4
 
 狭間の獣と人間たちの戦闘が始まったことに、「根」を通じて監視していたハセオは気がついていた。
 どうやら、まだユキは無事でいるようだ。
 世界樹の剣を手放してしまったために、探りにくくなっているユキの反応を苦労して見つけ出したハセオは、わずかに安堵する。
 樹士達の集会から戻ってきてから、張り出した太い樹の枝に座り込み、ずっとユキのことを考えていた。
 純粋な戦う力は、自分の方が遙かに強いはずなのに、自分には無い「強さ」を感じる少女。
 彼女があの時、なぜあれほどの強い怒りを見せたのか、いまだに理解できない。
 だが、それこそが自分と彼女を隔てる壁なのだということだけは理解できた。
 きっと彼女は自分を許してはくれないだろう。
 だが、それでも。
 月光の髪を、怒りに燃える瞳を、流れた涙を。
 美しいと思った。
 彼女が世界から失われるのを、見過ごしたくなかった。
 そう。
 ──他のなにを失ったとしても。
 ハセオの内で、一つの決意が固まっていく。
 後は、一歩を踏み出すだけ。
「何処へ行く?」
 踏み出そうとした瞬間、聞こえてきた声にハセオは金縛りにあったように動けなくなった。
 瞬時に冷や汗が全身に吹き出る。
「掟を破ろうというのか?」
 いつの間にか、頭上の枝に漆黒の影がいた。
 枝の長。
「?!」
 影は一つだけではない。十人以上の樹士たちに包囲されていることに、ハセオはようやく気がついた。
 瞬時の判断で逃走に移ろうとしたハセオを、枝の長は見逃さなかった。
「『束縛』を」
 短く低い祈文に答えた枝や蔓が、あっさりとハセオの身体を捕らえた。幾重にも、厳重にハセオの動きを奪っていく。
 術に精通すると、主に精神統一が目的である祈文は比例して短くなっていく。このことからも枝の長の実力が推し量れるというものだった。
「……くっ!」
 それでも逃れようともがくハセオの首が、左右から伸びてきた二本の槍の柄に押さえつけられる。その力に耐えきれず、ハセオは枝の上に膝をついた。
「……?!」
 その槍の持ち主たちを目にしたハセオは言葉を失う。
 アラゴとルーン。
 二人とも、一様に暗く沈んだ表情をしていた。
「……話はアラゴから聞いたわ。ねえハセオ、みんなで一緒に里へ帰ろうって約束したじゃない。掟を破ったら追放。もう会えないんだよ? 死ぬのと同じ……いいえ、もっと辛い目にあうんだよ? 今ならまだ間に合うわ。お願いだから、大人しくして」
「……お前は、もう少し賢いと思ってたんだがな。はっきり言って、馬鹿は放っておきたいんだがな。それがダチだってんじゃ、そうもいかねえ。悪ぃとは思ったんだがな……」
 疲れ果てた老人のような二人の声に、ハセオの全身から抵抗の気力が腐り落ちていく。
 二人が望んでやっていることではないことが痛いほど解った。
 かつて自分と同じ孤独を味わったゆえの、恐怖と苦悶、それに抵抗しきれない哀しみ。
 そして、純粋に、共に戦ってきた仲間に対する想い。
 裏切られた、という感覚はない。
 それを言うならば、むしろ自分の方こそ彼らの信用を裏切り、またさらに裏切ろうとしていたのだから。
 脱力し、うなだれたハセオを見て、枝の長は満足そうに頷いた。
「それで良い。罪を認め、大人しく裁きを受けるが良い」
 罪?
 ハセオの心に、氷の刃としてその言葉は滑り込んだ。
 なにが罪だと言うんだ?
「しかし、解せんな。お前は今まで忠実な樹士の一人だった。一体何の為に人間などと関わったのか。お前は取り換え子の出であろう」
 違う!!
 枝の長が言下に込めた意味に、耳の奥でユキにぶつけられた言葉が重なる。
「人間共に恨みがあるのではないか」
 私はお前らとは違う!!
「だからこそ人間の世界を捨て、樹の民になったのではないか」
 ヒトを捨てた、人の世界を見捨てた、お前ら亡霊どもとは違う!!
「お前のその力は、人を捨てて、樹の民になることで得たものなのだぞ」
 消えろ、亡霊ども!! ここは私たち人間の世界だ!!
「違う!!」
 突然上がったハセオの叫びに、樹士たちが身構える。
私は今も人間だ!!」
 血を吐くような叫びに、ハセオを押さえつけていた二人が、ムチで打たれたように身を震わせた。
「私は……! 僕はっ……!!」
 裸足で歩いた冬の道。
 投げつけられたいくつもの石。
 冷たい雨を避けた梢の下。
 降り注ぐ、無数の痛みと悪意。
 怒りも、憎悪も、すぐに底をついた。
 残ったのは、ただ絶望的な空虚。
 誰にも必要とされない哀しみ。
 あの手を取った瞬間から、扉を閉め、鍵をかけてしまったものたち。
 捨てようと、忘れようとして……そうしてしまったはずの想い。
 力を、変わることを、欲した理由。
 樹士たちは、ハセオの右手首に多量の「素」が集中していくのを感じ取った。
「誰にも必要とされず! 誰にも知られず! ただ消えていくのが怖かっただけだ!!」
 その声が樹海に響き渡った瞬間、爆発的な素がハセオの右手首から迸った。
 右手首が吹き飛んでしまいそうな膨大な素に驚きながらも、その反動に耐えるハセオの心の奥に囁きかけるものがあった。
 ハセオはそれに逆らわずに、口を開いた。
「『世界樹(めがみ)』よ!!」
 その声に応え、ハセオを捕らえていた「束縛」は解け、逆に枝の長を含めた十人あまりの樹士たちが、抵抗することもできずに殺到する枝と蔓に絡め取られる。
 その縛めは、ハセオが捕らえられたものよりも、数段協力だった。
 突然の事態に、なぜか束縛を受けなかったアラゴとルーンが、浮き足だって周りに視線を巡らせた。
 ハセオ自身、なにが起きたのかはっきりと認識できなかったが、この好機を逃すつもりはなかった。
 二人の隙を突いて跳ね起きると、目の前に突き出されているルーンの槍を両手で掴む。
 その感触に、はっとしてルーンが振り向いた時にはもう遅い。
「すまない」
 短い謝罪の言葉と同時に、ハセオは握った槍でルーンの身体巻き取り、そのまま振り回して反対側のアラゴへとぶつけた。
「おわっ?!」
 不意を突かれたアラゴはバランスを崩し、ルーンを抱えたまま枝から落ちる。
 ハセオは一瞬心配そうな目を向けたが、そのまま枝を蹴って逃走した。
「だ、大丈夫、アラゴ?」
 アラゴが庇いながら落ちてくれたおかげで、全くの無傷だったルーンが気遣わしげにアラゴへ訊く。
 頭を打つのだけは避けたアラゴは呻きながら逆に尋ねた。
「いててて……。なんだ、なにが起きたんだよ?」
「解らないわ。ハセオを中心に凄く強力な素の爆発が起きたってことくらいしか……」
「なにをしている、早く追うのだ!」
 もはや口程度しか動かせないほどに拘束された枝の長が、焦った口調で二人に命令するが、二人は顔を見合わせてすぐには動こうとしなかった。
 二人の耳にはハセオの叫びが残っている。
 枝の長はその様子に舌打ちすると、独り言のように漏らした。
「あの若造の意思力が、私と騎士十人分を凌ぐだと? そんなことが……」
 まずあり得ないことだったが、理論上樹士同士の術戦では、意思力の強い方が一方的に樹の助力を得ることができる。
「そうでなければ」
 浮かびかけた考えを、枝の長は慌てて頭から追い払った。
 もう一つ、無条件に樹の助力を得る方法が伝えられている。
 だがそれは枝の長にとって、さらに認めたくない結論だった。
「馬鹿な……女神の遺志などと」
 それはほんの小さな呟きだったが、はっきりと二人の耳に届いた。
 弾かれたように顔を上げた二人は、無言で頷きあう。
 自分達が術に囚われなかった理由が解ったような気がしていた。
 そして、二人はハセオを追って走り出す。
 
