四章・女神の心
 
           1
 
 「少女」。
 少女が出会ったのは、奇妙な出で立ちの男だった。
 彼を見つけたのは、人里から離れた街道端。
 最初は、落ち葉の上に倒れ込み、半ば埋もれていた彼が人間だと少女は気がつかなかった。
 薄汚れてはいたが、少女の記憶によれば男の格好は東方人のものなはずだ。
 死んではいないようだが、長い旅をしてきたらしく、すり切れた雰囲気がこびりついていた。
「ねえ」
 男のかたわらにしゃがみ込み、男の肩を揺らす。その薄汚れた少女の腕は、どきりとするほど細く、色が抜けたように白かった。
 男はなんの反応も示さない。
「ねえ」
 もう一度、少女は男の身体を揺する。
 しかし、やはり反応はない。
 お腹が空いて動けないのだろうか?
 それなら理解できる。少女自身も幾度となく経験してきた。
 同時に、その度に感じてきた、誰にも顧みられない寂しさと、心を引き裂かれるような孤独を少女は思い出す。
 思い出したら、放っておけなくなった。
 俯せに倒れた男の奥衿を両手で掴み 、全身で引っぱる。小柄な上に痩せたその身体で大した力は出なかったが、深く積もった落ち葉が男の身体を滑らせてくれたおかげで、なんとか引きずることができた。
 この辺りに流れてきてから、少女がねぐらとして使っていた大きな木の洞に苦労して男の身体を押し込む。そして近くの水場から、大きな葉を使って作った器に水を汲んできて、男の顔に半ばぶっかけるように与えた。
 水分を摂ったおかげか、顔面に水をかけられたせいかはわからないが、とにかく男が目を覚ました。
 ぼうとした視線をさまよわせ、男は自分の顔を覗き込む少女に目をとめた。
 男の目が徐々に驚きの形に見開かれていく。
「……お前は、精霊(かみ)の使いか?」
 男の口から漏れたのは、少女の知らない国の言葉だった。
 不思議そうな顔で首を傾げる少女に、男は少女にも解る言葉で問い直した。
「お前が、介抱してくれたのか?」
 少し聞き取りにくい、たどたどしいしゃべり方だったが意味はちゃんと通じたので、少女は頷いた。
「そうか、一応礼を言う……」
 男は低い声でぼそぼそと言い、最後にぼそりと少女に解らない言葉で呟いた。
「……放って置いてくれても、良かったのだがな……」
「なにか食べる?」
 もちろん男が何を言ったのか解らなかった少女は、心配そうに尋ねた。
「木の実くらいしかないけど」
「火は、あるか?」
「火? 起こさないと無いけど、薪ならあるよ」
「そうか。分けてくれるか?」
 男は意外としっかりした足取りで洞から出ると、少女から貰った薪とその辺の小枝を集め、妙に単純な構造の背嚢から火口箱を取り出して手際よく火を起こす。
 火が適度に大きくなると、背嚢の奥から燻製肉の塊を出し、適度な大きさに切り分けて枝に刺し炙っていく。
 たちまち肉から油が滴り落ち、香ばしい香りが辺りに立ちこめた。
 ごくり、と少女の喉が鳴る。
 肉などしばらく口にした覚えが無い少女だった。
「礼だ、食え」
 男が無造作に差し出した枝をむしり取るように受けとり、口の中が火傷しそうになるのも構わず、少女は肉を貪った。
 肉の塩気はややきつかったが、次から次へ溢れ出す唾液で薄まり、気にならなかった。
 それからさらに数切れを食べ、指先についた油まで丹念に舌で舐ってから、少女はふと気がついた。
「ねえ」
「なんだ」
「なんで、食べ物があるのに倒れてたの?」
 すでに陽は落ち、薄暗闇の中に燃えさかる焚き火の炎を見つめていた男は、少女の質問にも答えず、そのまま微動だにしなかった。
 沈黙が落ちる。
 やがて、思い出したように男はぼそりと言った。
「……さあ、な」
 男の瞳の中では、赤い炎が揺れていた。
 
 そして男は再び旅立ち、少女はその後ろをついていった。
 なぜそうしたのかは解らない。
 だが、男はなにも言わなかったし、少女もあちこちを転々として生きてきたので、なにかしら深い意味は無かったのかもしれない。
 やがて二人は旅の道連れになった。
 しばらく一緒に旅をして、その男がとても旅慣れていることに少女は気がついた。それがなぜ街道端で行き倒れていたのか少女は不思議に思ったが、その理由については見当もつかない。
