二章・信頼と災禍と
 
        1
 
「あの若いの、ここのところ真面目にやってるみたいじゃないか」
 いつもの、屋敷の雑務を取り仕切る二人、食事後のちょっとしたやりとりの時間。
「真面目といっていいのでしょうか」
「仕事中に酒飲むことは無くなったみたいだけど」
「それを真面目と言っていいのかは疑問ですが。至極当然のことでは?」
「そうかも知れないけどね。来たばかりの頃のガラクタみたいな状態からは随分マシになったと思うけどね」
「まだそうなって一週間。信用するのは早いかと思います。一時的なものかもしれません」
「厳しいね。夜の見回りだってきちんとやってくれてるみたいなんだし、もうちょっと優しい目で見てもいいと思うけど。給料も随分叩いたんだってんだろ?」
 ハイゼンに食後の茶を出してやりながら、メイリンは自分の分の茶を手に席へ座る。
「まだ給金相当というところでしょうね」
「なんか聞いたところによれば、あの若いのを紹介したなんとかいう元将軍様っていうのは、できた人だってんだろ。それほど変なのは連れてこないんじゃないかい?」
「ミルドレイ様ですか」
 綺麗に整えられた口髭が茶に浸からないように注意しながら、ハイゼンがカップを傾ける。
「軍人としては有能なのですが、お優しいので政治向きではない方です。本来ならば、この第二央都軍組織の頂点におられるはずだったのに、明らかに軍事的実績に劣るマラガ将軍にとって変わられたくらいですので」
「マラガって今の将軍だっけ」
「そうです。第二央都の治安の悪さは、確実に何割かは彼のせいでしょうね。あちこちのあまり大きな声では言えない組織との癒着も噂されていますし」
「いやな話だね」
「ミルドレイ様とは何もかも対照的ですね。……少し話が逸れましたが、ミルドレイ様は部下を大切にされる方ですし、多少の欲目は差し引いて考えた方がいいかと思います」
 メイリンは苦笑いして言った。
「ほんとに厳しいね」
「……旦那様は、ここのところかなり危ない橋を渡っておられるようですので、せめて屋敷内のことくらいは、憂いのないようにしておきたいのですよ」
「前にもしてた話かい。穏やかじゃないね」
「犯罪行為ではないのだけが救いではありますが……。すいません、また愚痴っていますね」
「いや、構わないよ。お互い連れ合い亡くして、愚痴言う相手もいないからね。そのうちアタシの愚痴も聞いてもらうとするよ」
 闊達に笑うメイリンに、ハイゼンも苦笑いを返す。
「唯一良かったと思うのは、お嬢様の表情が明るくなられたことですか」
「ああ、やっぱりあんたもそう思うかい? あの若いのが入った一番の幸いだと思うね」
「否定はしませんが……彼の何が気に入ったんでしょうか?」
「いまだに髭面だから分かり難いけど、ありゃ結構いい男だよ。身なりさえ整えれば、かなりの伊達男になるんじゃないかね」
「お嬢様は、まだ十歳ですよ?」
「女は生まれた時から女さ」
 その言葉を聞いた途端、不機嫌そうな皺を眉間に刻んで唸るハイゼンに、メイリンは大笑いする。
「ま、それは半分冗談としてね。お嬢様には、アタシらに見えてないもんが見えてんのかもしれないよ」
「そんなものでしょうか」
「そうかもねって話さ」
 年齢に似合わない愛嬌のあるウインクを投げて、メイリンもカップを傾けた。
 
 中庭の方から、懸命なのだと思うが、どうにも気合いの入っていないかけ声が微かに聞こえてきた。
 教会での勉強が早めに終わり、屋敷に帰って来たソルドは、昼食後のぽっかりと空いた時間を持て余して、見回りを兼ねて屋敷の中をそぞろ歩いていた。
 西の棟を回り終え、東の棟に移動しようと中庭に差しかかったところで、その声を聞いた。
 屋敷に来てから随分と聞き慣れた声だったが、その主がなんでそんな声を出しているのかは皆目見当がつかない。
 首を捻りながら中庭を見渡せるところまでいって、ぐるりと見回す。
 いた。中庭でも一際枝振りのいい大きな木の木陰で、声の主はなにやら棒を振り回しているところだった。
 まるで畑を耕しているような動きで、気の抜けるような声を出しているのはアナスタシア。
 鍬ではなく、ただの棒なので、まさか本当に地面を耕しているわけではあるまい。
「なにをやっているんだ?」
 ソルドが背後から声をかけると、よほど熱中していたのか、アナスタシアは声を上げて猫のように驚いて飛び上がると、棒を放り投げてしまった。
 棒は結構な勢いでソルドの顔面めがけて飛んできたが、慌てもせずにそれを受け止めたところで、アナスタシアが大慌てで振り返る。
「く、クマさん? びっくりした……」
 胸を押さえたアナスタシアは、パチパチと忙しなく瞬きしてから満面の笑みになる。自分がソルドの顔めがけて棒を投げてしまったことには気付いてないようだ。
「オレの気のせいでなければ、剣術かなんかの訓練か、それでなければ農夫にでもなるつもりかに見えたが?」
 一時期のような拒絶的な態度ではないものの、いまだにいまいち堅さの抜けない口調で、ソルドは受け止めた棒を差し出した。
 アナスタシアは礼を言って棒を受け取ると、唇を尖らせる。
「なんで農夫が出てくるの?」
「そう見えたからだが」
「……剣術のお稽古だよ」
 真顔で答えるソルドに、やや憮然とした顔でアナスタシアは言った。
 彼女はいつものスカート姿ではなく動きやすそうなパンツ姿で、おそらくは乗馬用の服装だろうなと思いながらソルドは重ねて訊く。
「なんでそんなことを?」
「お休み明けに、学校で剣術会があるの……」
 ふと視線を足下に落として、消え入りそうな声になるアナスタシア。その態度を見れば、好きで練習などしてるわけではないのが解る。
 剣術会とは、軍が出資している学校などでよく行われる、腕比べのイベントだ。
「そんなものに参加するのか?」
 昔、軍学校に通っていた頃の記憶を掘り返しながら、ソルドは訊いた。記憶によれば、その類のイベントは希望者を募って行われるものだったはずだ。
「推薦、されちゃったから」
「嫌なら辞退するなり休むなり、適当にこなすなりすればいいんじゃないか?」
「…………それは、イヤ」
「なんで?」
「……」
 この少女には珍しく、黙り込んで踵を返すと、そのまま素振りのようなものを再開した。
 ソルドは、その妙に頑なな態度をいぶかしく思いながらも、それ以上は言葉をかけずに、その場を後にした。
「おや、見回りかい? ご苦労さん」
 西の棟に入ったところで、ソルドは真新しいシーツを抱えたメイリンと出くわした。
 ソルドが入ったばかりの時はやや距離を置きがちだったメイリンも、その就業態度が変化してからは愛想良く挨拶をしてくるようになっている。
「少し訊きたいことがあるんだが、いいか?」
「なんだい?」
 ソルドは、そのまま擦れ違って行き過ぎかけたメイリンの背中に声をかけて呼び止めた。
「アナスタシアの通ってる学校ってのは、結構良いところなんだと思うんだが」
「結構どころか、第二央都じゃ一・二を争うくらいいいところだよ」
「ようするに、お嬢様お坊ちゃんが集まる学校だろう。剣術の授業なんてあるのか?」
「ああ。前の戦争での反省を踏まえて、市民にも最低限の戦いの仕方を覚えさせるべき、とかいう理由で学校でも教えるように教えるようになったみたいだね」
 あの戦争以降、日々を自堕落に生きてきたソルドは、やや一般常識に関する知識が乏しい。公共の施設としての学校は都市部にしかないし、すでに成人しているソルドにとって学校は縁が薄いものの一つだ。なおのこと、その制度の変化など知るはずがない。
 前回の戦争では、一番最初の戦闘が央都の中心で起こった。
 もちろん、央都は大陸有数の軍事力を保持していたが、当然それは対外的なものであって、央都に向かって整備されたものではない。非戦闘員である市民の混乱が軍の動きを阻害した結果、敵勢力への対応が致命的なまでに遅れ、それが戦争を長引かせた一つの要因だった。
 最低限でも市民への兵科教育によって、同じような状況になった時の混乱を少なく押さえようという考えなのだろう。剣術というのも、兵科教育の一環なのだろうが。
「お嬢様、頑張ってるみたいだね」
 つらつらとその理由について考えているソルドに、窓から中庭を見たメイリンが言った。
「なんでアナスタシアはあんなにムキになっているんだ?」
「……お嬢様、あんまり学校じゃ上手くいってないみたいだからね。休んだり、一人だけ明らかにへたっぴだったりすると目立っちまうから、それが嫌なんじゃないかねぇ。今回剣術会に推薦されたのだって、同級生のからかい半分なんだろうし」
 雇い主の娘に対する呼び捨てをたしなめもせずに、庭のアナスタシアを見つめるメイリンの目には気遣いが溢れていた。
「学校でも教えてるくらいなら、専門の家庭教師がいるんじゃないのか。雇えばいいような気もするが」
「学校であんまり上手くいってないのは、奥様達には知られたくないみたいでね。それに、あんたも旦那様にあったことあるだろ。奥様はともかく、旦那様はうんって言わないだろうし」
 筋金入りの吝嗇家らしいクライムの顔を思い出し、さもあろうとソルドは納得した。
 この屋敷に雇われて以降、クライムを見かけることはあっても、会話を交わしたことは一度も無い。夫人とは事務的なやりとりをすることが多い分、クライムよりも夫人に雇われているような感覚が強かった。
「そうだ、もし良かったら、アンタがお嬢様に教えてあげてくれないかね?」
「オレが?」
 予想もしていなかった提案を受けて、ソルドは目を白黒させた。
「ああ。どうせお嬢様が屋敷にいる時は暇だろ。それにあんた随分強いそうじゃないか? その辺の家庭教師なんか頼むより、あんたが教えてくれた方が、お嬢様にとってもいい気がするんだけど」
 確かに、おそらくそれが一番いいのだろう。
 だが、自分の身につけた技は、戦場で散々敵の血を浴びた技だ。戦いの為のものなのだから当たり前の話なのだが……。
 あの少女には、そんなものに触れて欲しくない。
 そう思ったソルドだが、窓の向こうに見えるアナスタシアの姿に心が揺れる。
「……考えておく」
「そうかい? じゃあ頼んだよ」
 明らかな断りの言葉で無かっただけでも満足したのか、メイリンはにこやかに笑って仕事に戻っていった。
 自分たちは何の為に戦ったのだろうか。
 メイリンの背中を見送るソルドの頭によぎったのはそんな言葉だった。
 戦う術を持たないもの、例えばあの少女のような者達のために、自分たちは戦ったのではなかったか──。
「……オレにも、解らんよ」
 胸の中に浮かぶ面影に、ソルドは呟いた。
 中庭では、アナスタシアが飽くことなく素振りを繰り返している。
 ソルドは、しばしその姿を見つめていた。
 