 町に向かっていたハセオは、追ってくる二人の存在に気がついた。
 二人を術で捕らえなかったのは、ハセオの意思ではない。そもそも、他の樹士を捕らえた術だとて、ハセオが仕掛けたものではない。だた、心に響いた囁きに従った結果でしかなかった。
 自分を捕らえるために二人が追ってきたのならば、本意ではないが戦わなくてはいけない。
 自分は行かなくてはいけない、行くと決めたのだ。
 二人を迎え撃とうと速度を緩めようとしたハセオに、念が飛んでくる。
『止まるな』
 その念は、「根」を介した時のように鮮明だった。
 驚くハセオの両隣に、二人はピタリと併走する。
「お前たち……?」
「考えが変わったわけじゃねえが、今は手伝ってやるよ」
「こうなったら、仕方ないわよね」
 その言葉を聞いたハセオの顔に、ゆっくりと喜色が浮かんでいく。
「弛んだ顔してんじゃねえよ。上手くいったとしても、その後が大変なんだからな」
「ありがとう」
「……解ってねえだろ、お前。それより、ちゃんとアレをなんとかするアテはあるんだろうな? 無策で突っ込んでいっても無駄死にするだけだぞ」
「大丈夫」
 短くきっぱりと答え、輝く銀色に変化していた右手首の世界樹の種に目をやる。
「やれるさ」
「ま、ガタガタ言ってもしょうがねえな。頼んだぜ」
「お喋りはそれくらいでね、二人とも。やるんだったら急がないと」
 緊張感が滲むルーンの声に、二人は表情を引き締めた。
 目の前には困難な戦いが待っている。
 すべては、それを切り抜けてからの話だった。
 