 旅の道連れとはいえ、仲良くやっていたかというと少し違う。
 男は元々無口な質なのか、必要な時以外滅多に口を利かなかった。
 はっきりした目的を持ってついてきたわけでもない少女も、取り立てて語ることがあるわけでもなかった。
 それでも、焚き火を囲んで野宿した夜など、ぽつりぽつりとだが、ほんの少し話をすることもあった。
 二人で旅を始め、最初に寄った集落を発ったその夜のこと。
「皆、お前を恐れていたようだが。なぜだ?」
 男の質問は、簡単で単刀直入だった。
 食事の手をとめて、少女は男を見た。
「あたし、こんな姿してるでしょ?」
 そう言って、自らの姿を示す。男に調達して貰ったばかりの服は、会ったばかりの頃に比べればマシではあったが、それほど上等なわけではない。
 しかし、その袖口から伸びる腕や、その痩せた顔は異常なほど白く、年経た狐よりもなお白銀色な髪に加え、その双眸は血の色をしていた。
「この姿は、魔物の呪いを受けた証拠なんだって。だからみんな、あたしの近くにいると、いつ自分にも呪いが降りかかってくるかわからないって怖がってるんだよ」
 その話を聞いた男が、ゆっくりと首を傾げた。
「俺の故郷では、お前のような姿をしたものを精霊の使いと呼んでいるがな」
 お前を初めて見たとき、そう思った。と付け加える。
 少女は困った顔で首を振った。
「あたし、神様の使いなんかじゃないよ?」
「そうか」
 男は小さく顎を引いて頷いた。
「ならば、魔物の呪いを受けたわけでもないのだろう」
 思わぬ言葉に、少女はきょとんとした。
「その程度のことだ」
 それきり、焚き火を見つめたまま男は黙ってしまう。
 炎を照り返す男の瞳を、少女はしばらくの間じっと見つめていた。
 
 また、男は金を持っていないわけでもなかった。
 食い物にしても衣類にしても無料で調達できるわけもなく、少女は金品の類はなにも持っていなかったので、結果男がその代価を払うことになる。
 男が金を入れていた袋は小さな物だったが、ちらりと見えたその中身は黄金の粒がぎっしりと詰まっていた。純度にもよるだろうが、贅沢をしなければ余裕で何年も生活できる量だ。
 それを見た少女は、ますます男のことがわからなくなった。
 さらに男はその後に町を出た直後、その金目当てに待ち伏せしていた五人の暴漢を、瞬く間に制圧してしまった。腰に差した曲線を描く独特の剣を抜きもしないでだ。
 腰に武器を下げている以上、それを使えるのは当然だろうが、その腕前は少女が思っていたよりもずっと上だった。
 それから並んで歩きつつ、少女が、凄いね、というと、男はしばし黙っていたが、ふと気がついて逆に少女へ尋ねた。
「お前、妙な小刀を持っていたな」
「うん、ちょっと前に変なおじいさんに貰ったの」
 頭から被った外套の腰辺りを、ぽんと叩く。
「剣に興味はあるか?」
 ぼそりと男は言った。
「教えてくれるの?」
「お前が、そう望むのならな」
 うん、と少女は首を縦に振る。
 その日から、男は少女の師になった。
 
 少女が男から最初に教わったのは歩き方。
 自分の歩き方を真似ろ、男が言ったのでその通りにする。
 ほんのしばらく歩いただけで耐えきれなくなり、普通の歩き方に戻したが、男は特になにも言わなかった。
 次の日もなにも言わなかった。
 さらにその次の日も。
 その次の日、少女は自分から男の歩き方を再度真似始めた。
 疲れたら普通の歩き方に戻し、疲れが取れたらまた真似をした。
 やがて、丸一日その歩き方ができるようになると、男は剣の握り方を教えてくれた。
 男の教え方は、一貫してそのようなものだった。
 強制するどころか、促しすらしない。それでいて、少女が自ら進めた分をしっかりと観察して、その分だけ新しいことを教えてくれた。
 おそらく、少女が鍛錬をやめてしまえばそこまでで、男はそのことに触れもせずに忘れてしまったことだろう。
 だが、すぐに感覚でそういう男のやり方を理解した少女は、挫けることなくゆっくりと、だが確実にそれらを身につけていった。
 そして、瞬く間に月日が過ぎたある日。
「──俺の故郷は美しいところだった」
 野宿の準備を終え、その日の鍛錬を済ませた後、いつものように食事の支度をしながら、男はぽつりと口にした。
