三章・彷徨う刃
 
        1
 
 闇の中を歩いてた。
 友達と、黄金色に染まった草原の中で遊んでいた。
 闇の中で戦っていた。
 隣には、両親よりも長い時をともに過ごした男がいた。
 闇の中で立ちすくんでいた。
 足下には、自分が切り捨てた男が倒れていた。
 泣きながら笑っていた、戦友たちの顔。
 もう二度と光を映すことのない両目から、涙を流す女の顔。
 そして、無垢な信頼に溢れた蒼い瞳。
 過ごした時間。
 過ごすはずだった未来。
 混じりあって解け合う。
 理由不明の焦燥感。
 なんだ。
 何を忘れてる?
 思い出せ。
 なにを……。
 まとわりつくような倦怠感と、いらつき。
 泥に両足を突っ込んでいるよう疲労感が、ゆっくりと意識をさらに深いところまで連れ込もうとしている。
 じりじりと引き込まれていく。
 だが、意識が埋没する寸前、頭の中に閃光のような声が響いた。
『クマさん!!』
 
 はっと、ソルドは目を開く。
 開いた目に、比較的新しい天井が見えた。
 丁度良く隣で様子を確認していた看護婦がそれ気がつき、一緒に部屋にいた医者らしい男に声をかける。
「目が覚めましたか」
 どこか驚いた響きを感じさせるその声に、ソルドは目だけ動かして、その声の主を探す。
「……ここはどこだ」
 自分でもぎょっとするほど嗄れた声が出て、それと一緒に激痛が腹部に走り、一瞬で意識が覚醒する。
 声もなく悶絶するソルドに、医者らしいその男は慌てて注意を加える。
「医療法術で傷は塞ぎましたが、塞がっているだけです。気をつけないと、すぐに傷が開いてしまいますよ」
 歩み寄りながら看護婦に何事か指示して、医者は説明を続ける。
「出血が多過ぎて体力の消耗が激しかったので、最低限の法術だけしか使用していないのです。痛みがひどいとは思いますが、体力の回復を待って、さらに治療法術を施していきますので、少しの間我慢して下さい」
「目を覚ましたらしいが」
 医者の説明が終わったところで、重い靴音と共に聞きなれた声が聞こえてきた。
 ソルドは反射的に身を起こそうとするが、激痛に呻くだけでベッドから起きあがれない。
「無理をしなくていい。死にかけていたのだからな」
 ベッドの横までやってきたミルドレイは、低い声にいたわりを乗せて、ソルドを制した。
「……団長」
「だから、元だというのに。……しばらく会わないうちに随分とマシな目になったな。お前に仕事を任せたのは正解だったようだ。話をさせてもらっても?」
「無理に喋らせなければ」
 医者に確認しながら手近のイスを引き寄せ、ミルドレイはベッドの横に座った。
「丁度お前の様子を見に来たところだ。タイミングが良かったな」
 そのわずかな間に、ソルドは自分の状況をある程度理解したのだろう、開口一番に尋ねた。
「アナスタシアは?」
「…………順を追って話そう。とりあえず、お前がやられてから、三日経っている」
 たっぷりと間を置いて、ミルドレイは静かに言った。
「アナスタシア嬢は誘拐された」
 予想はしていたが、ソルドはその単純な事実に息を詰める。
「目的は、営利誘拐。二日前に、ディエンドル商会に脅迫状が届いた」
 違和感をソルドは感じたが、黙って先を促す。
「今のところ、身代金をかき集めるために、夫妻は駆けずり回っている。商会でもすぐに用意できるほど小さな金額ではないらしいし、これは別の筋から入ってきた話だが、商会は最近商売上大きなしくじりをしたらしい。そのせいで資金繰りが悪化しているのも大きいらしいな」
「……オレも、大きなしくじりをしたが」
 反射的にそう口にして、その言葉になんら現実感を感じない自分に強い違和感をソルドは感じる。手の届かないどこかが捻れるような感覚。
「ああ、クライム氏からはたっぷり嫌みを言われた。だが、夫人の方がかなり庇ってくれてな。いまのところ、お前は首になっていない」
「……アナスタシアの身柄交換はいつだ?」
「今晩。身代金を受けとって確認したら、アナスタシア嬢は返すとの事らしいが……とりあえず、お前にできることは無い。傷を治すことに専念しろ」
 そう言って腰を上げようとしたミルドレイに、ソルドは訊いた。
「本当に、ただの営利誘拐か?」
「なに?」
「実行犯達の練度が高すぎる。少なくとも、元々の犯罪者じゃないだろう。……元軍人じゃないか?」
 じっと視線を注ぐと、ミルドレイはため息をついて、イスに座り直した。
「お前の腹に刺さっていた得物から、連中の正体は割れている」
 苦々しいその表情から、あまり良い話でないのは想像がついた。
「口外はしないようにな」
 前置きをして、ミルドレイは声を落として話し始めた。
「連中は、おそらく央都潜入部隊の生き残りだ」
「あの暗殺部隊か?!」
 最前線で戦った部隊の副隊長であったソルドでも、その存在しか知らない部隊だった。
 央都議会が突入部隊と同時に央都攻略戦へ投入した戦闘部隊。
 異世界からの侵略と思われていた敵軍に、実は「人間」による指揮系統が存在すると知った央都議会が持ち出した、ある種の切り札だったらしい。
 結果としては騎士団生え抜きの部隊を始めとする、突入部隊達の正面突破が成功したため、ほとんど表だった活躍をせずに終戦を迎えた。
 元々議会が秘密裏に保持していた暗殺組織が母体との噂があるが、央都での激戦で半減したというその部隊は、戦後解体されたとソルドは聞いている。
「……一番最初に解体の憂き目にあった部隊だ。騎士団とは指揮系統が違ったので、私も詳しいことは知らなかったんだがな。一応、解体後の人員の足取りについては少し追った」
 もしも職にあぶれているようだったら声をかけようかと思っていたが、と続けてから、ミルドレイは眉を寄せた。
「綺麗さっぱり痕跡がない。どうも解体というのは口実で、誰かが裏から手を回し、地下に潜らせたようだった」
「誰が……」
「さて。調べようかと思った矢先、色々あって私も騎士団を出たのでな。まあ、そこはお前が気にする話ではないさ」
 おそらくミルドレイには心当たりがあるのだろう。ひょっとしたら、ミルドレイが退役することになったことと関係があるのかもしれない。
「問題は、そのように物騒な連中がこの第二央都で犯罪の片棒を担いでいたということだ。私が今の事業を始めてから、不審な事件には何度も遭遇したが、そのうちの何割かは奴らが関わっていたのかもな」
 しかめ面で椅子から腰を上げたミルドレイは、ソルドの顔を覗き込んだ。
「多分に漏れず、犯人からは警備隊に手出しするなという要求が出てはいる。一応表立ってではないが警備隊も捜査はしているようだし、この件に関してはうちからも捜査協力はさせてもらってるがな。警備隊の反応が悪すぎて、なんの進展もしていないに等しい。判ったことは知らせてやるから、大人しく……」
 ミルドレイがそこまで言ったところで、ソルドはベッドから起き上がろうとした。
「なにをやっている、大人しく寝ていろ!」
 驚いてミルドレイが叱責すると、医者と数人の看護師が部屋に入ってきた。
「……屋敷に戻る」
「何を言っているんです! さっきも言いましたが傷口は塞いであるだけです。無理に動けば簡単に開きますし、今は血の量が絶対的に足りません。起きるだけでも自殺行為ですよ!」
 医者の目配せで男女混合の看護師が、ソルドをベッドの上に押さえつける。
「目を覚ましたらそう言い出すのではないかと思って、準備して貰っていて正解だったな。何度も言うが、今お前にできることは何もない。傷を治すことだけ考えろ」
 厳しい口調のミルドレイに、ソルドの身体から力が抜ける。どのみち今の低下した体力では、拘束をはね除けることもできそうになかった。
「では、安静術式を施します。よろしいですか?」
 医者がソルドに確認する。法術は、かけられる側に抵抗の意志があると失敗する可能性があるからだ。
「ああ……」
 天井を見つめながらソルドは頷いた。
 抵抗したところで、なにが変わるわけでもない。
「それでは」
 医者の低い詠唱の声が響き、ソルドの目の前に、淡く光る小さな方陣が浮かび上がる。
 それが空中に溶けて消えると、ソルドの中で強い眠気が首をもたげてきた。瞼が重くなる。
「目を覚ました頃には、状況は変わっているはずだ。今は何も考えず、ゆっくり休め」
 ミルドレイの言葉を聞きながら、ソルドの瞼の裏には、一番最後に見たアナスタシアの姿が浮かんでいた。
 ──そうか。
 ────オレは、また……。
 ソルドの意識は、再びゆっくりと眠りの泥の底へ沈んでいった。
 