      **********
 
 キン、と音を立てて、ユキの握った長剣が根元から折れ飛んだ。
 その隙に、小型の子が二体跳びかかってくる。
「フブキ!」
 きゅいっ!
 短いやり取りを交わし、ユキがフブキの首にしがみついた。
 それとほぼ同時にフブキは倒立して後ろ脚を跳ね上げ、鋭いカギ爪で魔物を空中で引き裂く。
 体勢を整えたフブキが、近くに転がっていた剣を嘴に引っかけて空中に放り、それを空中で受け取ったユキがそのまま更に跳びかかってきた一体を斬り下げる。
 そうしている間にも、雲霞のように新手が集まってくる。完全に包囲される前に、フブキは脱兎のごとくその場から離れた。
 村よりもずっと入り組んだ町並みを駆け抜けつつ、横目でユキが確認した限りでは、どの通りも中・小型の魔物で溢れかえっている。
 魔物たちが市街へ侵入してから、ユキもフブキはその機動性で激しく場所を変えながら戦い続けている。下手に広い場所で立ち止まると、瞬く間に包囲されて数に押し切られるのは目に見えている。
 生物的な特性として立体的に動き回るのを得意とするフブキと、それを駆るユキにとって、市街戦は建造物が足場となる。ユキたちは文字通りの八面六臂の活躍で市街を駆け抜け、分断された部隊の手助けをしながら再結集を促して回っていた。
 魔物の市街侵入が予想よりも素早かったせいで、孤立した部隊が意外と多いのだ。
 なんとか警備隊の再結集が進んでいく中、多くの魔物を放出した魔物本体は不気味な沈黙を保っている。
 防壁外の魔物がほとんど町の中へ入ってしまったため、逆に後方の心配をする必要が無くなった防壁周辺に部隊の一つが集結し、破壊されずに残った投石機や弩を町の内側へとむけなおそうとしていた。
 そうこうするうちに孤立していた部隊もあらかた合流を終え、ユキとフブキも安全圏へと後退する。
 決め手が足りない。
 進路を遮ってくる小・中の敵を蹴散らしながら疾走するフブキの背で、ユキは歯がみする。
 とにかく援軍がくるまで持ちこたえるのを目標に隊は踏ん張っているが、あまりに巨大すぎる魔物に対して決め手を持たないままでは、人数ばかりが増えてもどうしようもない。
 もっとも効果が期待できるのは、軍属の法術士達が使うような大規模法術だろうが、無いものねだりでしかない。
 援軍の中に大規模法術を使える法術士達がいなければ、下手をするとその援軍と共に全滅させられる可能性すらあるだろう。
 このまま迎撃戦を続けて、あの魔物の体力を奪えるかどうかは賭けだろう。だが、見る限りそれもまた分の良い賭けではなさそうだ。
 ちらりと冷たい絶望がユキの頭を過ぎるが、慌ててそれを追い出す。弱気になれば、ましてや諦めてしまえばそれで終わりである。
 きゅいっ!
 鋭いフブキの警戒音。
 気付いて視線を向けた時には、中型の魔物が頭上から降ってくるところだった。その前脚の爪が、正確に自分へ向けられているのがユキには判った。
 しまった。
 ユキの背筋に悪寒が走るのと、空中の魔物の首が切り飛ばされたのはほとんど同時。
「?!」
 見覚えのある姿を頭上を飛び越えていくのを見ながら、ユキとフブキは落ちてくる魔物の身体を避ける。
 その向こうで音もなく着地した黒ずくめの姿は、帽子の広いつばの向こうからユキへ一瞥をくれると、そのまま無言であっさりと身を翻し、魔物へ向かって走り去った。
 その見慣れた姿よりも一回り小柄な背中を見送りながら、ユキは疑念を口にする。
「あの樹の民、あいつじゃない。女……?」
 呟き終わった瞬間、小山のような魔物本体がじりっと身動ぎするのがユキから見えた。
 
