第一章・アナスタシア
 
           1
 
「………っ?!」
 全身を痙攣させて、男は眠りから覚めた。
 だが、それほど慌てた様子もなく、無精髭だらけの顔を動かさずに、酒の飲み過ぎで充血した両目を左右にゆっくりと動かす。
 二頭立ての馬車の中。ガラスの向こうで町並みが流れて行くのが見えた。
「うなされていたな」
 男の正面に座った、白髪を綺麗に撫でつけた壮年の男が、無精髭の男に声を掛ける。
 その声は低く厳しい印象だったが、声色にはほんの少しの気遣いが見え隠れしていた。
「悪い夢でも見たか、ソルド」
 それが無精髭の男の名前なのだろう。だがソルドと呼ばれた男は、特に反応らしい反応を帰さずに外套の下をまさぐって小さな瓶を取り出すと、コルク栓に手をかけた。
「やめておけ」
 壮年の男が、ソルドの手を瓶ごと掴んでそれを止める。
「今からお前の雇い主に会いにいくんだ。さすがにこれ以上飲ませられん」
 そうはいうものの、すでにソルドの息は充分に酒臭く、今更多少飲むのを控えたところで大差は無いと思われた。
 相当酔っているようだが、ソルドは壮年の男の言葉に反論することもなく、大人しく瓶を懐に戻した。
 その仕草からは、壮年の男に従ったというよりも、ただ単に口論するのも面倒くさいと思っているような、怠惰極まりない雰囲気が溢れ出ている。
「……なぜ、自分の面倒など看てくれるのですか?」
 アルコールで焼けたかすれ気味の声で、ソルドは尋ねた。
「オレは、ただ部下の一人だったってだけの話じゃないですか、……団長」
「元がつくがな。もう退役して随分になる。私がお前の面倒を見るのに、それだけで十分な理由だと私は思っているんだが」
 片眉を上げて、壮年の男・ミルドレイは手のひらをソルドに差し出す。
 ソルドはしばらくその手を眺めて逡巡していたが、すぐに諦めて懐に入れていた瓶をその手に乗せた。
「実際、お前のような退役兵は多いんだよ」
 きっちりとコルクが閉まっているのを確認しつつ酒瓶を懐に入れ、ミルドレイは続ける。
「白黒戦争が終わって、人員が飽和状態になった央都騎士団から事実上の放逐になった連中は多くてな。もちろん自ら退役を望む連中も少なくなかったが、ほとんどは依頼退役という名目でのクビだ。終戦とほぼ同時に騎士団から離れたお前は、話くらいしか知らんだろうが」
 ふと、ミルドレイの目に憐憫の色を浮かぶが、すぐにそれを消してさらに話を続ける
「多少なり、人を使うことができる者は治安維持に回せるが、個人的戦闘技術しか持たない連中は優先的に放逐されてな。まさしく狡兎死して何とやらだが、その連中の一部は職も見つけられなかった」
「……で、暴力より他に能の無い人間の、お定まりの末路ってわけか」
 ミルドレイの傍らに置かれた薄い紙束に書いてある文字を見ながら、鼻で笑うソルド。
「一部ではあるが、無視できるほどの人数ではなくてな。ちょうど私もトシだったんで、今はそういう連中の仕事を斡旋している」
 言いながらミルドレイが差し出してくる紙束を受け取り、ソルドは畳まれたそれを開いた。
第二央都の治安、依然として悪化の一途
経済の発展と引き替えにした混沌の是非
 公用語の大きな見出しの横には、小さな文字で詳細が記されている。
「で、これはなんです?」
「新聞とか、読売とか言われてるものだ。最近第二央都で売られている。噂話やガセも多いが、たまに鋭い意見や目新しいネタも載ってたりするのでな、よく買っている」
「……団長のことも載ってますね」
護衛斡旋業。誘拐・強盗等の犯罪が増えている昨今、それらに対抗する手段たりえるか
 という見出しとともに、ミルドレイの名前が載っている。斜め読みした記事の中身はどちらかというと、あまり好意的な内容ではないようだ。
「別に第二央都の治安を良くしようと始めたことではないからな。むしろ名前が売れることで
仕事が増えるなら御の字だ」
 頭に入っているのかいないのか分からない態度で、記事にざっと目を通したソルドは、新聞を元通り畳み直して席の上に放り出す。
「なにがあった?」
 淀んだ目で馬車の窓から通りに目を向けるソルドの横顔に、ミルドレイは優しいと言っていい声で訊ねた。
「一年前、央都の連続殺傷事件。解決したのは、お前だという話は聞いている。そして、一般には伏せられてるが、その犯人が誰なのかも。真偽はどうか判らんが……」
「……っ?!」
 その言葉を聞いた途端ソルドの目に浮かんだのは、複雑な感情が入り交じった、狂気と怯えだった。
 その態度で事の真偽を察したミルドレイは、深々と溜息をついた。
「もういい、解った。何も言わなくていい」
 ミルドレイの視線から逃れ、再び外へ視線を向けるソルドの横顔に向けて、ミルドレイが固い声で言い含める。
「例えなにがあったにせよ、命ある限りは生きる為の努力をするのは義務だ。誰かの命の上に生き残ったのなら尚更、な」
 少しの沈黙の後、ぽつりとソルドは漏らした。
「…………オレは、生きてて良いんでしょうか」
「生きてていけない人間などいない」
 即座に答えたミルドレイの答えには躊躇が無かった。
 だが、馬車内の重苦しい空気を払うことはできず、石畳を車輪が走る音だけが響いていた。
 