 その頃には小剣ほどの大きさに成長していた自分の剣を革の鞘に納め、食事の準備を手伝っていた少女は少し驚いて顔を上げた。男とはそれなりに長い付き合いになっていたが、この寡黙すぎる男が、自分の過去に関することを口にするのは初めてのことだったからだ。
「季節が色鮮やかでな。なにより俺が好きだったのは、冬に降る『雪』だった」
「『雪』?」
 聞き慣れない単語だ。少女と男の会話は、基本的に共通語で行われていたが、たまに男の母国語なのだろうが、知らない単語が混じることは特に珍しくない。
「知らないのか? 空から降る、お前の姿のように白い柔らかな氷の結晶だ」
 少女は、知らない、と首を横に振った。
「そうか。……俺は、その雪に憧れていた」
 溜息のようにはかない言葉を漏らし、男は夜空を見上げた。
 季節は秋の半ば。日に日に寒くなっていく星の瞬く空には、なにかが降ってくる気配は欠片もない。
「強く荒ぶれば『吹雪』となり、全てを凍らせる。だが、静かに降る『雪』は美しく、なにもかもを白く、一色に染めてしまう。それなのに、ほんのわずかな温もりでも、あっという間に溶けて消えていくのだ」
 空を見上げていても、男の目に映っていたのは星の光ではない。
 しばし静かな時間が流れる。
 ふと、少女が尋ねた。
「ねえ、どこへいくつもりなの?」
 共に旅をするようになってから、少女がその疑問を口にするのは初めてのことだった。
「西へ」
 男はあっさりと、短く答えた。
「なにがあるの?」
「なにがあるのだろうな」
 男の口調は、ごまかしているものではなく。
「そうしようと思っただけだ。なにも無くても構わんのだ……別にな」
 少女は男と初めて会ったとき、食料も金もある男が行き倒れていた姿を思い出す。
 男の横顔に、その理由がほんの少し透けて見えた気がした。
 
 後でわかったことだが、狩猟鷲というのは世界樹麓の樹海にしか生息しない生き物だ。
 どこかの好事家が、多大な労力と犠牲と金銭を注ぎこみでもして持ち込んだものが逃げ出したのか。それとも、他に奇跡的な偶然が重なった結果なのか。
 今となっては原因不明だが、事実として少女と男はその森で狩猟鷲の成体に襲われた。
 男に地面へ引き倒されるまで、その巨体が接近していたことすら少女は気がつかなかった。
 少女の背中が地面につくよりも早く、鋭い呼気と共に男が狩猟鷲に斬りつけている。
 不気味なほど静かな音だけを残し、男の斬撃を躱した狩猟鷲は、瞬時に手近の木を蹴って頭上に消えた。
 慌てて起き上がろうとする少女を、男は鋭く制する。まだいる、と。
 微かだが手応えはあった。襲撃に失敗して手傷を負っても逃げない獣となると、空腹を抱えているか子連れかのどちらかである可能性が高い。
 男にとって初めて見る獣だったが、危険な獣であることだけはたった今の襲撃を見るだけでも判る。恐ろしいほど緻密な気配の消し方だが、明らかにこちらを見逃すつもりがないのは、ちくちくと肌を刺してくる殺気から明らかだ。
 少女が警戒しながら立ち上がり、男の背中を守るように身構える。
 触れたら切れそうな緊張感の中、狩猟鷲は獲物を狙う野生動物のやり方に従った。
 まず狙うべきは、より弱い相手。
 男と少女、明らかに狙うべきは後者。
 再度の襲撃は真上からだった。
 自然落下よりも遙かに高い速度で、狩猟鷲が少女と男を分断する位置に着地する。
 慣性のついた巨体を受け止めた地面が、どん、と鳴った。
 次の瞬間、少女の背中に走った三本の傷が血を吹き出す。
 一息に輪切りにされなかったのは、運がいいとしか言えなかった。
 裂帛の気合いと共に、男が振り向きざまの一撃。
 これも浅く相手を傷つけるが、動きの変わらない狩猟鷲は疾風のような速度で、再び間合いの外へ後退している。
 ち、と男が舌打ちをした瞬間、視界から消えようとしていた狩猟鷲が、意表を突いて突然向きを変えて再度襲いかかってきた。狙いは倒れた少女。
「ぬぅっ?!」
 少女を庇うために前へ踏み出した男を、狩猟鷲の大きな前足のカギ爪が、文字通り鷲づかみにする。鋭い爪が男の胴に食い込み、ごきり、と肋骨の折れる音がした。
 だが、それと同時。
 ぎゅいいいっ!