        **********  
 
『狩猟鷲に乗った女って、警備隊の取り換え子でしょ? 無事だったわよ。危ないところだったけど』
 指定した位置へ向かうルーンからの念話がハセオに届く。
『すまないルーン、ありがとう』
『どういたしまして』
 どこか不満そうな響きの念を残して、ルーンは沈黙する。
 その態度にハセオは少し首を傾げたが、すぐに気を取り直して移動を急ぎつつ、また自らの持つ世界樹の種に目をやる。
 気付いたばかりのことだが、本来漠然とした意思のやり取りしかできないはずの、世界樹を介さない念話の精度上昇には、この種の変化が関係しているようだ。
 輝く銀色の種を見つめながら、その種から自分の内部に流れてくる情報に感覚を研ぎ澄ませる。それだけで、その種の力でなにができるのか漠然だが理解できる。
 理由は不明だが、この「種」の能力変化は、たった三人で魔物に対抗しなくてはいけないハセオたちには有り難いものだった。
 自らを脅かす力が近づいてきたと感じ取ったのか、今まで動きを見せなかった魔物が動き始めていた。
『動きを止める!』
 それぞれの場所へ移動する二人に念話を飛ばし、ハセオは祈文を唱える。
「世界樹(めがみ)よ! 『束縛』を!!」
 ハセオの声に応え、大地を割って無数の大蛇のように巨大な樹の根が立ち上がり、魔物へと躍りかかった。雄々しく力強いその根たちは、逃れようともがき始めた魔物を、ゆっくりとだが確実に大地へ縫い付けていく。
 
        **********
 
「あれはなんだ!」
 魔物の動きを監視していた隊員の一人が、防壁の上で驚愕の声を上げる。
 火山の噴火のごとく吹き出す無数の根が、魔物の動きを何重にも封じ込めていくのだ。
 防壁の側まで待避していたユキからも、それはよく見えた。
 跳びかかってきた魔物を一体切り捨てながら、ユキは眉を寄せる。
「樹の民が、なんで……?」
 