       **********
 
 第二央都郊外。
 月明かりだけの野原には、小型の馬車が馬を付けたまま放置されていた。
 御者はおらず、馬車の中も無人。
 ただ、馬車内の座席には幾つもの革袋が積まれていた。
 ゆるゆると時間が過ぎていき、月が中天にかかった頃。
 放置された馬車に、ゆっくりと近づいてくる、黒塗りで中型の馬車の姿があった。御者も全身を覆い尽くすような服装で、遠目には男か女かすら判別ができない。
 栗馬車は無人の馬車から百メートルほど離れた場所で止まり、やがて不気味なほど静かに黒い馬車の扉が開くと、バラバラと複数の人影が降りてくる。
 五人ほどの人影は、周囲を警戒しながら無人の馬車に近づいていき、内の一人が小型の馬車に乗り込み、座席の革袋を開ける。
 その中には、銀貨がぎっしりと詰まっていた。
 いくつもある袋にも同じように銀貨が詰まっているとすると、大きな屋敷がそのまま買えるだけの金額になるだろう。
 他の袋も簡単に確認して、馬車に乗り込んだ者が外の連中に合図すると、また一人が御者台に上がる。
 その瞬間。
「動くな!」
 突然周辺の草むらから声が上がり、発光筒の光が四方から溢れた。
「!」
 人影達の間に動揺が広がる。
 ガシャガシャと金属音を発して立ち上がったのは、警備隊の鎧を着た男達だった。
「警備隊だ! 大人しく縛につけ!」
 怒鳴りながら抜刀して、十人ほどの警備隊員は鬨(とき)の声を上げて馬車に殺到した。
 剣戟と怒号。
 乱戦になりかけた現場に、馬の嘶きが届いた。
「下がれ! 突っ込んでくるぞ!」
 人影達を運んできた黒塗りの馬車が、勢いよく現場に走り込んでくる。警備隊員達が慌てて避ける間に人影達は二台の馬車に分乗し、即座に馬へムチを入れるとその場から逃げ出す。
「逃げるぞ! 追え、追え!」
 声を掛け合い馬車を追い、何人かが動き出した馬車に取り付くが、あっさりと蹴落とされて地面に転がる。
 走って追いすがろうとするが兵装で追いかけるには無理があり過ぎた。
 加速した馬車は、その場からあっという間に遁走してしまった。
 
          2
 
「あ……」
 病室に入ってきた看護婦が、ポカンと口を開けて空のベッドを凝視した。
 患者にかけられた安静術式は、あと丸一日は効いているはずだったのだが、どうやら予定よりも早く目を覚ましてしまったようだ。
「先生! 脱走です!」
 駆け足で看護婦が出て行った病室には朝日が差し込み、空いた窓から入ってきた微風が白いカーテンを揺らしていた。
 