 狩猟鷲の嘴から苦悶の鳴き声が漏れた。
 その身体と共に握り込んだ男の曲刀が、狩猟鷲の前足に食い込んでいる。
 男が岩が軋むような唸り声を上げて剣を押し込んでいく。
 狩猟鷲の前足が縦に裂けた。
 絶叫を上げて怯む狩猟鷲の頭部を、鷲づかみから逃れた男の切っ先が顎下から貫く。
 狩猟鷲はこもった断末魔を上げて、びくりと一つ痙攣してから地響きを立てて横倒しになる。
 男の勝利ではあったが、その余韻に浸る余裕は無い。
 男自身の傷も深かったが、なにより少女の傷は一刻を争うものだった。
 男は少女と自身に応急処置を施し、傷ついた身体を引きづり、近くに近くに見つけた洞窟へ入っていった。
 そこで男が目にしたものは、落ち葉に半ば埋もれた肌色の大きな一つの卵だった。
 おそらくは、先程襲ってきた獣のものなのだろう。気の毒なことをしたか、と少し心が痛まなくもなかったが、大人しく殺されてやるわけにもいかなった。
 強いものが生き残り、弱いものが死んでいく。それもまた自然の摂理だ。
 それよりも、腕の中でぐったりと目を閉じる少女の容態はかなり悪い。血の流しすぎで体温が下がり始めている。
 幸い、洞窟のなかは落ち葉の発酵熱がこもっているせいか、かなり暖かい。
 医者に連れて行こうにも、最後に後にした町まで戻るのに数日。目的の町までもほぼ同じだけの道のりが残っていたはずだ。手近の村を探すにも、少女を抱えて歩き回らなくてはいけないし、村が見つかる保証もない。
 かといって、この場所に少女を置いて行くのも論外。
 そうなれば、手持ちの薬や道具でなんとかするしか方法はなかった。
 男は出来る限りの処置を少女へ施し、少しでも少女の身体を暖めるため、直に素肌に抱き込み、その上から毛布や外套を巻きつけた。
 ──結果を言えば、少女は助かった。
 しかし、傷ついた身体で数日にわたり少女の看病を続けた男は、少女の容態が回復するのと入れ替わりに倒れ、二度と再び立ち上がることはなかった。
 だが、男が最後に浮かべていた表情は、不思議に安らいだもののように、少女からは見えた。
 熱を失ってしまった男の側で呆然と座り込んでいた少女は、奇妙な音を耳にして振り向いた。
 放置されるままになっていた狩猟鷲の卵が、小さく震えている。
 注視する少女の前で、卵の一部に細かいヒビが入り、薄い色の嘴が少し覗く。
 男の敵の雛。
 少女の脳裏に瞬間的な殺意が芽生える。
 傷からくる激痛に耐えながら側に転がっていた石を手にとり、身を引きずるように卵の側までいく。もどかしいほどに身体が動かないが、生まれたばかりの雛なら労せず手に掛けることができると少女は思っていた。
 かなりの時間がかかったというのに、卵のヒビは大して広がっていない。
 少女は知らなかったが、狩猟鷲の雛は親の手助けがないと、固い卵の殻を破りきれないことが多く、放っておかれた場合そのまま衰弱死することすらある。
 そのまま、卵ごと雛に石を振り下ろそうとした少女の目が、卵のヒビから覗く雛の、濡れた金色の瞳と出会った。
 目前の少女が、親の敵の関係者と知るはずもないその目には、憎しみも恐怖もなく。
 その目に一度は手を止めた少女だったが、歯を食いしばって石を振り下ろす。
 ごつ、と堅い音を立てて、卵が砕けた。
 力無く振り下ろした石を地面へ落とした少女は、落ち葉に手をついてがっくりとうなだれる。
 ぴゅい。
 その膝元へ、ふらふらと頼り無い足取りで、殻が砕けたところから無傷のまま這い出てきた雛が身を寄せてきた。
 ぴゅい、ぴゅい、ぴゅい。
 少女を親と勘違いしているのか、その側に尻を下ろした雛は、甘えるような声で鳴いた。
 
 少女には名前がなかった。
 物心ついたときにはすでに一人だったし、共に旅した男は少女の名を聞こうとはせず、呼び名をつけることもなかったからだ。
 ゆえに、少女に名前はなかった。
 生まれたばかりの雛にも名前はない。
 少女は雛に「フブキ」と名付け。
 自らは「ユキ」と名乗るようになった。
 それが、少女の名前。
 
       **********
 
「静観せよ」
 それが枝の長が下した決定だった。