        **********
 
『ついたぜ』
『こっちもよ』
 ハセオが狭間の獣を足止めしている間に、アラゴとルーンが打ち合わせた場所まで到達する。丁度、狭間の獣を中心に正三角形を描くような位置取りだ。
『で、この後の事は考えてあるんだよな?』
 気楽な口調だったが、群がってきているのであろう子体たちと戦闘を交わしている気配が念話を通して伝わってくる。
 ハセオ自身も子体たちを蹴散らしながらであるし、ルーンの方も似たようなものだろう。
『アレを使う』
 女神が樹士に与えた唯一の破壊力。唯一にして最大の破壊力があった。
 樹士が三人以上集まって初めて起動できる攻撃の術がある。この巨大な敵を倒すには、それしかないとハセオは思っていた。
『まあ、それしかないわなぁ』
『でも、あれは起動まで時間がかかるし、威力は人数に比例するわ。いくら貴方の能力が上がっていたとしても、こいつを倒せるだけの威力が出せるかどうか……』
 種を介する念話を繰り返していたことで、ハセオが扱える術力の上昇を実感していたルーンだったが、それも踏まえた上で不安を口にする。
『「増幅」を重ねる』
『本気かよ! 術を重ねてる間、まったくの無防備になるぞ?!』
『「世界樹の子供たち」の助力も受けられる。時間はかなり短縮できるはずだ』
『そんなことまでできるの?』
『……できる、みたいだな』
 感覚で解るというだけなので、ハセオの返答もやや曖昧になる。樹海中に生えた「世界樹も子供」と呼ばれる樹士たちの遺骸から生まれた木々から助力を得るのは、樹士の中でも階梯の高いものに限られる。
 感覚の変化にとまどいはあるが、できるという確信だけはハセオにあった。
『大丈夫かよ。それにしたって、術に入っている間無防備になるのはどうするんだよ』
『防護の術を掛ける。完璧ではないが、充分な時間稼ぎにはなる。なるが……』
『それほど精算は高くない、と』
 ずばりと言ってくるルーンに、ハセオは少し言葉に詰まった。
『どっちにしろ時間との勝負ってことか。ヤな話だな』
『すまない』
『まあいいさ、ぐちぐちと文句を重ねるためについてきたわけじゃねえ。やるんなら、とっととやろうぜ』
『嫌なことは、さっさと終わらせるに限るわね』
 意外に明るい声で二人は返してくるが、言葉の端に滲む不安と緊張は隠し切れていない。
 ここまで来たのだ。
 やるべきことをやる。
『術を発動する。二人とも準備を』
 一声掛けて、ハセオは防御の術をかける。
「世界樹よ、我らの身を護る『防盾』を!」
 ハセオの祈文が響き渡ると、ハセオたちの足下から無数の根が螺旋を描いて立ち上り、繭のように三人を包み込んだ。
『いくぞ!』
 三人が術に入る。
 賭けが始まった。
 
      **********
 
 無数の根に動きを封じられた魔物を取り囲むように、突如として大きな根の塊が三方に現れたと思うと、不意に魔物の「子」たちの動きが変化した。
 ほぼすべての「子」が警備隊との戦闘を放棄して、本体の方へ移動を開始する。
 不穏な雰囲気に、背中を見せる魔物たちの追撃を躊躇していたユキが怪訝な顔で魔物本体の方へ目を向ける。
 本体の危機を察知したか、本体が呼び戻したのかは知らないが、あの三つの根塊と無関係ではないだろう。
 樹の民たちの目的が魔物の退治なら、なにか大規模な真似をするつもりか。
「ユキ!」
 魔物たちの動きを注視していたユキの背後から声がかかる。振り向くと、傷だらけではあるが、まだ五体満足を保っていたクロンが、走り鳥に乗って近づいてくるところだった。
「貴様のことだから無事だとは思ったが。なにが起きているか心当たりはあるか? 樹の民を見たという奴もいるようだが……」
 特に作為のある質問ではないのだろう。単純に、一番戦場を広く駆け回っているユキなら、なにかを見知っているのではないかと考えてのことだ。
「あたしも見た。多分、樹の民がなにかやるつもりだと思う」
「なにか?」
「多分、アレを退治できるなにかだろうね。近くにいる人間は、とりあえず逃げた方が得策だと思うけど」
「……確かに、魔物の動きも変わったからな。体勢を立て直すにも一度撤退した方がいいか。あ、おい!」
 頷いて発煙筒を取り出そうとしたクロンの話を最後まで聞かずに、ユキはフブキを魔物本体の方へ向けた。
「副長は撤退の指示を。あたしは何が起きてるのか、確認してくる。あたしならフブキもいるし、いざとなれば誰より早く逃げられるからね」
 言うが早いか、フブキが走り出す。後ろをクロンの声が追いかけてきたが、それを置き去りで疾風のように駆ける。
 樹の民たちが何をするつもりかは知らないが、それが魔物を倒すためのものなら援護すべきだとユキは思った。
 樹の民たちがどう思っていようが、これは自分たち人間の戦いでもある。
 座して行く末を見守るつもりなど、ユキには一片もなかった。
 