 吐息が荒いのは、傷のせいか不安のせいか、ソルド自身にも判らなかった。
 馬車を使うと素性を疑われる危険があったので、鉛のように重い両足でなんとかディエンドル邸まで辿り着いた頃には、昼も随分過ぎた頃だった。
 屋敷を一望できるところまで来て、ソルドは屋敷が妙に静まり返っているような気がした。
 どういう手段でアナスタシアを返して貰うのかは聞いていなかったが、ひょっとしたらまだアナスタシアは帰って来ていないのだろうか。
 嫌な予感に後押しされながら、ソルドは敷地内に足を踏み入れた。
「あ、あんた大丈夫なのか?」
 玄関の前で、馬車に繋がれた馬を浮かない顔で撫でていたジムがソルドの姿を見つけ、驚いた顔で声をかけてきた。
「……あんまり大丈夫じゃなさそうだな」
 血の気を失い幽鬼のような顔色のソルドを見て、ジムは顔を曇らせる。
「……アナスタシアは、戻ってきていないのか?」
 ひび割れた声で発せられたソルドの言葉に、ジムの顔はさらに曇った。
「お嬢様は……」
「なんだ護衛殿、いまさらどの面を下げて来ているのかな?」
 ジムが口ごもっていると、屋敷の玄関から出てきたのはクライムだった。
 皮肉げな口調ではあるが、その顔には隠しきれない焦燥が浮かんでいる。
 自分の子供が誘拐されたのだから、それが未だに解決してないとすれば、当たり前の態度なのだろうが、ソルドはそこに奇妙な違和感を感じた。
「ここにいても君の仕事は無いぞ。大人しく病院で寝ていたらどうかね」
「……アナスタシアは?」
 クライムの嫌味にも眉一つ動かさないソルドに、クライムは不愉快そうに鼻を鳴らした。
「私は今から出掛けなければいけない。忙しいのだよ。話なら、ローラルかハイゼンから聞くがいい」
 苛立たしげに吐き捨てて、クライムは馬車に乗り込んだ。
 ジムはソルドをちらりと見て、口だけで「気にするな」と言い、御者台に上がって馬車を出した。
 それを見送っていたソルドの背中に、今度はメイリンの声が聞こえた。
 振り向くと、なにかの道具箱を抱えたままのメイリンが玄関から出てきたところだった。
「あんた、もう動いて大丈夫なのかい?」
「……アナスタシアは?」
 ソルドの様子に顔色を変えるメイリンへ、ソルドは同じ質問を繰り返した。
 メイリンもまた、顔を曇らせて俯いた。
 その快活なメイド長らしからぬ態度に、ソルドは返事をまたず屋敷へと足を踏み入れた。
 クライムがローラルから聞けと言っていたからには、夫人は屋敷にいるのだろう。夫人の部屋へ足を向ける。
 やはり、屋敷の中が静かすぎる。
 なにか、決定的な事が起きたに違いない。
 ソルドが夫人の部屋に続く廊下を曲がった時、夫人の部屋の前に立っていたハイゼンの姿が目に入った。
 すぐにソルドの姿に気がついたハイゼンは、驚いた表情でソルドに身体を向けた。
「……その様子では、病院を抜け出てきましたね」
 どうみても健康的とは言いかねるソルドの顔を見たハイゼンが、眉根を寄せていった。
「アナスタシアはどうなった?」
 ただひたすら繰り返された質問に、ハイゼンも視線を逸らした。
「クライムから、夫人かあんたから話を聞けと言われた。夫人はいるんだな? あんたが話しにくいなら、入らせてもらう」
「待ちなさい、今は……!」
 ハイゼンが慌てて止めようとするが、ソルドは構わず夫人の部屋の扉を開けた。
 ノックも無しで突然空いた扉に、夫人が驚いて顔を上げる。
 泣き腫らした目から、今も止めどなく涙を流している夫人は、豪奢なベッドの端に腰掛け、何かを胸に抱いていた。
 それが何か、ソルドには判った。
 見覚えのある子供の服と、髪の毛の束。
 服には血がこびりつき、髪の束も見覚えのある金色の髪だった。 
 すでに血の気が無くなっているはずの全身が、さらに冷えていくのをソルドは感じる。
「まさか……」
 言葉を失って立ち尽くすソルドの姿に、夫人は腕の中の物をさらに強く抱きしめた。
「ソルド、貴方はよくやってくれたわ。でも……今は、貴方が目の前にいると……貴方を責めずにいられないの……」
 夫人の肩が細かく震える。
「……ごめんなさい」
 ローラルの態度と、その腕の中を目にして、ソルドは何が起こったのかをようやく理解した。
「こちらへ」
 言葉を失って彫像のようになってしまったソルドを、ハイゼンは静かに廊下へ連れ出す。
 ソルドの背中に夫人のすすり泣きが聞こえたが、扉がしまるとそれも聞こえなくなった。
「昨夜のことです」
 呆然としたままのソルドに、ハイゼンが話し始める。
「央都警備隊も少ない日数でそれなりに動いたようですが、如何せん時間が足りなかったようです。犯人の手がかりも掴めないまま、強硬手段に出ました」
 この冷厳な執事長にしては珍しく、押さえきれない怒気を込めた言葉で続ける。
「お嬢様の安全を確保すら出来ないうちに、身代金引き渡しの現場で犯人を捕らえようとしたらしいのですよ。結果、犯人は身代金を持ったまま包囲網を破って逃走。……その報復行動なのでしょう、今朝になってあれが屋敷に送られてきました。特に手紙などは一緒ではなかったのですが、おそらく、お嬢様はもう……」
 沈痛な面持ちで、ハイゼンは夫人部屋のドアに目をやる。
「本来なら、行方不明になった商船の損害を埋めるはずだった援助金は、身代金に充てられました。それすら持ち去られた今、もう商会自体も終わりかも知れません」
 溜息をついて、ハイゼンはソルドに目を戻した。
「貴方だけの話ではありませんが、今後この屋敷もどうなるか判りません。傷を治しながら、身の振り方を考えて置いた方が良いでしょう」
「……あんたは?」
 どこか淡々としたハイゼンの物言いに、思わずソルドは尋ねる。
 その問いにハイゼンが返したのは、自嘲の笑みだった。
「私も諸々あってこの屋敷に身を寄せました。今後がどうなろうと、奥様のなさることを支えるだけです。小さな命も守れない老いぼれですが」
 そこまで言って、ハイゼンは慌てて付け加える。
「貴方を責めているわけではありません。話はミルドレイ様から聞いていますし、貴方の腕前も信用しています。あの場に貴方がいて、それでどうしようも無かったなら、他の誰がいてもどうにもならなかったでしょう」
 その言葉には真情が込められていたが、ソルドにはその心遣いすら胸に痛かった。
「とにかく、貴方は病院に戻りなさい。馬車を呼びますから……」
「……いや、いい。自分の足で戻るさ」
 亡霊じみた声色でそう言い、背を向けて歩き出したソルドを、ハイゼンは黙って見送った。
 
 ふらふらと歩いていたソルドは、気付いたらアナスタシアの部屋の前に立っていた。
 自分の部屋にいって荷物をまとめるつもりでいたのだが、やはりまだ血が足りないらしく、夢の中にいるかのごとく、意識がおぼろげだった。
 なにかに誘われるようにドアノブに手をかけると、鍵が掛かっていなかったのか、ドアがあっさりと開く。
 そのまま一歩を踏み入れる。
 一度も足を踏み入れたことのなかったアナスタシアの部屋は、人形で溢れていた。
 壁の棚には大小の様々な人形が飾られ、豪奢な天蓋のベッドも何体か人形がある。
 ベッド上の人形達の中に、一際大きなクマの人形の姿があった。まるで人形達のリーダーのようにベッドに腰掛けるその姿は、アナスタシアより大きいかもしれない。
 主人を失った部屋は静まり返り、帰らぬ主の姿を偲んでいるようにも見える。
 調度は豪勢で、掃除も行き届いて清潔感に溢れているが、なぜかソルドには部屋に漂う寂しさが感じられて仕方がなかった。
 それは、あの少女が抱えていた寂しさなのだろうか。
 どこか薄暗い部屋を見回したソルドの目に、小さな勉強机が目に入った。
 近づいて見ると、その上に革の装丁の本がぽつんと置かれている。背表紙にも題名が見あたらないところを見ると、日記のようだ。
 見てはいけないと思いつつも、ソルドは震える指先で表紙に触れて開く。
 その日記は、ソルドが屋敷にくる少し前から書き始められていた。
 書き始めは日々あったことを事務的に羅列するだけだったのが、ある日を境に様々な感情がその字面から伺えるようになった。
 日付は、ソルドが屋敷へ来た日。
 ──寂しい目をしたクマさん。わたしを守ってくれるって。
 やがて、内容は剣術会に移っていく。
 ソルド自身はかなり厳しく指導したつもりだったが、それに対する恨みや弱音など欠片も書かれていない。ただ充実した日々の喜びだけが綴られていた。
 剣術会当日、押さえきれない喜びと一抹の寂しさが漂う文章からすると、眠る寸前に書かれたものであろう。
 ──クマさんがいれば、なにも怖くない。寂しくない。ありがとう、クマさん。
 そして、その日記の一番最後の日付は、あの日の前日。
 ──これからも、ずっと守ってね、わたしのクマさん。
 それが、一番最後の一文だった。
「…………オレは、また…………」
 胸元に手を伸ばすと、そこには堅い感触がある。
 赤くなり始めた陽が差し込む部屋で、ソルドはじっと日記の最後のページを見つめたまま立ちすくんでいた。
 