 当初、近場の村を襲った魔物は、その後「亀裂」に向かうものと思われていた。これまでに出現した狭間の獣は、大小の区別なく皆そうだったからだ。
 ところが人間の村を蹂躙した狭間の獣は、ゆっくりとだが確実に世界樹から離れようとする動きを見せていた。
 そもそも樹士が戦うのは、奴らを「亀裂」に近づけないためだ。「亀裂」に向かわないどころか、逆に遠ざかるような動きをとる狭間の獣に対し、どのような処置を執るのが良いのか。集まった樹士達の中に、誰一人として適切な意見を言える者はいなかった。
 東西南北の枝の長に統括される樹士達の務めは、守備である。加えて目標は人間の生活域まで到達しており、迂闊に追撃も行えない。それゆえの決定だった。
 現状を見守り、目標が方向転換してくるようならば、改めてこれを迎え撃ち、そのまま遠ざかろうとするならば、静観を続けるということだ。
 報告によれば、人間たちも迎撃の準備を始めているという。だが、今回出現した相手はあまりにも強力すぎる。樹士達でも枝単位の戦力を投入しなければ殲滅は無理だろう。おそらく樹海にいる人間たちの戦力では太刀打ちできまい、というのは樹士達に共通の予想である。
 そういう決定が出るだろうことは、ハセオも予想していた。
 敵の強力さを肌で感じてきたハセオは、あれが本格的に暴れ出せば、人間たちはほぼ確実に全滅すると思った。
 そうなれば、きっと彼女も。
 あの狩猟鷲と協力すれば逃げ切れるだろうが、彼女はそれをしないという確信がある。
 いくら狩猟鷲の戦力があろうと、あれとまともに戦えば彼女の命はない、という確信も。
 胸の奥が疼き、背中を炎で炙られるかのような焦燥感が襲ってくる。
 彼女に死んで貰いたくない。
 自分は、まだなにも聞いていないのだ。
 最後に見た、怒りに燃える涙に濡れた紅い瞳が脳裏を過ぎる。
 あの怒りの意味を、自分は理解できない。
 だが、自分がなにか大きな間違いを犯したということだけは判った。
 できるなら、それを理解して謝罪したい。
 それも彼女が生きていればこそだ。
 だが、今自分にできることはなにもない。
 無力感に、ただハセオは唇を噛んだ。
 
          2
 
「……隊長は、どうした?」
 悪夢の日が明けた早朝。
 第三分隊があった村の人々が逃れてきた町の外れ。第三分隊の野営地に、半ばフブキに引きずられた状態のユキは辿り着いた。
 そして、一人で生還したユキの元へ飛んできたのは、知らせを受けたクロンだった。
 結論は判っているのに、それを認めたくなくて確認せざるを得ない。何かに怯えるような、そんな声色だった。
 ユキは力無くうなだれたまま、無言で棒立ちのまま。
 新しい布を被っている上に身長差が頭一つ分あるので、クロンからはユキの表情が全く見えない。
「どうしたと聞いているんだ!」
 クロンは両手でユキの襟首を掴み上げた。ユキの爪先が、ほとんど地面から離れかけている。
 側で見ていたフブキが低く警戒音を発するが、今のクロンの耳には入らなかった。
「……ごめん…………なさい」
 切れ切れに、か細い声でユキは言った。
「隊長のこと……………守れなかった」
 クロンが絶句する。
 罵りも、怒りも、恨みの言葉すら瞬間的に出てこない。
 受けた衝撃があまりにも大きすぎ、狭すぎる出口に詰まってなにも出ない。
 咄嗟に、ユキがフブキをこちらに向かわせなければ、と思ったが、あの時フブキがこちらに来なければ、背後を突かれていただろう自分達はもっと多くの犠牲を出していた。
 自分がその場にいれば、とも思った。だが、自分がその場にいたところで、なにができただろうか。ユキと隊長の二人組でどうにもならなかったなら、自分など足手まといにしかならなかっただろう。
 それでも、クロンは言わずにいられなかった。
「なぜ隊長が死んで、なぜ貴様が生きているのだ?!」
 ユキは無言。
 ユキの襟首を握るクロンの拳が震え、食いしばった歯の間から毒を吐き出すように言う。
「……貴様が、貴様が代わりに死ねば良かったのだ……っ!」
 言い捨て突き飛ばしつつユキを開放し、クロンは後も見ずに背中を向ける。