        **********
 
「……さすがに、そう甘くはないか」
 根で囲まれた球体の中で、ハセオは舌打ちした。
 発散する素の量で、自分が司令塔だということが判ったのだろう。集まってきた「子」の半数以上がハセオの方に殺到していた。
 ガリガリと神経を逆なでする音が聞こえてくる。球体に取り付いた奴らが牙や爪で球体を破ろうとしているのだろう。
 だが、おかげでアラゴとルーンの方へ向かった奴らは少ない。そちらは術の発動まで充分に余裕がありそうだった。
 問題はこちらだ。
 二人の危険を最小限にしようと、こちらの分を削ってあちらの防御を厚くしたのが裏目に出てしまった。こちらの防御が破られるのは時間の問題に思えた。
 二人が無事であっても、術の要である自分が倒れれば、二人は狭間の獣の群へ放り出されることになる。
 すでに攻撃の術は発動準備に入ってしまっている。防御の術をかけ直すためには、一度発動を取り止めなければいけないが、さらに時間をかけるとなると、時間ごとに数を増やせる狭間の獣たちの方が有利だ。
 歯がみしたところで、ごりっと一際大きな音がして、球体の中へ木くずが落ちてくる。
 驚いて見上げたハセオは、天井に開いた穴から小型の敵が頭を突っ込んでいるのに気がつく。 ハセオを目に止めたそいつは、激しく身体をよじって球体の中へ侵入しようとしていた。
 もし今入って来られれば、術の準備に入っているハセオは抵抗できない。
 ここまでか……!
 ハセオが覚悟を決めかけた瞬間。
 キュリリリリッ!
 聞き覚えのある甲高い鳴き声が聞こえたかと思うと、球体全体から聞こえていた根を削る音があっという間に少なくなっていった。
 まさか、と硬直しているハセオのすぐ側に、侵入しかけていた敵の頭がぼとりと落ち、あっという間に黒い霧になって消える。
 驚いて開いた穴を見つめるハセオの目と、丁度覗き込んできた紅い瞳がぶつかった。
「ユキさん……?!」
「あんただったか」
 ハセオが呆然と言葉を失っていたのはほんの一瞬だったが、すぐに慌てて問い質した。
「どうやってここまできたのですか? 外は敵でいっぱいのはずですが」
「確かにバカみたいに溢れかえってるけどね。なんか全部あんたを殺ることで頭がいっぱいみたいだよ。こっちからちょっかいかけないかぎり、あたしには向かってこないね。今はフブキが頑張ってくれてる。それより、あんたこの魔物を潰すつもりなの?」
 真っ直ぐに自分を見つめるユキの瞳を、真っ直ぐに見つめ返しながら、ハセオは頷いた。
「わかった。ここの守備は任せな。あんたはあんたの仕事をやればいい」
「……手伝って、くれるのですか?」
「手伝わない理由も、手伝えない理由もないよ」
 その言葉に、ハセオはしばしユキの顔を見つめた後、深く頭を下げた。
「…………ありがとう、ございます」
「礼なんて言わなくていいから、早くしな。いくらこっちを的にしないっていっても、守り続けるのも限度があるよ」
「解っています。それと、空が暗くなったら急いで逃げて下さい。巻き込まれる危険がありますので」
「了解。じゃ、がんばんな」
 警備隊式の敬礼を送り、ユキの顔が穴の向こうから消えた。
 その後を見送って、ハセオは声に出さず呟く。
 ──あの時、あの手をとった私の選択は、ひょっとしたら間違いだったのかもしれない。
 だけど、そのおかげで私はこの力を手に入れた。
 この力で、今貴女のために戦うことができる。
 だから、私……僕は。
 後悔、しない。
 ハセオは大きく深呼吸して目を瞑り、術の詰めに入った。
 
      **********
 
 永劫のような短い時間が過ぎた。
 急激に空が暗くなり、魔物の直上に黒雲が同心円状に渦を巻き始める。
「……これか。フブキ、逃げるよ!」
 すでに町のあちこちで撤退の狼煙が上がるのは見えていた。
 警備隊が避難するための時間も充分にあったので、撤退も済んでいるだろう。
 無数の子を蹴散らし続け、決して浅くない傷をいくつも受けているユキとフブキは、それでも最後の力を振り絞り、離脱しようと退路を塞ぐ魔物の群に突っ込んでいった。
 