 翌日。
 今日は安息日で、教会での勉強も休みだ。
 アナスタシアも特に外出の予定は無い。朝食後の暇を持て余したソルドは、メイリンから雑務をもらおうとしたが、もともと屋敷の仕事はそつなくこなされているため、大した仕事はなかった。
「暇を持て余してるんなら、それこそお嬢様の相手をしとくれよ」
 と笑みを含めてメイリンから言われたソルドは、他にやることもないので中庭へ向かった。
 中庭に差しかかったところで、昨日と同じ声が聞こえてくる。
 昨日もそれなりに長い時間やっていたようだが、今日も変わらずやっているということは、ソルドが思っているよりも、アナスタシアは体力があるのかもしれない。
「今日もおやりになっているようですね」
 中庭への入り口辺りで、ソルドがどうしようか逡巡していたところに通りがかったのは、ハイゼンだ。
「見回りですか、ご苦労様です」
 ニコリともせず、芯棒が入っているのではないかと思うほどしゃんと背筋を伸ばした執事は、ソルドに労いの言葉をかける。
 慇懃無礼なようにも見える態度だが、おそらくは底意などないとソルドは思っている。なにかしら自分に言いたいことがあるなら、この真面目な執事は眉一つ動かさずに指摘してくるだろうからだ。
「メイド長から仕事をもらおうかと思ったんだが、仕事が無くてね」
「構いませんよ。貴方は貴方で、本来の仕事をこなしていてくれれば、文句などありません」
 ちらりと窓からアナスタシアを見てから付け加える。
「お嬢様の相手をしていただけると、さらに文句がないのですが」
「昨日も同じようなことをメイド長から言われたな」
「仕事ではなく、お願いですよ。貴方にそうしなければいけない義務などありませんから」
「……正直に言えば、教えていいものかどうか迷ってる」
「迷う?」
「オレが身につけたようなものが、あの娘に必要なのかと思ってな……」
「必要かどうかを判断するのはお嬢様でしょう。相手に見せもせずに、それが必要かどうかを勝手に判断するのは、ある種の傲慢ではないでしょうか」
 きっぱりとした返答に、ソルドは一瞬言葉に詰まる。
「そう……か、そうだな」
 ふとソルドは苦笑いする。なにかに気を取られて歩みを止めてしまう悪いクセは、そうそう治らないな、と思う。
「繰り返しますが、無理強いはしません。が、もしそのつもりがあるなら、よろしくお願いします」
 それでは、とハイゼンはその場を立ち去った。
 ソルドが中庭に目をやると、相変わらず何の為の運動か判らない動きを、休みながら、それでも止める気配もなく、アナスタシアが続けている。
 ふう、と息をついて、ソルドはそこへ歩みを進めた。
 
