖らしき姿もいくつか転がっている。それに見た目通りの実力があったのならば、一体でも幻想郷に侵入していればちょっとした騒ぎになっていただろう。
「妖夢」
 自分よりは技量が高い庭師の意見を聞こうと、幽々子はその姿を探した。
「妖夢?」
 返事がないのを訝りながらその姿を探す。
 その小柄な背中は、妖の死体の中でも一際大きなものの前で座り込んでいた。
 振り返りもせず、顔を伏せている従者に幽々子は近づく。
 妖夢は泣いていた。
 目の前の大妖の骸には折れた刀の刀身が突き立っている。身幅が厚く、かなりの剛刀と思われるが、これもまたなんの気配も持たない普通の刀だ。
「………お爺さま……」
 嗚咽混じりに漏れた妖夢の言葉に、幽々子はこれを成したのが妖忌だと確信した。
 自分ならともかく、妖夢が師であり祖父である妖忌の太刀筋を見間違えるはずがない。
「──どうして」
 幽々子には、妖忌がそうする理由に見当がつかなかった。
「さ、もういいだろう。帰ろうか」
 平然とした口調で言う紫を、幽々子は非難がましい目で見た。だが、紫はそんな視線を平然と受け流し、スキマを開いた。
 もうすでに、ここで起こったことは終わっているのだ。
 ただ自分たちはそれを確認しにきただけ。
「妖夢、帰りましょう」
 ここで自分たちにできることは、なにもないのだから。
「……はい」
 主に促され、袖で顔を拭いながら妖夢も立ち上がった。
 
      **********
 
 白玉楼の桜も終わろうとしている。
 庭に散る花びらを掃き集めながら、妖夢は先日見た、妖の骸に残されていた祖父の太刀筋を思い出していた。
 世に存在するすべてを断ち切るような、まさしく修羅の太刀筋。今の自分は、あれの足下にも及ばない。
 だから、自分は置いて行かれたのだろうか。
 自分が未熟だったから。
 祖父が隠居していたはずの庵はすでに蛻の殻で、住むべき主人を失った小さな庵が、もの寂しく佇んでいただけだった。
 あの場に祖父の姿は無かった。ならば、まだどこかにいるのだろう。
 師が最後に残した太刀跡は、この目に焼き付けた。
 いつか再び会うその日まで、あの総てを断ち切る太刀筋を追いかける。
「ご苦労様」
 起きてきた幽々子が、縁側に腰を下ろしながら妖夢に声をかけた。
「おはようございます、幽々子様」
「今年の桜も、もう終わりね」
 すでに葉桜になりつつある庭の桜を眺めて幽々子は呟いた。
「……妖忌は、桜が好きだったわね」
 従者として側にいて貰っていた時には、あまり好きな相手ではなかった。なんとなく、自分を見ている時も、自分を透かして誰かを見ているような気がしたからだ。
 近くにいた時は厳しさだけが目立ったが、こうして距離を置くようになってからは、それが彼の優しさや深い思慮に基づいたものだったのが解る。
 今は、あの元従者対し深い感謝しかない。
 幽々子の視線の先には、けして咲かない西行妖があった。
 その威風堂々たる姿は、満開になればさぞかし美しいだろう。
「もし、この桜が満開になったら、妖忌は喜んでくれるかしらね……」
 誰にともなく呟かれた言葉を、西行妖は黙って吸い込んでいた。
 
                                      了
 
 
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