      **********
 
『準備いいぜ!』
『こちらも終わったわ』
『……よし』
 頷いて目を開いたハセオは、朗々と祈文を唱え始めた。
「慈悲深く慈愛に満ちた大地の女神よ
 その使徒が振るう破壊の力を許し給え
 地に恵をもたらす神鳴る力
 この時この場に束ねて鉄槌と成さん
 降りて砕き灰燼と化せ!」
 近隣の世界樹の子たちから、増幅された素が術の回路を通じてハセオに集まる。
 ハセオは暴風のような力を制御し、撃発に必要な力を自らの種に集中した。
 振り上げた右手首の種は、眩いばかりの輝きを放つ。
「墜ちよ、『雷霆』!!」
 すべてを砕くがごとく、ハセオの右手が振り下ろされた。
 それは、瀑布のように降り注ぐ雷だったと、後に生き残った警備隊員たちは語る。
 凄まじい破壊と轟音が渦巻き、大地を揺らした。
 山のような狭間の獣の巨体すら包み込んだ神の鉄槌は、敵を蹂躙し、焼き尽くし、四散させていき、一片の欠片すら残すことは無かった。
 
 ──そしてここに、樹海警備隊史上最大の魔物は地上から消失した。
 けして少なくない犠牲を払って。
 
      **********
 
「あたしは、いかない」
 汚れ、傷だらけの幼い少女は、夜明けの空に向かい真っ直ぐに立っていた。
 その小さい身体いっぱいに、生命の尊厳を漲らせて。
 少女の目の前には、朝日が溶かし忘れた夜闇のような影が一つ。
 影は思う。
 これまでにも自分の手を取らないものはいた。
 それらのものたちは、みな一様に怯えた目を向けてきていたが。
 今、目の前で自分に向けられている目に、怯えも嫌悪も、拒絶すら無かった。
 過去に自分の手を取ったもの、とらなかったもの。
 そのすべてとも違った目を、少女はしていた。
 深い興味と共に、影は尋ねる。
「──見たことのない瞳をした子よ。理由を教えて欲しい」
 影の問いに、少女は少しだけ視線を自らの足下に落とし。
 そして、語った。
「昨日は、村のおばさんに棒で殴られた。
 一昨日は、村の子に石を投げられた。
 その前は、酔ったおじさんに、寝てるところを蹴られた。
 その前にも、またその前にも……酷いことはいっぱいされたし、いっぱい言われた。
 でも……でもね。
 あたしは、覚えてる。
 昨日会った大地母神の神官さまが、あたしのために泣いてくれたのを。
 その前に森で見かけた樵のおじさんが、パンを一個、わざと忘れていったのを。
 その前の寒い日に、物置のカギを、わざと掛けないでいてくれたおばさんがいたのを。
 辛いこととか、哀しいこととか、苦しくて痛いことも、いっぱいあるけど……」
 少女が顔を上げ、世にも美しい笑顔を浮かべた。
 その笑顔は、空に昇りつつある朝日よりもなお、遙かに輝いて見えた。
「それだけじゃない、って……。あたし、知ってるから。だから……」
 もう一度、少女ははっきりと言った。
「だから、あたしは、いかない」
 しばし、少女と影は見つめ合った。
 風が、少女の髪と影の長衣を揺らす。
「──誇り高き人の子よ。お前は、光り輝く魂を持っているのだな」
 差し出した手を長衣の中へと引き戻し、その奥から小さな短剣を取り出し、影はそれを少女へと差し出した。
「お前にひとつ、贈り物をさせてほしい。お前自身の魂に比べれば大した物ではないが、どうか受け取って欲しい」
 真摯な響きを込めた言葉に、少女はおずおずとだがそれを受け取った。
「お前がこれより進む道は、誰も通ったことのない険しい道になるだろう。それが、お前の進む道を切り開く助けになればいいと願っている」
「あ、あの……あ、ありがとう」
 少女の礼に、黒い帽子の広いつばの向こう、紅い瞳が優しく微笑んだのが見えた。
 長い長い時の中を、美しいものも、醜いものも、数限りなく見つめてきた瞳だった。
「またいつか、どこかで出会えることを楽しみにしている」
 強い風が吹き、少女は思わず両目を閉じる。
「……さらばだ」
 少女が目を開けた時には、朝日に溶けてしまったかのように、影の姿はかき消えていた。
 
 ──それは、誰も知らない場所の、誰も知らない出来事。
 
 
 
inserted by FC2 system