 ソルドの方に背を向けて素振りを繰り返すアナスタシアに近づき、驚かせないように声をかけるにはどうしたらいいか、と思った瞬間、またも少女の手からすっぽ抜けた木剣がソルドの顔面めがけて飛んできた。
 またか、と思いながら、前回と同じくソルドが受け止めると、さすがに今回は木剣を投げつけてしまったことに気付いたアナスタシアが慌てて走り寄ってきた。
「クマさん、ごめんなさい。大丈夫だった?」
 眉根を寄せて、心底申し訳なさそうに言ってくるのには答えず、少女の目の前にしゃがみ込んだソルドは、そっとその両手をとって手のひらを見る。
 昨日から素振りを繰り返しているわりにはマメもまだできてなかったが、やはり数カ所が赤くなっており、マメができるのは時間の問題だった。
「クマさん?」
 無言で両手をとられているのが恥ずかしいのか、やや頬を染めて尋ねるアナスタシア。
「剣術を覚えたいのか?」
「え? う、うん」
 ソルドがなにを言わんとしているのかを計りかねて、少女は曖昧に頷いた。
 その答えを聞きながら、ソルドはもう一度アナスタシアの手のひらを見る。中途半端に握力があればすぐにマメができてしまうものだが、昨日今日と繰り返しているのにも関わらず、まだマメになっていないということは、元々握力が強いか、絶望的に握力が無いかのどちらかだ。
 その繊細な細工物じみた手を見る限り、前者ということはあるまい。
 戦場では、武器を握る力がそのまま生死に直結したりもするが、競技としての対人剣法となれば弱い握力でもやりようはある。
「なぜ、剣術を覚えたいんだ? 少なくともオレが見る限り、お前がそれに向いてるとは思えないが」
 ソルドの質問に、アナスタシアは視線を足下に落とした。
「……みんなと、仲良くしたいの」
 ぽつりと呟く。
「お話ししようとしてもダメだったし、お勉強頑張ったら仲良くできるかと思ったけど、やっぱりダメだった。だから、今度は剣術を頑張ったら、なんとかなるかなって……」
 俯き加減にぽつぽつと話す。
 おそらく仲間はずれにされているのは、少女自身よりも家柄の方に問題があるだろうことはソルドにも想像がついた。
 第二央都は歴史がさほど古くないが、央都から移り住んできた貴族や豪商の類はそれなりに多い。彼らにとっては成り上がりなど煙たいだけだろうし、親がそのように思っていれば、子供もそれに少なからず影響を受ける。
 少なくとも、ソルドが見る限りアナスタシアは多少鈍く感じる部分はあっても、同世代の子供からはっきりと嫌われる点があるとも思えなかった。
 本人も、なぜ自分が仲間はずれにされるか、理解できないのだろう。
 だが、それでもその状況をなんとかしようという自助努力を、この少女はなんの迷いもなく行っている。ほんの少し前の自分の姿を思い出し、ソルドは自嘲の笑みを止めることができなかった。
「……クマさん?」
 黙り込んでしまったソルドの顔を覗き込む少女に、物思いに耽りかけたソルドは我に帰る。
 アナスタシアの目を見て、もう一度尋ねる。
「剣術を覚えたいか?」
「うん」
 その真剣さが伝わったのか、アナスタシアは迷いなく頷いた。
「オレが教えよう」
「え?」
 思いも寄らない言葉だったのか、ぽかんと口を開けるアナスタシア。言葉の意味が浸透していくうちに、その顔に喜色が広がっていく。
「本当に?」
「ああ」
 頷いたソルドの胸に、小動物のような快活さでアナスタシアが飛び込んだ。
「ありがとう、クマさん!」
 剥き出しの親愛表現を受けて、困惑気味のソルドはしばらく手持ちぶさたに両手を宙にさ迷わせていたが、やがて少女の背中を軽く叩いてからゆっくりと引き離す。
「教えはするが、お前がそれを覚えられるかどうかは別の話だ。お前次第、ということは覚えておけ」
 それで、周囲の環境も変化するかどうかも保証はできないが……。と心の中で付け加えるソルドに、アナスタシアは満面の笑みで頷いた。
「うん!」
 それから、少し休憩をとってから練習を始めることにしたところで、メイリンが冷たいお茶を持ってやってきた。
「あのね、クマさんが教えてくれることになったの!」
 お茶を注いだグラスを受け取りながらアナスタシアが嬉しそうに報告すると、メイリンは我がことにように笑みを浮かべて頷いた。
「そうですか、それはようございました。頑張りなさいませ」
 頷きながら、ちらりとソルドの方へ意味ありげな笑みを含んだ視線を送ってくるメイリンに、ソルドは苦笑いを返した。
 
「じゃあ、始めるか」
 メイリンが茶器の類を持って戻っていったのを見送り、ソルドはアナスタシアの使っていた木剣を手に取る。
「一つ聞きたいんだが、剣術会で使っていいのは長剣だけか?」
「どういうこと?」
「いや、お前に教えようと思ってるのは小剣術なんでな」
 きょとんとしたアナスタシアの顔を見て、あとでハイゼンにでも確認してみるか、とソルドは思った。
 確か競技剣術は長さの限度はあったが、短さの規定は無かったはずだ。通常、武器は長ければ長いほど有利と思われているので、好きこのんで短い剣を使うものはほとんどいない。
「力のない人間が重くてでかい武器を使っても、振り回されるだけだ。それぞれにあった戦い方というものがある」
 そう説明して、ソルドは木剣を木の幹に立てかけ、長剣を抜いて、木剣の先四割ほどをかつんと切り落とした。
「こんなもんか。片手で振ってみろ」
「うん」
 疑問に持つ様子もなく、アナスタシアは短くなった木剣を持って何度か素振りする。
 元々が子供用に軽く作られていたらしい上に、重さと長さが減った分、取り回しがよくなったので、先程までのように身体と武器が流れない。
「大丈夫そうだな」
 頷いてアナスタシアから木剣を受け取り、懐から出したナイフで先を整えて再度渡す。
「ねえ、クマさん」
「なんだ」
「短いと、相手に届かないんじゃないの?」
「止まって打ち合ったらな。お前に教えるのは、距離の取り方と縮め方だ。競技剣術なら尚更だが、武器なんぞ持ち上げて落とせれば、とりあえずそれでいい」
 東方由来の小剣術を習った、戦死してしまった戦友の言葉を思い出しつつ、自らの実感も交えて話す。
「時間もそれほどないからな。説明するより、実感しながら覚えた方が早いだろう。少し待っていろ」
 そう言って、ソルドは中庭の隅にある庭具小屋までいき、長めの棒を持って戻ってくる。
「それで、好きなようにオレに攻撃してみろ」
 棒を手渡して、ソルドは適度な距離をとってアナスタシアと正対する。
 頷いて、自分の身長よりも長い棒を腰溜めに構える少女の素直さに、ソルドは感心する。
 こちらの要求をそのまま受け入れ、その上疑問は疑問として口に出すことができるというのは、生徒としては理想的だ。
 こちらを信用してくれているのかもしれないが、周りの人間が感じるよりもずっと、この少女は聡明なのかも知れないな、という感慨が浮かぶ。
 振り回せる長さではないので、突き込もうとアナスタシアが足を出そうとしたその時、ソルドが力みのない動作で人差し指をアナスタシアに向けた。
 踏み出そうとした足が止まる。
 困惑した顔で、アナスタシアがまごまごと身体を動かし、やりにくそうに横へ動いて位置を変えようとするのに合わせて、ぴたりとソルドの人差し指が追いかける。
 ますます困った顔で少女が動きを止める。
 いくらアナスタシアが小柄とはいえ、棒の間合いはソルドの手よりも随分と長い。にも関わらず、手を出しにくい不思議な感覚に少女の目が丸くなっていく。
「まあ、こんな感じだ」
 その様子に薄く笑みを浮かべて、ソルドは手を下ろした。
「今のって、魔法かなにか?」
「いや、違う。説明しても理解しにくいだろうが、簡単に言えば人間は案外色々見ながら行動してるということだな。とりあえずこれができれば、相手の攻撃をある程度抑制できる」
 子供らしい好奇心で目を輝かせながら問う少女の様子に、苦笑いしながら答えるソルド。
「わたしに、できる?」
「多分な。素養はある」
「本当に?」
 アナスタシアの顔が嬉しそうにほころぶ。
 実のところ、ソルドが考える少女の一番の素質は、その素直さだった。極めるならば、また別の要素が必要になってくるだろうが、必要なものを吸収するには最も必要なものだ。
 こちらの与えるものを、そのまま吸収できるの素直ささえあれば、後は教え方次第だ。
「今のが、基本的な距離の取り方になるな。次は距離の縮め方だ……」
 