 真っ暗な部屋の中、荷物をまとめたソルドは部屋を出た。
 暗い屋敷の中は静まり返り、火が消えたようだった。
 幸か不幸か、大して多くもない荷物を担いでソルドは屋敷を出た。おそらく、もう戻ることはないだろう。
 ミルドレイの話では、まだ首にはなってないらしいし、先程の夫人やハイゼンの態度を見ると、解雇される可能性はそう高くはないようだ。
 だが、ソルドにはもうあの屋敷で働く気力は無い。
 ディエンドル商会に限らず、もうどこかで誰かの為に何かをすることもないだろう。
 己のような無力な男に、何事であろうとできることなど思いつかなかった。
 ひたすら空虚な胸には、自らの命をどうにかしようとする動きすら、もう根こそぎ無く。
 ふらりとした足取りで、どこへともなくソルドが足を踏み出した時だった。
「──貴方、アナスタシア嬢の護衛の人でしょう?」
 通りかかった路地から急に声を掛けられ、ソルドはのろのろとそちらに顔を向けた。
「誘拐犯にやられて死にかけてるって聞いたけど、案外元気そうね」
「……誰だ」
 どこか馴れ馴れしく高慢な印象の声は、若い女のもの。
「初めまして、あたしはヒアリー。ヒアリー・メギスト。よろしくね、ソルド・ハインド」
「何者だと聞いている」
 路地から進み出てきたヒアリーと名乗る女は、やや細身で中背。運動神経が良さそうな体つきで、動きやすそうなパンツルックだった。
 薄い笑みを浮かべる顔は整っているという程では無いが、肩口までの赤毛を後ろに流し、あらわになっている大きめの瞳は油断ならない光を放ってソルドを見つめていた。
「第二央都に来てしばらく立つんでしょ? 新聞は読んだことない?」
「見たことはある」
「あれの記者、要はあれを書いてる人間の一人ね」
「オレを知っているのか?」
「少しだけ調べさせてもらったわ。名前さえ聞けば、人違いじゃなければ有名人だもの。ねえ、央都突入部隊副隊長さん?」
「……用がないならいくぞ」
 こちらを探るような物言いに、今はただあらゆるものが煩わしいソルドは、無視して歩き出そうとした。
「アナスタシア嬢、生きてるかもしれないわよ」
 ぴたり、とソルドの足が止まる。ゆっくり振り向くと、性格の悪い猫のようにヒアリーが笑顔を浮かべていた。
「用もないのに会いに来ると思う? あたしは貴方と手を組みたいの。どう?」
 
「ここなら少しくらい大きな声で話しても大丈夫よ。なにか飲む?」
 ヒアリーに誘われるままやってきた、飲み屋街の端にある小さな酒場。そこのさらに奥まった小さな部屋に招き入れ、ヒアリーは椅子に座りながらソルドに尋ねる。
 ソルドは出口に一番近い席に浅く腰掛けながら、首を横に振った。まだ傷の治療が途中であり、内臓が傷ついているのは間違いない今の状態で、下手な飲食は命に関わる。
 先程までの心境なら、それも良いかと思ったかもしれないが。
「ストイックなのね。それとも、警戒してる?」
「用件を早く言え。何を知っている?」
 勝手に解釈して笑うヒアリーを無視して、ソルドは鋭い視線を向けながら促した。
「そうね……アナスタシア嬢誘拐に関わる、その背景と陰謀、かな」
 牽制や韜晦は無駄だと思ったのか、ヒアリーはズバリと口にした。
 ソルドの目がすうっと細くなる。ヒアリーの言葉の真偽が気になるが、さらに尋ねる。
「やはり、たんなる誘拐ではなかったんだな?」
「話が早くて良いわね。そう、陰謀よ。あたしは、それを仕掛けた連中を世間に暴いてやりたいの」
「連中?」
「第二央都駐留軍最高責任者、マラガ将軍。それと、第二央都を裏で牛耳っている組織」
 あまりに簡単に手の内を明かしてくる相手に、ソルドの疑念が深まる。
 それが表情に出ていたか、ヒアリーが軽く笑った。
「貴方相手に腹芸しても、あんまり意味が無さそうだから。あたしと貴方の間に共通の利益があるってことを理解してもらった方が、協力してもらえると思ってね」
「もしお前の目的が本当なら、駐留軍相手に戦争でも仕掛ける気か? それに、その組織とやらも黙っているとは思えんが」
「まさか。調べた限りは、組織と繋がりがあるのはマラガ個人だし、暴いたところでマラガが失脚するだけでしょ。これでも危ない橋はいろいろ渡ってきてるの。身の守り方くらいは多少知ってるし、本当に危ないとなれば同士がしばらく護衛についてくれたりするの。あたしの仕事は、隠れているものを暴くだけ。それを知ってどうするかは、それを知った人達の仕事よ」
「無責任だな」
「そうかもね」
 辛辣なソルドの評にも眉ひとつ動かさず、ヒアリーはノックして入ってきたウェイターに飲み物を注文する。
 ウェイターがドアを閉めるのを待ち、ソルドは尋ねた。
「マラガ将軍がこの件に絡んでいると言ったな? 陰謀だと言うなら、どこからどこまでがそうだ? そして、何が連中の目的だ?」
「アナスタシア嬢誘拐から、身柄引き渡しの失敗まで。目的は金。判ってる限りは」
 答は簡潔だった。
「少なくとも、マラガ将軍はね。組織の方はよく解らないわね。大きな商会とも繋がりがあるらしいし、その辺からの依頼って線はあると思うけど」
「成り上がりを潰そうという話か」
「多分ね。ディエンドル商会は海峡越えの船団が行方不明になったせいで、ここのところ資金繰りに苦しんでたみたいだから。弱った相手にとどめを刺そうって魂胆だったんじゃない?」
 そこで、ヒアリーが頼んだジョッキと小皿のつまみが運ばれて来て、話が一旦途切れる。
「……オレになにをさせたい?」
「単刀直入ね。ではこちらも簡潔に言うわ。マラガ将軍邸に侵入して、組織との繋がりを示す証拠を掴んで欲しいの」
「証拠?」
「ええ。彼はかなりの小心者だし、人間的に典型的な小悪党よ。なにかあった時の為に、組織との取引なり、やりとりなりの記録があるはず」
「曖昧な話だな」
「公算が無いわけじゃないわ。流出してる彼が書いた公文書なんかを見てるとね」
 再び疑念の目を向けるソルドに、ヒアリーはにっこりと笑ってみせる。
「他に、なにか質問は?」
「……お前の利益は、とりあえず判った。だが、オレに利益があるか? そもそも、なぜオレが協力すると思った?」
「用心深いのね。でも、そういう人は、嫌いじゃないわ」
 口の両端をきゅうっと吊り上げて、ヒアリーはジョッキをあおった。
「最初は、この件についての話を、関係者の誰かから聞ければと思って屋敷を張ってたんだけどね。貴方を見つけたのは偶然。護衛なんてのも仕事の一つなんだから、失敗したら普通解雇。解雇されたなら、少しは口も軽くなってるかと思って話しかけたんだけどね。どうも様子がおかしいと思ってカマ掛けたら、反応があったから」
「……」
「アナスタシア嬢を取り返したいんでしょう?」
 意地の悪い笑みがヒアリーの顔に広がる。
 本当に油断ならない女だ。そうソルドは思ったが、もし本当にアナスタシアが生きていてどこかにいるなら、手がかりは今目の前にいる女しかいない。
「護衛しているうちに、情が移ったのかしら? まあ、あたしにはどうでもいいことだけど」
 余裕たっぷりに足を組み替えて、ヒアリーはテーブルの上に肘をついた。
「組織は人身売買に関しても関与しているわ。屋敷に死体が送られてきたわけじゃないでしょう? なら、せっかく金になる商品を無駄にするとは思えないけど」
「組織との繋がりを証明する手がかりを持ってくれば、その情報を教えるというわけか」
「そうよ」
 頷いて、ヒアリーは上着のポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
 受け取ったソルドがそれを開くと、屋敷の見取り図だった。話の流れからするとマラガの屋敷のものだろう。
「あたし達が行っても良いんだけど、見つかった時がやっかいだから。その点、貴方なら多少強引にでも逃げられるでしょ?」
「警備の状況は?」
 ざっと紙面に目を通しながら、ソルドは短く尋ねる。
「あまり強固ではないわね。組織と繋がっているんだから、下手な盗賊は入らないでしょうね。人数はそれほどいないわ。警備の人間はマラガが個人的に雇ってて、多分ほとんどは組織の人間だと思うわ。奥さんと子供がいるみたいだけど、田舎に引っ込んでるみたいで、今屋敷に住んでいるのはマラガだけよ」
「黒装束の連中はいるか?」
「アナスタシア嬢誘拐の実行犯達のこと? 同一人物かどうかは知らないけれど、それらしい連中が出入りしているって話は聞いてるわ」
「そうか」
 頷いたソルドは、見取り図を元の通りに畳むとヒアリーに投げ返した。
「写しだから、持って行っていいのよ?」
「もう覚えた」
 平然と答えて、ソルドは席を立った。
「連絡はどうしたらいい?」
「この店のカウンターにいる人間になら誰でも良いから、あたしの名前で呼び出してくれればいいわ。連絡がつく限りは、すぐにくるから」
「解った」
 後ろも見ずに、ソルドは足早に部屋を出て行った。
「頑張ってねぇ、あたしたちのために」
 ソルドの背中を見送ったヒアリーは、ニヤニヤしながらジョッキの残りを飲み干した。
 