 ユキは数歩よろめいて地面に腰を落とし、歩み去るクロンの足音を聞いていた。
 心配したフブキが近づいてきてしきりに鼻面を擦りつけてくるが、ユキは座り込んだまま身動き一つしなかった。
 クロンの言うとおりだと、ユキは思った。
 サガム隊長は、もっとずっと、多くの人のためになれる人だったはずだ。
 それなのに自分の身代わりになってしまった。
 それこそは自分の役割だったというのに。
 ふと頭の中に浮かんだのは、あの妙な樹の民のことだった。
 あれは、もう一人の自分だ、と思う。
 あの時、あの手をとっていればあの力を自分も得ていたのだろうか。
 その力があれば、隊長を死なせずに済んだかもしれない。
 だが、樹の民になっていたら、自分も彼のように人間の死など意に介さない存在になっていたかもしれない。
 ならば、自分はどうすれば良かったのだろうか。
 斬りつけた時、あいつはなんでそうされるのかが、まったく理解できてないようだった。
 それが腹立たしく、そして堪らなく哀しかった。
 理解されなかったのが、彼がそれを理解できなかったのであろうことが、寂しくて仕方がなかった。
 きっと二度とあいつは自分の前に現れないだろう。
 それが指先に刺さった小さな棘のように、心を離れなかった。
 どれだけの時間そうしていただろうか。
 すっかりと辺りが明るくなり始めた頃、不意にかけられた声にユキがのろのろと顔を上げると、目の前に警備隊員の一人に連れられた見覚えのある男の子が立っていた。
 彼はおずおずとこちらを見ていたが、自分を案内してくれた隊員が無言で立ち去るのを見ると、満面に心配そうな表情を浮かべてユキに尋ねた。
「怪我……したの?」
「……いや、してない。大丈夫」
 今にも泣き出しそうな男の子に、ユキは慌てて立ち上がった。
「無事に避難できてたんだね。こんなところにいて大丈夫? 家族は?」
「うん。お姉ちゃんはちょっと怪我しちゃったけど、大丈夫だったよ。あのね、ボク、お礼を言いにきたの」
「お礼?」
「うん。その鳥さんに、逃げるとき助けてもらったから」
 敵がユキたちの横をすり抜けていったのを、フブキに追わせた時のことだろう。
 ユキは男の子に、弱々しくはあるが少し笑顔を見せた。
「そっか。じゃあ、それはフブキに直接言ってあげて」
「この鳥さん、フブキっていう名前なの?」
 フブキを指さす男の子に、ユキが頷く。
 名前を呼ばれたフブキが、不思議そうに首を傾げる。
「助けてくれてありがとう、フブキ」
 ぺこんと頭を下げる男の子に、フブキは小さく喉を鳴らして答える。男の子は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「用っていうのは、それだけ?」
「うん」
「そのために、わざわざこんな朝早くから?」
「なにかしてもらったら、ちゃんとお礼をしなさいって、お父さんがいつも言ってるから」
「そう……」
 ユキは男の子の頭をくしゃっとかき混ぜると、男の子は気持ち良さそうに目を細めた。
「頑張ってね、お姉ちゃん。ぼく応援してるから」
「うん。……ありがとう」
 男の子は歯を見せて笑い身を翻すと、手を力いっぱい振りながら走り去る。
 その小さな背中が見えなくなるまで、ユキはじっと見送っていた。
 
 クロンが再度ユキの元を訪れたのは、その日の夜。
「斥候からの報告が来た」
 野営地の隅っこで、フブキと一緒に身体を休めていたユキへ一方的に告げる。
「魔物は真っ直ぐこの町へ向かっているそうだ。我々はこの町に駐留する第一分隊と協力して、住民が避難する時間を稼ぐ。準備をしておけ」
「……了解」
 腰を下ろしたままのユキが短く答えた後も、その場に残ったクロンは苛烈な視線をユキに注ぎ続けていた。ユキも、その視線を正面から受け止める。
「まだ、なにか言いたいことがあるの?」
「……死ぬなよ」
「え?」
 予想していなかった言葉だ。意表を突かれたユキに、憎悪に近い視線を向けたままクロンは言い捨てる。