 
「熱心にやってるね」
 午後の茶を持って中庭に顔を出したメイリンは、反復練習をするアナスタシアを見て、目元を緩める。
「どうなんだい、なんとかなってるかね?」
「悪くないな」
「そりゃ意外だね」
 反復練習をするアナスタシアをじっと見ていたソルドに声を掛けたメイリンは、思ってもいなかった答えに目を丸くした。
「アタシには、目眩起こして倒れそうになってるようにしか見えないけど」
 アナスタシアの練習を見ての感想だった。確かに、前に倒れそうになるのを、何歩か進んで堪えてるように見えなくもない動きを繰り返している。
「似たようなもんだ。そういう風に見えているなら、身についてきてるんだろう。まだ一週間だからな、上出来な部類だろう」
「ふうん。まあ、アタシには剣のことは解らないがね。で、奥様がね、一段落してからでいいから、お嬢様を連れて部屋まで来て欲しいってさ」
「夫人が? 帰って来てるのか」
「最近出掛けっぱなしだったからね。ここ数日はハイゼンも連れて行ってるから、余程忙しいんだろうさ」
「ここのところ執事長を見なかったのはそのせいか」
「あとアンタにも話があるそうだから、ちゃんと顔出しておくれよ?」
「オレに? なんの用だ」
「さあね。行って聞きな」
 肩を竦めるメイリン。
 呼び出しを受ける心当たりが無いソルドは首を傾げたが、すぐに考えるのを止め、休憩のためにアナスタシアを呼んだ。
 
 ローラルは疲労の滲む溜息を吐いて、自室のソファに深々と腰を下ろした。
「お疲れでございますね」
 茶の用意をしながら、ハイゼンが主に労いの言葉をかける。
「疲れてないといえば嘘になるけれど、そうも言ってられないから……」
 肘掛けにもたれて眉間を揉むローラル。貴族の娘として厳しく躾けられた彼女が、そのようにはっきりと疲労を見せるのは珍しいことだった。
「とりあえず、話を通せるところには通したから。後は挨拶回りを兼ねて、あちこちのパーティーに顔を出すだけだわ」
「繰り返しになりますが……旦那様には、お話ししなくてもよいので?」
「話したところで、余計なことをするな、で終わりよ。なにもないに超したことはないけれど、なにかあった時の備えはしておかないと。あの人に知られると、なにも無かった時に禍根を残すことになるわ」
「あまり人を使えないのが痛いですな」
「私が直接足を運べば済むことだから。出来る限りあの人には知られたくないし、私自身が直接出歩いていれば、遊び歩いていると思ってもらえるかも知れないしね」
 ハイゼンから暖かい茶を受け取って、苦笑いと一緒に一口含む。
 ノックの音が、ローラルの部屋に響く。
『ソルドだ。アナスタシアを連れてきた』
「お入りなさい」
 返事をすると扉が開き、アナスタシアが走り込んできた。
「お母様!」
「まあ、アナスタシア、はしたないわよ?」
 一応は咎めながら、飛びついてきた娘を受け止めながら、ローラルは優しい笑顔を浮かべた。
 自身は厳しい躾を受けたものの、商家に嫁いだという自覚があるせいか、娘に対して必要最低限以上に厳しく躾けてはいないようだ。
「最近は少し忙しくて。あまり相手をしてあげられなくてごめんなさいね、アナスタシア」
「ううん、大丈夫。今はクマさんが相手してくれてるから」
「ソルド、貴方もありがとう。アナスタシアに剣術を教えてくれているんですって?」
「いや。オレが勝手にやっていることだ」
「本当なら、別に家庭教師を付けてあげたいところだったんだけれど……」
 ローラルの表情が曇る。ソルドも大体の察しはつくので、話を変えることにした。
「夫人、なにかオレに用があると聞いたんだが」
 話を変えたつもりだったのだが、夫人の顔は曇ったままだった。
「アナスタシア」
「なあに、お母様?」
「ごめんなさいね。来週の剣術会、見にいけなくなってしまったの」
「え?」
 一瞬アナスタシアの表情が沈むが、申し訳なさそうな母の顔を見て、すぐに明るい表情を作って言った。
「……うん。お母様、お忙しそうだもの。残念だけど、我慢する」
 そのやりとり見ていたソルドは、アナスタシアがムキになっていた理由の一つが判った。母親に少しでも良いところを見せようと思っていたのだろう。クライムはともかく、ディエンドル家の団欒を見た覚えが無いが、少なくとも娘と母親の関係は良好のようだった。
「代わりと言ってはなんだけれど、ソルド、貴方が代わりに見にいってあげて欲しいの」
「オレが?」
「クマさんが?」
 ソルドとアナスタシアが同時に目を丸くする。
「ええ。貴方にはアナスタシアが随分懐いているみたいだし、誰も見に行かないではアナスタシアも寂しいでしょうから。どう?」
「うん! わたし、それでいい!」
 満面の笑みで頷くアナスタシアの頭を撫でてやりながら、ローラルはソルドに目をやる。
「オレも別に構わないが……いいのか? かなり良い学校なのだろう?」
「一応、剣術会は校外の見学者も受け入れていますので、特に問題はないかと」
 困惑顔のソルドに、ハイゼンが言い添える。
「それなら……特に断る理由もないが……」
「クマさん!」
 困惑を深めるソルドに、顔を輝かせて少女は言った。
「わたし、頑張るからね!」
「え? あ、ああ……」
「じゃあ、もっと練習しなきゃ!」
 ひょいとローラルの膝から飛び降りたアナスタシアは、小動物の素早さで部屋から走り出ていった。
「私が行くと言った時よりも嬉しそうね、あの子」
 くすくすと笑うローラルに、ソルドはなんとも言えない顔になった。
「あの子のこと、お願いね、ソルド。頼りにしているわ」
「……オレに出来る限りのことは、するつもりでいる」
「ありがとう。あの子のところにいってあげて」
「ああ、失礼する」
 一礼して部屋を出て行くソルドの背中を見送って、ローラルは満足そうに頷いた。
「彼がきたばかりの時は、どうなることかと思ったけれど」
「最初は酷いものでしたからな」
「ハイゼン、貴方確か軍務経験者だったわね。今更だけれど、彼の腕に関してはどうなの?」
「腕だけなら、今の給金の桁が変わっても同程度の人間は雇えないでしょう」
 想像以上の答えだったのか、ローラルの目が丸くなる。
「そんなに?」
「央都攻防戦・突入部隊副隊長は伊達ではなさそうです。雇用初期の酷さを差し引いても、ある程度真面目に仕事をしてくれるようになった今は、かなり安過ぎる買い物だったかと。少なくとも、個人の護衛で雇える人材としては、彼以上の人間は滅多にいないと思われます」
「まあ」
「……難を言えば、あの言葉遣いだけはなんとかならないものかとは思いますが」
「それは別に構わないわ。社交界に連れ出すわけではないもの。それにしても、ハイゼン、貴方がそこまで言うとなると、本当に逸材なのね。そうでなくても、給金が安すぎると思っていたけど……。なんとかしてあげたいところね」
「問題は旦那様ですな」
「そうなのよね……」
 再び深々と溜息をつくローラル。
「色々と考えたいところだけど、今は目の前のことに集中しないとね。ハイゼン、夕方からまた出掛けるわ。用意をお願い」
「かしこまりました」
 