         3
 
 真夜中を過ぎた頃、高級住宅街の通りをソルドは歩いていた。
 人通りはない。
 央都であれば見回りの警備兵が巡回していたりするのだが、第二央都では山の手に当たるこの辺でもその類を見かけることはほとんどない。この点だけでも、第二央都の治安維持はいい加減なものだとよく解る。
 僅かな靴音をさせながら歩くソルドは、明らかに武装していた。
 硬革の胸当てに、同じ材質で下腕部の外側と手の甲を守る簡単な造りの小手と、脛当て。長剣はともかく、短剣を腰の後ろと長剣の鞘に鞘ごとくくりつけている。
 侵入目的にしては、軽装といえども明らかに不向きだ。
 広い敷地の屋敷が多く屋敷と屋敷の間は広いが、植え込みや柵、街路樹などが茂っていて、それほど見晴らしは良くない。
 歩きながら、ソルドは腹の辺りに手を触れた。
 無理を重ねたせいで開いた傷口からはすでに血が滲んでいる。傷ごと腹にはきつく布を巻き付けてあり、気休めだが多少は傷がさらに開くのを防いでくれるだろう。
 じっとりと額に浮いた汗を拭う。
 足が鉛のように重いが、立ち止まろうという気は、心の隅にも無かった。
 ただ、進ませる一足一足が、アナスタシアに近づいていると信じて。
 やがて、大きな門の前で、ソルドは立ち止まった。
 一際広い敷地と街路を隔てる門は大きく、格子状の門扉の向こうに、太い木製の閂が掛かっているのが見えた。
 ソルドは周囲を見回す。
 虫と夜鳥の声が聞こえるだけで、通りがかる人も馬車もない。
 無造作に門の一部に足をかけたソルドは、その大きな身体からは想像も出来ない身軽さで門を駆け上り、あっさりと向こう側に降りた。
 屋敷は門から真っ直ぐ正面にあり、法術の灯りがあちこちに灯され、闇の中に浮かび上がる姿がソルドからは見える。
 歩き出そうとしたソルドに、複数の吠え声が近づいてきた。
 闇の中やってきたのは、黒と濃い茶色の毛並みの大きな軍用犬が三頭。立ち上がればソルドと同じくらいの大きさがあるだろうことが、暗闇の中に光る目の位置で解った。
 一頭でも人間など簡単に引き裂いてしまいそうだったが、逆にソルドは安心していた。
 侵入者の足止めと、飼い主に侵入者の存在を知らせるように訓練された番犬と違い、侵入者の撃退を目的とした軍用犬なら、こちらに向かってきてくれる。
 凄まじい勢いでこちらに跳びかかってくる一頭の白い牙を見切り、首を刎ねる。
 あっさりと片づけられた同類の姿にもなんの感慨もないのか、残りの二頭も、勢いをまったく減じないまま跳びかかってきた。
 黒白戦争で、目の前の犬など子犬にも見えない化け物達相手に戦ってきたソルドには、たかが軍用犬に恐怖など浮かぶはずもない。
 右から来た奴を袈裟に切り下げ、その勢いを殺さないまま、身体ごと横にスライドしてもう一頭を避ける。
 目標を失って着地した相手が体勢を整える間もなく、その頭蓋を叩き割る。
 ソルドは素早く周囲の闇をを見回し、耳を澄ます。どうやら三頭だけのようだった。
 最初に犬たちが吠え始めてから、ほとんど時間が経っていない。
 小動物が敷地内に侵入してきても犬は吠えることがある。おそらくは、それほど不審には思われていないだろう。
 それでも少し急いだ方が良いかと思ったソルドは、血払いした長剣を抜き身のまま手に持ち、屋敷の玄関に向かった。
 警備の人間がいるなら、最低限の見回りくらいはするのだろうが、ボンヤリと灯りに浮かび上がる玄関に人影は無い。
 大きく厳めしい分厚い扉には、獅子のノッカーが付いていた。
 ソルドは苦しそうに大きく一つ深呼吸して、両開きの扉の真ん中。閂がありそうな辺りに長剣の切っ先を当てる。
「……ふっ!」
 短い気合いと共に長剣の半分が扉の間に潜り込んだかと思うと、扉が爆発したように開き、凄まじい音を立てて蝶番を軸に壁へ激突した。
 半分切断、もう半分が折れて飛んだ閂がホールを転がり、騒々しい音を響かせる。
 屋敷内に歩を進めるソルドの呼吸は、傷のせいか浅くやや速いが、たったいま発揮した破壊力の影響はどこにも見えなかった。
 広い玄関ホールを油断無く見回すソルドの後ろで、壊れた蝶番でかろうじて支えられていた扉が床に倒れ、大きな音を立てる。
 薄暗い屋敷内に慌ただしい空気が流れ始めたが、ソルドはその場に立ったままで、逃げだそうとはしない。
 ソルドは元々侵入するつもりなど無かった。
 始めから強襲するつもりだったのだ。
 ややあって、法術式の手灯りを持った警備の男達が玄関ホールに姿を見せた。
「な、なんだ、貴様は!」
 誰何の声にも狼狽が強い。訓練された人間では無いようだ。
 数は十人。武装は槍に剣くらいだ。気を抜いていたのか、鎧の類を身につけている者は一人もいない。
「……マラガ将軍に用がある」
 はっきりとそう言って、ソルドは歩き出す。
 そこでようやく自分たちの役割を思い出したのか、男達が躍りかかってきた。
 ほとんど一瞬で二人切り伏せる。
 それを見て、残りの連中は明らかに怯んだ様子だったが、リーダーらしき人間が檄を飛ばし、ソルドを半円状に取り囲んだ。
 だが、先駆けてソルドに掛かっていくほど度胸のある者はいないらしく、ソルドが移動すると、それに合わせて包囲も移動するという体たらくだった。
 やがて、一人の構えた槍の石突きが壁に当たって、コツンと小さなを音を立てた。
 それで緊張の糸が切れたか、何人かが悲鳴じみた怒号を上げて突っ込んでくる。
 突き込まれてきた槍を交わしつつ間を詰め、一撃を繰り出そうとしたソルドの首筋に、冷たい殺気が触れた。
 素早く反応して身を交わした瞬間、間を詰めようとしていた男の首と胸に、尖った形のナイフが三本突き立った。
 ゴボゴボと濁った声を漏らしながら倒れる男を背にソルドが振り向くと、見覚えのある黒装束が三人、ホールに現れていた。動きに見覚えがある。アナスタシアの誘拐に関わった面子だろう。ちらりと見ただけで、自分に刃を突き立てた奴はいないことを見て取る。
 立場的には味方が現れたというのに、警備の男達に明らかな恐怖が広がる。
 おそらく、協力的な立場ではないのだろう。それはたったいま味方であるはずの男の存在を無視してナイフを投げつけていたことでも判る。
 ソルドが油断無く構えると、警備のリーダーが部下に檄を飛ばし、自分は屋敷の奥の方へ走り出すのが見えた。マラガに報告に行ったのだろう。
 あまり時間を掛けると逃げられるか。
 警備の人間をおびき寄せるだけおびき寄せてからまとめて始末し、ゆっくりマラガから話を聞くつもりだったが、少し急いだ方がいいかもしれないなと思いながら、ソルドは周囲を確認する。
 黒装束が三人に、警備の人間が残り六人。
 連携が無いことを考えればさほど怖くはないが、警備の人間はともかく、黒装束の連中が少し厄介だった。味方の事をまったく考えないタイミングで攻撃を仕掛けてこられると、かなりやりにくい。
 前回の戦いで、黒装束達の戦法は大体把握している。
 手強い敵に対する連中は、狼のように一人が捨て身で攻撃し、それに対応した相手の隙を突いて攻撃してくる。味方の命を道具としか思っていない戦法だが、有効な戦法でもある。
 元々の出自が暗殺目的なのだから、自分の命よりも相手の命を奪うことが至上になるのは当然なのかもしれなかったが。
 しかも、今は盾にしても惜しくない味方が多くいる。彼らを捨て石にすることになんの抵抗もないことは、すでに証明されている。
 常にこちらの死角に回るように移動し続ける黒装束達に注意しなから、ソルドは身構えた。