「貴様の命は貴様のものではない。代わりに死んだ隊長のものだ。貴様には隊長の分まで戦う義務がある。隊長が生きて救ったであろう命を守る義務がある。それを忘れるな」
 口早にそれだけいったクロンは、さっさと背を向けて立ち去っていった。
 その背中を見つめながら、ユキはいつものようにフブキへ背中を預ける。
「……解ってるよ」
 ぼそりと呟く。
 剣を教えてくれた男。
 自分に仕事を与えてくれた隊長。
 自分と関わってしまったために、生命(ものがたり)を失った人達。
 自分が知ることのなかった彼らの過去を含め、彼らがいたことを、彼らがしてくれたことを、忘れず背負っていかなくてはいけないのだ。
 彼らの死が無駄ではなかったと証明するために。
 死とはすべての忘却だとユキは思う。
 共に旅した男を。
 役割を与えて導いてくれたサガム隊長を。
 無邪気な男の子の笑顔を。
 哀しい黒づくめ、もう一人の自分を。
 辛かったことや、嬉しかったことのすべてをユキは失いたくなかった。
 フブキの鼻面を撫でてやりながら、満天の星空を見上げる。
 まだ、戦える。
 そう思った。
 
         3
 
 翌朝、町の住人たちの非難が開始された。
 町の守備に当たっていた第一分隊は、第三分隊に比べ数だけでも三倍の規模を持っている。町周辺にも切り出した石が積み上げられた防壁が築かれ、投石機や大型の弩なども配備されている。
 第三分隊の一部は避難民たちの警護につき、避難先の港町に着き次第、現地の戦力を連れて戻ってくることになっている。
 すでに魔物の巨大さは知れ渡っており、対抗するには中規模以上の儀式法術が使える複数の法術士が必要だと思われた。
 だが、樹海警備隊の後援を主に行っている大地母神教会は、多数の法術士が所属する学院協会とは折り合いが悪く、傭兵以外の法術士がいない。儀式法術を扱える法術士はほとんどが学院出身者であるため、余程の事情がない限り個人で儀式法術を扱える法術士はいないし、当然今現在連絡のつく警備隊所属の法術士に、儀式法術を使える者はいない。
 人の出入りが多少は多い港町の方で現地徴用できればいいのだが、かなりのところ運任せの上、望みは薄いだろう。
 後は人海戦術に頼るしかない以上、少しでも人数を集めるため、他分隊にも既に急使を走らせている。
 第三分隊は半分に減らされた隊を急務で再編成し、指揮は隊長代理としてクロンが執ることになった。基本的には第一分隊の指揮下に入ることになる。
 戦力は、第三分隊単体よりも遙かに上がった。だが、これでも充分とは言えないことを、実際に魔物たちと交戦した第三分隊員たちは感じていた。
 それでも、第三分隊の士気は高かった。
 この戦いは、先に倒れた隊長の弔い合戦でもあるからだ。
 すでに用意された装備は滞りなく整備され、町の周囲にも即席ではあるが罠も用意され、魔物を迎え撃つ準備は整った。
 そして、小鳥の一匹も飛ばない、異様な静けさに支配された半日が過ぎ、やがて魔物の巨体が森の向こうに現れた。
 魔物も町を認識したのか、ゆっくりだった移動速度が、見る間に速くなる。
 戦いが始まった。
 魔物が近づいて来るのに任せ、充分に引きつけたところで、物見櫓から合図が出る。
 すると、森の中で魔物を待ち伏せていた隊員たちが、罠を作動させた。
 生木の裂ける音が響き渡り、魔物の進行方向にあった大小の木が倒れ、魔物の進行方向を妨げる防壁になった。
 それを確認した隊員たちが撤収を始め、それが終わると同時に防壁状に並べられた投石機からいくつもの素焼きのツボが放たれ、魔物の身体に当たって砕け散り、中身をぶちまける。
 ツボの中身は油だった。狙いは正確で、みるみるうちに魔物の身体は油に塗れていった。
 充分に油を浴びせてから、今度は弩で火矢を射かけていく。半数は魔物の強靱な表皮に弾かれたが、残りの半数はしっかりとその役目を果たした。
 瞬く間に火は燃え広がり、苦悶の鳴き声なのか、その巨体から耳障りな音が響く。
 魔物を足止めしている木々にも炎は燃え広がり、火勢は益々強くなっていき、魔物の声が大きくなる。
 どうやら攻撃が効いているらしいと見た隊員たちから大きな歓声が上がる。