 そうして、剣術の練習と協会通いでアナスタシアの夏休みは過ぎていった。
 やがて学校が始まり、剣術会当日。
「相変わらず、でかい建物だな」
 アナスタシアの送り迎えで何度も見た校舎を眺めて呟くソルド。
 いつもは豪奢な校門までの送り迎えなので、敷地内に入るのは初めてだ。ぐるりと校庭の一角に儲けられた一段高くしつらえられた観客席を眺め回して、今度は溜息をつく。
 それなりに広い面積を取られているのだが、椅子やら日傘やらで場所を取っている連中が多いので、かなり混み合っている。
 居並ぶ人間も、いかにも貴族然とした者から、裕福な商人らしい者まで、明らかな富裕層ばかりで、見ているだけでゲップが出そうになる。
 多少身綺麗にはしてきたが、せめて髭くらい剃ってきた方が良かったか、とソルドは自分の顎を撫でた。
 さすがにそんなお歴々の真ん中でふんぞり返れるほど厚顔では無いソルドは、観客席の端、一段低いところで立ち見をすることにした。
 学校でそれなりに大きな催し物なのか、全体的に賑わってはいる。
 代表戦ということらしいので、すべての生徒が参加するわけではないが、校庭には全校生徒が集まっているようで、中心の試合場を二百人程度の子供達が囲んでいた。
 やがて鼓笛隊のファンファーレが鳴り響き、参加生徒が入場し始めたので、ソルドもそちらの方に目を向ける。
 今回の剣術会は二部構成。年長者の部と年少者の部に別れていて、男女混合で行われる。アナスタシアは年少の部に参加だ。
 軍学校の剣術会では大抵男女に分かれているが、これは競技色が強いためで、勝敗がさして重要視されない剣術会では、男女混合は割に普通のことである。
 入場してきた生徒の中でも、一際小柄なアナスタシアの姿は簡単に見つかったが、その様子にソルドは苦笑いした。
 右手と右足が同時に出ている。
 相当緊張しているようで、視点はずっと下を向いたままだし、操り人形のように浮き足立っていた。
 必要な事は今までの練習で教えられたと思うが、あんなに緊張しているようでは、その成果を出すのは難しいだろう。
 最初は苦笑いしたソルドだが、次第に心配になってくる。
 一応防具は身につけるし、木製の武器にも布を巻いているので滅多に怪我はないだろうが、緊張で身体が固まっているとそれもわからない。
 大丈夫か?
 と視線を注いでいると、ふとアナスタシアの視線がこちらを向いたかと思うと、ソルドの姿に気がついたその表情がみるみる明るくなっていった。
 ソルドは片手を上げて答え、次に自分の左手と左足をぽんぽんと軽く叩く。
 それで自分の手足の状態に気付いたのだろう、赤面したアナスタシアは慌てて動きを直した。
 だが、それで多少緊張が解けたのだろう、少しは身体の固さがマシになる。
 そしてお偉方の簡単な開会の挨拶があり、いよいよ剣術会が始まった。
 
 アナスタシアは選手控えの天幕下で、深呼吸した。
 さっきまで自分がどこにいるのかわからないほど緊張していたのだが、ソルドの姿を見つけたことで、随分落ち着いた。
 目を閉じて、ここしばらくソルドから教わったあれこれを頭の中で確認する。
 とにかく、慌てるな。
 一番大事だと言われていたことを、今更思い出す。
 大丈夫、と自分に言い聞かせる。
 クマさんが、勝てる、と言った。
 それを信じる。信じられる。
「アナスタシア・ディエンドル」
 名前を呼ばれて、はっと目を開ける。
 剣術担当の先生が、その強面をこちらに向けて、小さな机の上にある抽選箱を示す。
「は、はい」
 慌てて返事をして、抽選箱から四つ折りの紙を一枚引き、先生に手渡す。
「アナスタシア・ディエンドル、三番」
 再度律儀に氏名を繰り返し、黒板に書かれたトーナメント表に名前を記入する。
 年少者のトーナメントに参加するのは十六人。アナスタシアは第二試合で、対戦相手はまだ空欄。
 次に名前を呼ばれたのは、やや小太りだが、年少組の中では一番背の高い男の子だ。
 ふん、と鼻を鳴らして、まだ投票箱の前から退いていなかったアナスタシアを蹴散らすような勢いで歩いてきた。
 アナスタシアはびっくりしながらも、なんとかそれを避けて自分の場所に戻り、男の子の背中を見つめた。
 その男の子はアナスタシアの同級生で、普段からちょっかいを掛けてくるグループの先導役だ。アナスタシアが剣術会に出ることになったのも、そのグループの悪ふざけが原因だった。
 アナスタシアの方には、特に彼を嫌う理由はないのだが、相手の態度が態度なので、苦手な部類の相手ではあった。
 彼と試合する可能性もあるのだと思うと、自然に心が重くなってくる。
 溜息を吐いていると、番号が読み上げられた。
「四番!」
 え? とアナスタシアが顔を上げると、一番そこに書かれて欲しくない名前が、自分の隣に書き入れられるところだった。
 ひょっとしたら、この世の中に神様はいないのかもしれない、とアナスタシアはちょっぴり思った。
 
 トーナメントの抽選が行われている間、会場には鼓笛隊の奏でる曲が、緩やかに流れている。
 豊富な資金があるせいか妙に演出が細かいな、と思いながら手持ち無沙汰にしていたソルドだったが、天幕の下から二人がかりで黒板を持った事務員が出てくるのが見えたので、そちらに注目する。
 教員席が並ぶ本部の前にその大きな黒板がかけられると、客席から軽くざわめきが起こる。自分たちの子供の名前を探しているのだろう。
 ソルドも、そこに書かれた名前を端から見ていく。アナスタシアの名前はすぐに見つかった。第二試合。並んだ対戦相手の名前から察するに、男子。名字に多少覚えがあるので、おそらく貴族の子弟だろう。
「なんだ息子の相手は、あの成り上がりの娘か」
 高圧的な声が意外と近くから聞こえ、ソルドはそっとそちらを確認した。
 一際広い領域を占領しているその貴族趣味丸出しの男は、装飾過多な服装の上からでもわかる肥え太った身体に、顎肉が弛んだ傲慢そうな表情を貼り付けた顔を乗せていた。
 どうも見覚えがあるな、と思ったソルドはしばらく首を傾げていたが、やがて思い至って皮肉な笑いを浮かべてた。
 確か、元央都貴族院の一人だったはずだ。大戦時の対応の拙さと、その折に判明した数々の悪さのせいで実質央都を追放になったという話だったが、第二央都にいたのか。
 気付かれないようにその姿を観察していたソルドは思った。
 近衛部隊に配属されていた時に、何度かその顔を見た覚えがある。
 ふとその名前を思い出して、もう一度アナスタシアの対戦相手の名前を確認する。
「そういえば、そんな名前だったな……」
 相手はこいつの息子か。
 ということは、成り上がりの娘とはアナスタシアのことだろう。
 貴族の子弟ということは、剣術の手ほどきは基礎教養として多少囓っているはず。完全な素人よりも、そちらの方がアナスタシアには有利だ。そういう技術を教えた。
「たかが成り上がりの娘ごとき、あいつの敵ではないな。初戦は楽なものだ」
 傲慢な発言だが、腹を立てるよりも先に呆れてしまう。らしい発言といえばらしいが、武器を持って向き合うということは、お互いに傷つく可能性があるということだ。彼我の間にあるその可能性は、大きくどちらかに振れることはあってもゼロにはならない。
 アナスタシアが勝てば溜飲が下がりそうな気もするが、アナスタシアにも対戦相手にも大人の事情など関係ない。お互いに怪我無く終わるといいが、と嘆息する。
 そうこうするうちに第一試合が始まった。
 名前が呼ばれ、アナスタシアと同じ年頃の少年が会場の中心に進み出ていく。
 片方は両手持ちの長剣で、もう一人は片手剣に盾持ち。どちらも競技剣術では基本的な装備の一つだ。
 試合場は、直径十メートルほどの円形で、太めのロープが地面に置かれ境界とされていた。
 背丈ほどの長さの棒を携えた審判が開始を告げると、少年達は勢いよく走り寄り、武器を打ち合わせた。生徒達から歓声が上がる。
 技術というのは、ある程度洗練されてしまうと高度すぎて分かり難くなったりするものだが、覚えたての者同士の試合というのは予想できないところがあって、ソルドのように高度な技術を身につけた者は逆に興味深く面白いと感じるところが多かった。
 両者とも技術も体力も似たようなものらしく、しばらく攻防が続いたが、長剣の少年が空振りで体勢を崩したところに、片手剣の一撃が兜に入った。
「それまで!」
 審判役の教員が、手に持っていた棒を選手の間に差し出し試合を止める。
 中央に戻った少年達の片方に、勝利が告げられた。
 場合によっては数回の結果で勝負を決めることもあるが、今日は試合数も多いせいか一発勝負のようだ。
 さて、次だが……。
 ソルドは、不安と期待の入り交じった目を天幕に向けた。
 