「うおああぁぁっ!」
 再度緊張感に耐えられなくなった男が三人、それぞれの得物で襲いかかってくる。
 三方向からの攻撃の隙間を縫って身を躱し、槍を持った男を一刀で切り捨て、そのまま滑るような動きでその背後に回ると同時に、男の身体へ数本のナイフが突き立つ。
 ソルドは背後から男のベルトを掴んで持ち上げると、そのまま怯んだ男達に突っ込んだ。
 悲鳴を上げて逃げようとする男達にぶつかる寸前、持ち上げていた男の身体を投げつけ、その隙にもう二人を斬りつける。動きを止めずにさらに身を翻すと、もといた場所を銀光が走り抜ける。
 これで男達は残り三人。
 このまま数が減れば自分たちの優位が揺らぐ。
 声を出さず、態度にも表れないが、黒装束達の間に焦りの空気が流れるのが判った。
 仕掛けてくるな、とソルドが思った瞬間、素早く手信号でやりとりした黒装束達が動いた。
 それぞれが、残った三人の背後からソルドに迫る。
 内、もっとも近い相手にソルドが身体を向けると、自分が標的にされたと思ったのだろう、手前の男が背後に気付かないまま奇声を上げて剣で斬りかかってきた。
 その背中に、ナイフが突き立ったのは次の瞬間だった。
 惚けたような表情で、男は走り出した勢いでソルドに向かって倒れ込んでくる。
 さすがに意表を突かれたソルドは、一瞬動きを止めてしまった。
 そこへ、倒れた男の背後から間を詰めていた黒装束が、疾風のような速度で曲刀を突き込んできた。
 避けきれないと判断したソルドは、硬革鎧の表面で切っ先を受けつつ逸らし、距離が詰まりすぎたのを蹴り離すと一呼吸でその黒装束を唐竹割にする。
 だが、その隙に飛んできたナイフを避ける余裕は無く、なんとか頭を守った上腕に二本のナイフが突き立つ。
 さらに、警備の男の背後からその肩を踏み台にして跳躍した黒装束の一人が、頭上から襲いかかった。
 攻撃の隙にナイフを喰らうことを予想していたソルドは、ほとんど怯まずに前方に転がってそれを交わすと、着地と同時にこちらを向いた黒装束の顔を下から断ち割る。
 そして、下から振り上げられた剣は、そのままの勢いで、ナイフを投げつけた次の瞬間武器を持ち替えてソルドの背後に迫っていた最後の一人を、上から叩き潰すように両断した。
 ソルドは炎のような吐息を突きながら、無造作に腕に刺さったナイフを抜いて床に放り、残りの二人に目を向ける。
 そのほとんど瞬時の攻防を見ていた残り二人の男は、ソルドに目を向けられて恐怖が限界に達したのだろう、ほぼ同時に白目を剥いて気絶してしまった。
 もうそれには目もくれず、ソルドはマラガの自室に向かって歩き出す。
 歩きながら袖を破って傷の止血をしつつ、屋敷の見取り図を思い出した。
 それほど時間は掛からなかったが、もしマラガが逃げようとするなら、馬車を使おうとするはずだ。外には軍用犬が放し飼いにされていたし、飼い主とはいえ暗闇の中、猛犬がうろついている中に生身で逃げ込みはしないだろう。
 逃走経路を考えながら、行き違いで逃げられないようなルートでマラガの部屋へ向かう。
 先程始末した連中が屋敷にいた警備の総てらしく、特に妨害らしい妨害も受けずにマラガの部屋の前まで来た。邸内には戦闘要員以外の人間もいるのだろうが、戦闘の空気に震え上がって部屋に閉じこもっているのだろう。
 ソルドがドアの前まで来ると、中のやり取りが聞こえてくる。
『ええい! 一体何者なのだ!』
『判りませんが、恐ろしい手練れのようで。今例の連中が足止めしているところなんで、今の内に逃げた方がよろしいかと』
『ふん、路頭に迷おうとしていたところを拾ってやったんだ。せいぜい働いて貰わんとな!』
 傲慢な声はマラガのものだろう。こちらに向かって来る気配がしたので、足音が扉の前に来るまで充分待ってから、ソルドは扉を思い切り蹴り開けた。
「ぶげらっっ!」
 肉と骨が扉にぶつかる鈍い音と、みっともない悲鳴が聞こえ、扉が開く。
 大きな執務用の机と本棚、それにソファ一式。大きな部屋は、置いてある家財、敷いてある絨毯やカーテンだけ見ても、知識のないソルドがすぐに判るほど高価で豪奢なものだった。
 部屋の中には二人。
 さきほとホールで見かけた男ともう一人。扉の一撃を喰らって吹っ飛び、絨毯の上に四つん這いになってひいひいと呻きながら、ポタポタと絨毯の上に血を落としているガウン姿の男がマラガだった。
 ソルドは会話を交わした事こそ無いが、軍属だった時には何度か見かけたことがある。
 ほんの数年前の話なのだが、今目の前で這いつくばってる姿は、脂ぎって肥え太った豚のようだった。綺麗に顔面を扉にぶち当てたらしく、口元と鼻から血が溢れていた。
 以前に見かけた時は、やや太っていたものの、まだしも軍人らしさがあったと思ったが。
 どうやら第二央都にきてから、相当に旨い汁を吸っていたようだ。
「な、なにをしている、ワシを助けんかっ!」
 歯も折れたのか、濁って発音が不明瞭な声で、マラガは呆然と突っ立っていたもう一人の男を叱咤する。
 慌てて抜刀しようとする男の横っ面へ、無造作に近づいたソルドの長剣の腹が吸い込まれた。
 男はカエルが潰されるような悲鳴を上げて腰を中心に半回転すると、ソファの上に逆さまに落ち、両足をぶらんとさせたまま動かなくなった。
「さて……」
 ソルドが溜息を吐きながら振り返ると、床に這いつくばったままのマラガと目が合う。
「ききき、貴様っ! 一体何が目的なのだ!」
 尻で絨毯を掃除しながら後ずさったマラガは、机に背中をぶつけて悲鳴じみた声を上げた。
「聞きたいことがある」
「き、きき、聞きたいことだと?」
 なんとか高圧的な態度に出ようと、歪んだ表情になるマラガの目は、ソルドがだらりと下げた血刀に吸い寄せられ、濃い怯えの色を浮かべていた。
「ディエンドル商会令嬢の誘拐事件に関してだ」
「し、知らん」
「あんたがその件に関して、組織と通じて企てたという話を聞いている」
 すうっと上げられた長剣の切っ先が、ぴたりと、マラガの鼻先を捕らえる。
「ちょ、ちょっと待て! なぜワシに訊く! 元々組織の連中と、ディエンドル商会で企てた話ではないか! ワシに訊くなどお門違いも甚だしいわ!」
「……なんだと?」
 不意にマラガの口から漏れた話に、ソルドが眉をひそめる。
 どういうことだ?
 予想していなかった話に、一瞬ソルドの構えた切っ先が揺れる。
 その一瞬の隙に、マラガが意外な素早さで立ち上がり、机の上に手を伸ばした。
 だが、ソルドを出し抜くには、絶対的に遅すぎた。
 雷光の速さで抜かれた小剣が、机の上のペン立てに届こうとしていたマラガの手を、机の上に縫い止めた。
 絶叫が屋敷に響き渡る。
 ペン立ての中かペン自体にかは知らないが、おそらく仕込みの封呪筒でもあったのだろう。自分の手を縫い付けている小剣を抜くとも出来ず、激痛に呻いているマラガの目には、多少の悔しさが滲んでいた。
 優しいとも言える手つきでソルドは小剣に手をかけ、そのまま少しこじった。
 さらに絶叫が上がる。
「……さらに、色々と聞かせてもらう必要ができたようだ」
 静かなソルドの声は、氷原を渡る嵐のように冷たく、厳しい。
 激痛で暴れ出そうにも、更なる激痛を呼んでしまうために動けないマラガは、ソルドの顔を見上げ、そこに浮かんでいる表情に凍りついた。
「聞かせてもらおうか。あんたの知っていることを洗いざらい……全部な」
 マラガの顔が、生きたまま地獄に落とされたように恐怖で歪んだ。
 