 襲って来るであろう「子」を迎え撃つために防壁の上で待機していたユキが、眉をしかめてそれを眺めていた。
 これで終わるなら簡単だが、おそらくそう上手くはいかないだろうと思っていた矢先、魔物の背がテントウムシの羽のように勢いよく二つに開いた。
 その勢いで油が飛び、完全ではないものの火勢が弱まった。
「怯むな! 矢を放ち続けろ! 油の追加はまだか! そっちも用意ができたらいけ!」
 指示が隊員たちの間を駆け巡る。
 開いた魔物の背から、いくつもの影が飛び出してくる。先日村を襲ったものより小型だが、明らかに「子」だ。小さいとは言っても「親」と比べての話で、大型の犬ほどの大きさがありそうだ。
 バッタの足と、鋭いクワガタのように巨大な顎を持つ無数の小型の子は、あっという間に防壁まで到達し、壁にとりつくと平地を歩くように壁を上ってきた。
 準備を整えていた近接戦闘要員がそれを迎え撃つ。
 だが、次から次へと押し寄せる数に押され、防御に少しづつ隙間ができていく。だが、その防御が破られようとした瞬間、町の中へ退却してきた待ち伏せ要員が防壁まで上がってきて、その隙間を埋めると、「子」たちが少し押し戻される。
 いくら強力な魔物といえども、活動限界はあるはずだった。
 今現在の戦力で人間側に勝ち目があるとすれば、持久戦に持ち込んで魔物の力を削ぎ、行動不能にすることだけだ。
 刻一刻と負傷者は増えているが、今のままなら少なくとも援軍がくるまでくらいは持ちこたえられそうだった。
 ユキとフブキも、その機動力を活かして縦横無尽の活躍を見せている。
 隊員たちに希望が生まれかけたその時、突然魔物が開いていた背を閉じ、大きく巨体を震わせたかと思うと、半球状の身体の下部前面をナマズの口のように開いた。
 その黒々とした空洞を見た者たちは、次の瞬間言葉を失う。
 空洞の奥から、イソギンチャクに似た触手と、甲殻類に似た多関節の足が無数に、爆発的に飛び出した。
 一本一本が丸太の太さを持つ触手と、振り下ろすだけで小屋くらいはあっさりと潰せそうな禍々しい足は、しばらく宙をワシャワシャと掻いていたが、その動きが不意にぴたりと止まる。
 一瞬の静寂。
 そして次の瞬間、その巨体は異常な速度で動き出した。目の前に倒れた木々をあっさりと微塵に踏み砕き、伸ばした無数の脚で大地を掘り返しながら町の防壁へと突撃した。
 轟音と衝撃。
 たった一撃で、防壁の一部は吹っ飛んだ。
 身体半分を町に侵入させ、再び動きを止めた魔物の背からいくつもの半球が剥がれ落ち、第三分隊員たちには見覚えのある魔物へと変化する。半休が剥がれ落ちた後には、すでに肉が盛り上がってきており、放っておけばすぐに新手の「子」が生まれて来るであろうことが想像できた。
 崩れた防壁からも、小型の「子」が次々に侵入してくる。
 それをなんとかしようと背後に気を取られた壁上の隊員が、その隙に壁を乗り越えた魔物に背後を突かれ、次々に倒れていく。
 ただの一瞬、ただ一撃で隊は総崩れになった。
 町のあちこちから火の手が上がり始める。
 混乱状態に陥った隊員たちをまとめ直そうと、叱咤と怒号が飛び交う。そうしている間にも隊員たちは確実に数を減らしていく。
 ユキは町の中で戦っていた。
 小型の「子」の頭部を二体同時に握りつぶしたフブキの背で、ユキは跳びかかってきた小型の一体を斬り落とすが、その手応えに思わず舌打ちする。
 今ユキが使っている剣は、警備隊員に支給される通常の量産品だった。世界樹でできているというあの長剣は、サガムと共に村へ置いてきてしまった。
 その剣は、粗悪品でこそないものの、控えめに言っても桁が落ちる。あと十体も斬れば折れてしまうだろう。
 次々に魔物の餌食になっていく隊員たちを横目に、藪を掻き分けるように剣を振るうユキの胸には、じわりと絶望が這い寄ってきていた。
「……ちくしょう!」
 それを振り払って吐き捨てるユキと、威嚇音を発するフブキへ、砂糖にたかるアリのごとく無数の魔物たちが殺到した。
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