          3
 
 与えられた防具は、胴に小手、脛当てに兜。どれもややアナスタシアには大きめで、教員の一人に手伝って貰いながら、ガタつかないように布を詰めつつなんとか装着していく。長い髪の毛を頭に巻き付けるようにしてまとめ、布を巻き付けてから兜を被ると、量が多めの髪が丁度詰め物代わりになって兜が安定した。
 一通り防具を着け終えて、アナスタシアは自分の得物を確認する。
 何重かに布が巻き付けられた、木製の小剣。盾は持たない。
 アナスタシア自身がそうであるように、この剣術会で使われる武器の中で、もっとも小さく細い存在。
 だが、それを握る手の中にも、その小さな胸の中にも、もっと大きい物がある。
 怖くない。
 クマさんが、大丈夫だって言ったから。
「アナスタシア・ディエンドル!」
「は、はい!」
 返事をして立ち上がる。
 後は、教えてもらったことを、そのままやるだけだった。
 
 名前を呼ばれたアナスタシアが試合場に出てくるのを見て、ソルドは妙な気分に襲われていた。
 腹の中、手の届かないところがむず痒いような、どうにも落ち着かない感じだ。
 アナスタシアの足取りを見ると、入場の時に比べれば随分落ち着いているようだが、今更ながら、なにか教えこぼしが無かったか気になり出す。
 大丈夫だろうと思うのだが、そわそわが止まない。
 ああ、そうか、とソルドは思い至る。
 自分が、アナスタシアのことを心配しているのだと、そこで初めて気がついた。
 よく考えてみれば、あれくらいの子供がいてもおかしくない年齢なんだな、とひとしきり感慨に耽る。
 試合相手は、アナスタシアよりも一回り大きい体格の男子で、やや小太りなのが防具の上からでもわかる。盾無しの両手剣スタイルのようだ。
 そして、審判の声が掛かり、アナスタシアの試合が始まった。
 
 始まった!
 とアナスタシアが緊張した瞬間、相手が走り寄ってきた。かなり鈍重な動きではあったが、意表を突かれたアナスタシアはとっさに守勢へ回ってしまう。
 やらなければいけないと思っていたことがすべて頭から吹っ飛んだ。
 片手で半身に構えろ、と言われたのに、両手で持った小剣で正面から攻撃を受けてしまう。
 ごつっと音を立てて武器が噛み合い、体重の軽いアナスタシアは吹っ飛ばされる。
 力と体重で劣る以上、下手に踏ん張って受け止めるよりも、素直に威力を流して後退した方がずっとマシなのは確かだが、軽くパニックになったアナスタシアに体勢を整える余裕は無い。
 再度走り寄って来た相手の武器が、またアナスタシアの小剣とぶつかって音を立てた。
 
 機先を制されたか。
 想定していた状況の中では悪い部類の滑り出しだな、とソルドは胸の中で思った。
 見た目からして相手に持久力が無いのは明らかだが、アナスタシアの方は軽くパニックになっているようで、攻撃を受け流す余裕が無くなっている。
 アレでは、痛打を受けなくても神経が先にすり減る。
 アナスタシアの心が折れるか、相手の体力が切れるかになるつつあるが、あまり分の良い勝負では無さそうだな、とソルド眉を寄せた。
 
 怖い。
 武器と武器がぶつかる音が、恐れを加速する。
 怖い怖い怖い怖い……!
 心臓の音が耳に聞こえるほど大きく早く打っている。
 呼吸が荒くなっていく。
 逃げたい。
 逃げ場を探したいが、目の前の相手が怖くて目が反らせない。
 相手の少年が叫び声なのか掛け声なのか判然としない声を上げ、再度突っ込んでくる。
「あうっ……」
 避けようとして砂利に足を取られて膝をついたところで、アナスタシアの頭上をブンと音を立てて相手の長剣が過ぎる。
 競技剣術では、転んだ相手への攻撃も有効打として認められる。立ち位置を入れ替え、慌てて立ち上がったアナスタシアの目に、相手の向こうからこちらに真剣な目を向けているソルドの姿が入る。
 はっと冷静さが戻ってくる。
 なにをやっているのか。
 教えてもらったじゃないか。
 思い出せ。
 なにを言われた? 
 なにを教わった?
 幸い、連続攻撃で息が上がった相手は、寸の間息をついているところだ。
 体勢を整える。
 
 アナスタシアの雰囲気が変わった。どうやら落ち着きを取り戻したようだ。
 内心ほっと安堵の息をついたソルドは、これで勝ったなと確信する。
 相手の攻撃は勢いだけだったし、凌ぎきった以上、再度の連続攻撃はできまい。
 後は、アナスタシア自身がどこまで教えた事ができるかだ。
 
 小剣の先が伸びて、相手の眉間を押さえるイメージ。
 相手の動きを警戒しながら、構えを教えられたものに変化させていく。
 右の半身、右手の肘を伸ばして小剣の切っ先を相手の眉間に向ける。
 腰は低く、肩は楽に。
 向けられた切っ先が気に入らないのか、まだ肩で息をしている少年は眉をひそめて横に移動しようとするが、アナスタシアは構えを変えないまま、向きを変えるだけで静かに追いかける。
 少年が目に見えて不愉快そうな顔になるが、明らかに武器の長さに勝るというのに攻撃してくる気配が薄い。理屈はわからないが、教えてもらった通りだ。
 後は慌てず、急がず、じりじりと距離を詰める。
 すりすりと足をこするように少しづつアナスタシアが距離を詰めていくと、相手は攻撃に行きたいような素振りを見せつつも、向けられた切っ先が邪魔なのか、なんとか横に逃げようとやや不格好に動く。
 だが、大きく横に移動しようとする少年に対し、アナスタシアは身体の向きを変えるだけで追いかけることができる。
 にっちもさっちも行かなくなった相手は、そのままじりじりと後退するはめになった。
 アナスタシアの動きが、通常の競技剣術に比べて異質なものだとわかるのか、審判が妙に真剣な目で試合を見つめ、会場もいつの間にか静まっている。
 相手の足が、境界線である縄に触れる。後一歩でも下がると、場外で負けにされてしまう。
 ようやく覚悟を決めたらしく、顔を紅潮させ、大きな声を上げて少年が武器を振りかぶる。
 