          4
 
「貴方なにやったの? 山の手の方で、もの凄い騒ぎになってじゃない!」
 マラガ邸襲撃の翌日。まだ昼前で準備中の酒場に呼び出されてきたヒアリーは、奥の部屋に入るなり、怒った顔で言ってきた。
「昨晩、マラガの屋敷を襲撃してきた」
「しゅっ……?!」
 無感情に返すソルドに、ヒアリーが絶句する。
「これが約束のものだ。受け取れ」
 言葉を失うヒアリーに、ソルドは紐で綴じられた紙の束を放った。
 受け取った紙束のところどころにこびりついた赤黒いものに気がついたヒアリーは、盛大に顔をしかめたが、簡単に中身を確認する。確かに、求めていたもので間違いはない。
「そちらも、約束を果たして貰おう」
「……」
 こころなしか青ざめた顔で、ヒアリーは肩に提げた小さな鞄から四つ折りの紙を取り出した。
「……組織内で人身売買に手をつけている連中が、アジトにしているところよ」
「ここも山の手だな」
 紙の中に描かれていた地図を確認したソルドが、ヒアリーに目を向ける。マラガ邸からは離れた地区だが、高級住宅街なのは間違いない。山の手にあるからには、周りの邸宅と見劣りしないような建物なのだろうが。
「……ある貴族の持ち物よ。どうもその貴族も人身売買には関わっているみたいね。一応忠告して置くけど、マラガの屋敷とは比べものにならないくらい、警備が厳重よ。屋敷の周りをちょっと探るだけでも命が危ないわ」
「そうか」
 早口に言ってくるヒアリーに、興味が無さそうな声でソルドが返す。
「……まさかそこも襲撃するつもり」
「手っ取り早いからな」
「貴方、頭がおかしいわ」
「そうかもな」
 大量失血に加え、無理を重ねたせいで、死人よりも深い死相を刻んだソルドの顔を、ヒアリーは気味悪そうに見つめた。
 央都突入作戦に投入された部隊の人間は、正規・傭兵を問わず、みな化け物じみた連中だったとヒアリーは人づてに聞いていたが、目の前の男を見て、それが妄言でも誇張でもないことを思い知らされていた。
「……こちらも一応警告しておくが、この件に関わる情報は、事態が一段落するまで表に出さない方がいいだろう」
「は? 何言ってるの、こんな特ダネ出さずにとっておくなんて……」
「お前達が思っているよりも、おそらく組織は危険で大きい。すでに、お前達は組織から目をつけられている」
「え?」
 尋問時のマラガの発言からすると、ソルドのことをディエンドル商会か新聞を発行している者達の手のものだと思っている様子だった。
「お前達は、人身売買をやっている連中が組織の中心と思っているようだが、違う。もっと後ろにでかいのがいるようだぞ。そっちの連中は、お前達があまり踏み込んでくるようなら、始末するつもりでいるらしいな。マラガは最終的にオレをディエンドル商会の人間だと勝手に結論づけていたようだから、今のところオレとお前が繋がっているとは思っていないはずだ。だが、その書類があまり早い段階で明るみに出ると、お前達の指示でオレがやった思われる可能性があるだろう。そうなれば、お前達は組織と駐留軍、両方を敵に回すことになる」
「…………箝口令が敷かれてて判らないんだけど、マラガは生きているの?」
「トドメを刺さなかったからな。生きているんじゃないか? とりあえず、マラガの口が利ければ捜査はディエンドル商会に向くだろうし、しばらく大人しくしていれば、お前達が狙われることは無いだろうな」
 そう言って立ち上がったソルドに、ヒアリーが慌てた。
「ちょ、ちょと待ってよ! それって、あたしに手を引けって事?」
「これ以上は本当に危険だ。オレはお前らまで守ってやるつもりはないしな」
「馬鹿にしないでよ!」
 突然激昂したヒアリーがソルドの襟首を掴んだ。ヒアリーが取り立てて背が低いわけではないが、大柄なソルド相手だと、まるでぶら下がっているようにも見える。
 ソルドは特に避ける様子もなく、振り払う気配もなく、させるがままだ。
「危険な目にあったことなんて、この仕事始めて何度もあったし、駐留軍に目を付けられるのだって今に始まったことじゃないわ。あたしがこの仕事に関わるのは、これがあたしの見つけた戦う手段だからよ。危険だからって、はいそうですかと止めるような半端な気持ちでやってるわけじゃないのよ!」
 怒りに燃えるハシバミ色の瞳には、様々な感情が交錯していた。彼女が危ない橋を渡ろうとするのは、彼女なりの理由があるのだろう。
「なら好きにしろ。本当に危険なのは、軍ではなく、組織だということだけ覚えておけ」
 それ以上言葉を重ねる愚を犯さず、ソルドはそれだけ付け加える。
 とりあえずはその言葉に納得したのか、手を離そうとしたヒアリーが、ソルドの首から下がった銀鎖に目を止めた。
「似合わないものを付けてるのね」
 何かヒアリーの興味を引いたのか、止める間もなくソルドの胸元からチャームを引き出した。「魔王……?」
 現れたペンダントヘッドにヒアリーは眉をひそめる。
「異端ね」
「……一応、教会でもらったものらしいがな」
 不躾なヒアリーに対し、特に腹を立てた様子もなくソルドはチャームを懐に戻した。
「魔王崇拝は、大陸のどこに行っても異端よ。一応、表だって弾圧こそされていないけど。それ、本当にちゃんとした教会?」
「さあな。オレにとってはどうでもいい」
 素っ気なく言い捨てて部屋を出て行こうとするソルドの背中に、ヒアリーは早口で言った。
「夜にもう一度ここに来て。それまでに、そこの情報を調べるだけ調べておくから」
 ソルドは物言いたげにヒアリーを一瞥したが、黙って頷くと酒場を出て行った。
 
        **********     
 
「お待たせしました」
「申し訳ありません。大変な状況でしょうに」
「……ええ、それはまあ」
 屋敷の応接室に入ってきたハイゼンは、客の労りに言葉を濁した。
 昨日の今日だ。夫人は食事も摂らずに部屋へ閉じこもっているし、クライムの動向はよく判らないが、昨日から帰って来ていない。最近は特にそうだったが、クライムは商会関係の事柄には商会で雇った人間を使っているので、屋敷付きの執事であるハイゼンには情報が届きにくい。それなりに情報網はあるが、後手を踏みがちなのは否めない。
 なにより、屋敷そのものに立ちこめる絶望感のようなものに、どっしりと押さえつけられてしまっている気がした。毎日こなさなければいけない仕事はあるが、はかどらないことおびただしい。それでも、手の動かない使用人達を、ハイゼンは叱ることができない。
 軽く溜息を吐きながら応接セットのソファに座りつつ、ハイゼンは促した。
「それで、お話は彼についてでしょうか」
「……はい。実は、彼が病院から消えました」
 客──ミルドレイは、眉を寄せて切り出した。
「それはいつの話でしょう?」
「昨日の朝です。それ以降、彼の姿を見た人間はいません。こちらの方には?」
「昨日の今ほどに姿を見せました。その後病院に戻ったと思っていました。今朝になって、彼の部屋から荷物が無くなっていることにメイド長が気がついたので、まさかとは思いましたが……」
「解雇通知を受けていないのですから、職場放棄ですな……。大変、申し訳ない」
 ミルドレイが身を正して頭を下げるのに、ハイゼンは恐縮して言った。
「いえ、とんでもない。彼はよくやってくれていましたし、お嬢様がああなってしまって、彼がどれだけショックを受けたかも想像できます。どちらにしろ、動き回れるような身体ではないはずですから安否は気になりますが、特に咎め立てするつもりはありません」
「重ねて申し訳ありません。それで、お話しておきたいことがあるのですが……」
「なんでしょう?」
「昨晩、マラガ将軍邸が襲撃されました。事件そのものに箝口令が敷かれているのですが、軍から犯人像と、捕縛協力要請がこちらにも来ています。それがどうも……」
「まさか」
「犯人像を聞く限り、可能性は高そうです。ついては、もしこちらに彼が姿を見せたら、我々に連絡して頂きたいのです」
「……彼を捕縛するのですか?」
「いえ、保護です」
 きっぱりとミルドレイは言った。
「事件そのものに箝口令を敷くということは、マラガには余程探られて痛い腹があるようです。ソルドはそれを握った可能性があると思っています」
 黙って話を聞きながら、ハイゼンはミルドレイの真意を測りかねていた。単なる一介の執事長に、そこまで話す目的はなんだろうか。
「……ひょっとしたら、アナスタシア嬢は生きているのかも知れません」
「なんですと?」
 不意にミルドレイの口をついた言葉に、ハイゼンは驚いて腰を上げかけた。
「どういうことです」
「今のソルドがそんな強硬手段をとる理由は、アナスタシア嬢絡みとしか思えないのです。もちろん根拠のない想像ですが、それほど的外れではないと思っています」
「……」
「おそらくディエンドル商会にも軍が捜査にくると思います。それに対しては、ソルドの行方に関しては知らぬ存ぜぬで通して頂きたい」
「実際、どこに行ったか知らないわけですが」
 自嘲の笑みを浮かべて、ハイゼンは頷く。
「わかりました、もし彼を見かけることがあれば連絡します。軍に対する協力も最低限にしましょう。それでよろしいでしょうか?」
「お願いします」
 その後いくつか確認をとった後、帰るミルドレイを見送りに玄関まで出てきたハイゼンは、馬車に乗ろうとするその背中に尋ねた。
「彼を保護するのは、その情報を使ってマラガに報復するためですか?」
 ぴたりと動きを止めたミルドレイは、ハイゼンに身体ごと向き直った。
「正直に言えば、そういう気持ちがないとは言いません。昨今の軍のていたらくに、含むところが無いわけでもありません。ですが、なによりも、あいつが一人で戦っているなら、手を貸してやりたいのです。前回も、その前も、私はあいつに何もしてやれなかった。今回は……手を伸ばせば届くところにいる今回こそは、そうしてやりたいのです」
 それが義務感か罪悪感なのか、それとも親愛なのかは知るよしも無かったが、その言葉に込められた真摯さだけは、ハイゼンにも充分に伝わった。
「失礼なことを言いました。どうかお忘れ下さい」
「いえ。ではよろしくお願いします」
 走り去る馬車を見送り、ハイゼンはゆっくりと溜息を吐き出した。
 先程の話を主人の耳に入れるのは、少し待った方がいいだろう。ぬか喜びになる可能性だってあるのだから。
 ふと空を見上げれば、厚い雲が垂れ込めている。
 自分達が哀しみに沈んでいる時に、彼は一人で戦っていたのだろうか。
「貴方は、どこでなにをしているのですか……」
 曇天から、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
 
   
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