 そこだ。
 
 アナスタシアの耳に、声が聞こえたような気がした。
 手にした武器に、手を引かれるように。
 感覚を覚えておけ、と言われて自分の手を引いた大きく暖かな手の感触。
 後は、相手の武器に向かって前進する勇気があるかどうか。
 わたしに勇気なんかない。
 でも、あの人がそう言ったから。
 できると言ってくれたから。
 信じる!
 振り下ろされる相手の武器へ自らの頭を差し出すように、小剣をかざしながら静かに身を乗り出す。
 相手の長剣が、小剣に触れるか触れないかの距離で空を切り、激しく地面に激突して大きな音を立てる。
 アナスタシアは、少年の側面に移動していた。
 少年の感覚では、いきなり目の前からアナスタシアが消えたように見えたのだろう、正面を向いたままの横顔には驚きの表情が浮かんでいる。
 上手く移動を制御できずに四分の一ほど向きを変えてしまったアナスタシアの目の前には、少年の武器を握った腕がある。
「えいっ!」
 ばしっと、やや迫力に欠ける音を立てて、アナスタシアの小剣が少年の小手を打った。
 余程驚いたのか、大した威力は無かったはずだが、少年は雷に打たれたようにビクッと武器を取り落とす。それで我に帰った少年が武器を拾おうとしたところで、審判が棒を両者の間に差し出した。
「有効打! 勝負あり!」
 歓声が上がった。
 
 よし!
 思わず拳を握りそうになったのを自制しながら、ソルドはこっそり笑みを浮かべた。
 アナスタシア見せた技は言葉にすれば簡単で、相手が武器を振り下ろす瞬間に、その下を潜って相手の懐に入ったというだけだ。
 本来は、相手の胴に一撃を入れることを目的にしていたのだが、足の捌きが不十分だったためにその手前で止まってしまったようだ。だが、勝てたのだから細かいことは良いだろう。
 簡単に見えるが、勇気も決断も必要なことを、アナスタシアはやってのけた。それは充分に賞賛に値することだった。
 歓声に包まれて、審判から勝利者宣言を受けるアナスタシアは、どこか夢を見ているような様子だったが、ぼんやりを辺りを見回すうちにこちらを見たので、ソルドは「よくやった」という手信号を送ってやった。
 すると、にわかに実感が湧いてきたのか、みるみるうちに喜色満面になると、退場せずにソルド目がけて全力疾走してきた。
「おいおい……」
 なにをやっているんだ、と思ったものの、逃げるわけにもいかずにそのまま出迎える。
「クマさん!」
 兜をふり落としつつ、兎のような跳躍力で飛びついてきたアナスタシアを、ソルドはしっかりと受け止めた。
「見ててくれた? わたし、やったよ!」
「ああ、ちゃんと見ていた。よくやったな」
 アナスタシアの頭を撫でてやりながら、今度はちゃんと口に出して言ってやる。
「うん!」
 首に腕を回してしがみつくアナスタシアに苦笑いしながら、その二人の姿を微笑ましく見つめてくる多くの視線をソルドは感じたが、それはけして不愉快では無かった。
 
 結論から言うと、アナスタシアは続く二回戦であっさり負けた。
 どうも、一回戦で見事に勝ったことで気が抜けてしまったようだったが、本人は一度でも勝利したことで充分満足したらしい。
 そんなアナスタシアには、審判団から敢闘賞が贈られた。
 素人目で見ても明らかに不利な状況を跳ね返し、技巧的な攻防の上で勝利を挙げたアナスタシアの試合は、見た者の印象に強く残ったことだろう。
 それは賞状と簡単なメダル一枚だけだったが、それを手にしたアナスタシアの表情は誇らしげなものだった。
 おそらく、自分の手でなにかを成し遂げて、それを形として周囲から認められたのは、アナスタシアにとって初めてのことなのだろう。
 これが、少しでもなにか変化の兆しになればいいが。
 帰りの馬車の中で、飽きもせず嬉しそうに何度も賞状とメダルを眺めているアナスタシアを見ながら、ソルドはそう思わずにはいられなかった。
 
 剣術会があった日の夜。
 いつものように夜の見回りをしていたソルドは、微かに言い争う声が聞こえてきたような気がして、耳を澄ました。
 第二央都は都会だが、屋敷がある辺りは閑静な住宅街で、夜にもなれば外からの物音はほとんど無い。すぐにその声はクライムの書斎から聞こえてくることが判った。
 最近は夫妻共に忙しいらしく、あまり屋敷内で見かけるとこが少なかったが、食事の用意はアナスタシアの分だけだったので、二人ともその後で帰って来たのだろう。
 時間も日付が変わるかどうかの夜更けであるし、来客は無かったはずだから、おそらく言い争いの相手は夫人か。
 あまり関わりたくは無いが、無視もできない。場合によっては仲裁も必要かもしれないし、なにかの重大なトラブルの可能性もある。
 憂鬱な溜息を吐いて、ソルドはクライムの書斎に足を向けた。
「……?」
 角を曲がり、クライムの書斎のある廊下に出たところで、ソルドは書斎のドアの横に小さな人影が座り込んでいるのを見つける。誰なのかはすぐに判った。
 書斎に近づいていくと、言い争う声がはっきりとしてくる。やはり言い争いの相手は夫人のようだ。どうもなにかの商売上のトラブルに関して、夫人が問い詰めているような雰囲気だ。
 戦争参加経験もあるし、戦闘訓練も随分積んできたが、他人が争うのを聞くのは気持ちのいいものではない。
 できるだけ、そっと座り込む小さな相手に声を掛ける。
「アナスタシア」
 ソルドが気配を消さずに近づいたので気付いているのだろうが、俯いたままこちらを見ようとしなかったアナスタシアは、その声にゆっくりと顔を上げた。
 月の光が差し込むだけの薄闇の中で、アナスタシアの悲しげな顔は、はっきりと見えた。
 抱え込んだ小さな両手の中には、剣術会でもらったメダルと賞状がある。些細なものかもしれないが、自分の努力の結果を、手に入れたものを、両親に見てもらいたかったのだろう。
 ドアの向こうの言い争いは、しばらく終わる気配はなさそうだ。
「……夜は冷える。今日は、もう寝た方がいい。また明日もある」
 言葉を選びながらうながすが、アナスタシアは無言のまま顔を伏せてしまった。
 動こうとも、返事をしようともしない少女に、ソルドはしばらく逡巡していたが、意を決して傍らにしゃがみ込んだ。
「部屋まで送ろう」
 壊れ物を扱うような気分で、少女の小さな身体を抱き上げる。
「あ……」
 その力強い腕で人形のように軽々と持ち上げられ、小さな声を漏らして一瞬顔を上げたアナスタシアだったが、すぐに顔を伏せると、抵抗もせずにソルドの胸に頬を寄せた。
 書斎のドアを背に歩き出したソルドの胸を、アナスタシアの手が、きゅっと握りしめる。
 非力で儚い感触だった。
 その手は、貴方はここにいてもいいのだ、と言っているようだった。
 それは、百万の言葉よりも強く、ソルドの中に染み込む。
 支えているのは、鋼のような腕か。
 それとも、細く頼り無い手か。
 月明かりに照らされ、一つになった影が、廊下に長く伸びていた。
 
        4
 
 剣術会から一週間が経った。
 やはりなにかのトラブルがあったらしく、あの夜からますますディエンドル夫妻の姿を屋敷で見かけなくなっていた。
 アナスタシアは、次の日の朝には明るい表情を見せていたが、こびりつくような影がその表情には見て取れた。
 なんとかしてやりたいとは思うが、効果的な方法が思いつかない。
 メイリン辺りがその辺は相談役としては適当な気もするが、最近はハイゼンも夫人に付いて歩いているせいで屋敷内の雑務を一手に抱えているため、相談に乗ってもらう余裕が無い。
 日曜学校の出迎えで一足先に教会前の広場へ来ていた御者のジムと、馬車に寄りかかって言葉を交わしながら、ソルドは空を見上げた。
 まるで今の状況を表すように、じっとりとした曇天が広がっている。
 天気が良くなったら、どこか遠出でもさせた方がいいのかもな……。
 他にも何台か止まっている馬車を眺めて、珍しく建設的な事を思いついたところで、教会の入り口からアナスタシアが姿を見せた。
 それを見つけて、馬車から背中を放した瞬間、ソルドのうなじの毛が逆立った。
 なんだ……?!
 しばらく触れていなかったが、懐かしささえ覚えるそれは、修羅場の気配だった。
 反射的に意識が切り替わるソルドの視界に、こちらに向かって歩いて来るアナスタシアと、その周り、建物や木の陰から現れる複数の人影が入る。
 一般人であれば、その動きになんの違和感も無かっただろうが、ソルドの感覚は最大級の警告を発していた。
 次の瞬間、ソルドは長剣の鞘を払いつつ、アナスタシアに向かって全力で走り出していた。
「走れっ!!」
 怒鳴るように警告を叫ぶ。
 アナスタシアは一瞬びくりと身を竦めたが、すぐに自分に向かって言われたのが解ったのだろう、なにがあったのか理解するよりも走り出す。
 だが、ソルドが反応したことにいち早く気付いた得体の知れない連中も、素早く動き始めていた。まるで影のように黒ずくめで覆面のその連中は、みな一様に細身で、身のこなしが異常に滑らかで速い。
 アナスタシアの後ろに三人、目的は……アナスタシアか!
 その三人は明らかに、近づくソルドではなく、アナスタシアの背中を見ている。
 ぎりぎり割って入れるかどうかのタイミングだ。
 そう思った時、手前の馬車の影から、もう一人黒ずくめが現れた。
 小剣ほどの長さの細い曲刀を構えて突き込んでくる相手に、ソルドは対応を強いられた。
 キン、と銀光が走る。
 先の先で一撃を振るい相手に防御させたソルドは、動きを止めた相手を蹴り飛ばし、その隙にアナスタシアの方へ向かおうとした。
 悲鳴が上がる。
 ソルドがほんの一瞬足止めをされた間に、黒ずくめの一人がアナスタシアを捕らえていた。
 そして、ソルドはこの時失策を犯した。
 本来ならば、アナスタシアが捕まろうと構わず突撃して、相手が少女を人質にする隙を与えずに制圧すべきだった。
 アナスタシアを捕まえた黒ずくめも優秀だった。
 わざわざ長々と口頭で忠告するような愚を犯さず、ソルドに見えるようにアナスタシアの首にピタリと刃を押し当てたのだ。
 覆面の下の冷たい目がソルドを貫く。
 それを見たソルドは、反射的に躊躇した。それは僅かな時間だったが、ソルドの後ろからやってきた黒ずくめ達が追いつくには充分だった。
「く……っ!」
 濃厚な殺気を含んだ複数の気配に、ソルドは応戦せざるをえなくなる。
 振り向きざまの一閃。
 逆袈裟に震われた長剣は、いつの間にか二人になっていた黒ずくめの片方を、受けようとした武器もろとも両断する。
 それでも怯まず踏み込んでくるもう一人の曲刀を横へと流しつつ、振り上げられた長剣が覆面の頭を叩き割る。
 勢いを止めないまま、再度振り向いたソルドの背筋がぞわりと冷える。
 目の前に、黒ずくめが一人いた。
「遅い」
 冷たく錆びた声がソルドの耳に届くのと同時に、冷たい感触が腹部に入り込む。
 こちらを見つめる冷めた目は、さきほどアナスタシアと捕らえた奴のものだ。
 やられた?!
 意識が届くかどうかの刹那、腹に刺さった曲刀に力が入るのをソルドは感じた。
 えぐるつもりなのだ。
「があああぁぁ!!!」
 獣じみた咆吼を上げ、腹の筋肉に力を込めて刺さった曲刀を固定しつつ、ソルドはその黒ずくめに長剣を振り下ろした。
 だが、相手はいち早くその気配を察し、あっさりと武器を手放して間合いの外へ逃れる。
 それを追おうと一歩を踏み出したソルドに、強烈な嘔吐感が襲いかかった。
 堪えきれずに吐くと、鮮血が石畳の上に華を咲かせた。
 あっという間に、ソルドの視界が暗くなっていく。
「クマさん!?」
 アナスタシアの悲鳴が耳に届く。
 だが、その姿はソルドの視界を包む闇の帳に消えつつあった。
「アナスタシアっ……!」
 その声に応えようと、さらに一歩を踏み出そうとしたソルドの膝が地面に落ちる。
 それでも前に出ようとした身体が、横向きに倒れた。
「いやああっ! クマさんっ! クマさああぁぁんっ!?」
 アナスタシアの声が聞こえる。
 助けを求める声では無かった。
 自分を案ずる声だ。
 応えなければ……。
 だが、急速に自由を失っていく身体は、それに応えようとはしない。
 薄れゆく意識の中で、必死に動こうとしながらソルドは考えていた。
 こいつらは、一体何者だ?
 ただの誘拐犯にしては、練度が高すぎる。まるで軍の特殊部隊並だ。
 単なる犯罪者ではあるまい。
 なぜ、アナスタシアを狙う?
 有力な商家の一人娘とはいえ、ここまで練度の高い刺客を使って狙う理由は?
 一体なんだ……?
 ぐるぐると焦燥混じりの思考が頭の中を駆け巡るが、それもまた徐々に力を失っていく。
 口を押さえられ、アナスタシアの声がくぐもる。 
 黒ずくめ達は、放って置いても死ぬと判断したか、それともなにか急がなくてはいけない理由があるのか、ソルドにとどめを刺そうともせずに撤収を優先させた。
 最初からそのつもりで用意していたのだろう、広場に止まっていた馬車の一つに仲間の死体と共に乗り込み、あっという間に逃走した。
 それは、一分にも満たない時間に起きた凶行だった。
 すべてが終わってからようやく、目の前で起こったことに目撃者達が騒ぎ始め、騒ぎを聞きつけた教会の人間が次々に広場へやってくる。
 ジムが大慌てで、倒れ込んだソルドに駆け寄っていく。
 倒れ、ぴくりとも動かないソルドの上に、曇天から雨が降り始めた。
 石畳に広がる濡れた感触が、雨なのか、自らが流したものなのかも解らないまま。
 ソルドの意識は闇に落ちていく。
 クマさん!
 ソルドの耳に、聞こえるはずのないアナスタシアの声が聞こえたような気がした。
   
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