「本当に大丈夫なんでしょうね?」
 依頼主であるところの、第二央都でも有数の規模を誇るディエンドル商会・会長夫人は、ソルドを紹介された直後、開口一番ミルドレイに向かって言った。
「……元央都攻略戦突入部隊の副隊長です。腕そのものは折り紙付きですよ」
「聞けば、少し前の央都連続殺傷事件を解決した凄腕らしいじゃないか。あまり人を見た目で判断してはいけないよ」
 どこか軽薄な響きのある口調でミルドレイをフォローしたのは夫であり商会長のクライムだ。
 白々しい事を、よくもまあ堂々と口にできるものだ。
 商会長などという役職についている割にはやや若い、彫りの浅い顔を眺めながら、ミルドレイは内心で苦笑いした。
 今回受けた仕事は、彼らの娘の護衛。それも、基本的には日常生活全般に渡ってのだ。
 ミルドレイが聞いた話の流れからすると夫人の要請らしい。
 昨今、第二央都では営利目的の誘拐が多発しており、商会令嬢ともなれば格好の標的になりうる。その手口のほとんどは、身内が目を離したほんの一瞬の隙間を突いたものだ。夫人の心配は故無いことではないといえる。
 だが、夫のクライムはさほどその必要性を認めてはいないようで、賃金に関して叩きに叩いてきた。
 四六時中の護衛、しかも住み込み前提での依頼ではあるが、どう考えても割に合わない金額を提示された為、一時は断ろうと思ったミルドレイだったが、偶然にかつての部下・ソルドと再会し、考えを変えた。
 心の傷に押し潰されそうになっているかつての部下に必要なのは、なにがしかの役割だとミルドレイは感じた。役割に、仕事に追われていれば、少なくとも思考の谷間に堕ちて潰れる可能性は低いのではないかと。
 それには、ディエンドル商会令嬢護衛の任務は適当に思えたのだが、いざ引き合わせてみると、ソルドの能力に夫人が疑問を持つのは当たり前だなと、こっそり溜息をつく。
 経歴には嘘はないが、今の体たらくを見れは、まともな人間なら仕事を頼もうとは思わない。
 だが、その思惑はともかく、クライム自身がフォローを入れているのだから、最後には夫人が折れるだろうが。
「しかたがありませんわね……」
 案の定、夫の説得に渋々ながら夫人が譲歩した。
「一応、アナスタシアと引き合わせてみましょう。でも、あの子がちょっとでも嫌がったら、別な人を用意していただきますよ」
「それはもちろん!」
 夫人の言葉はミルドレイに向けられたものだったが、自信満々に答えたのはクライムだった。
 さすがに隠しきれない苦笑いがミルドレイの初老の顔に浮かんだ。
 自らに与えられる役目の話だというのに、ソルドの視線はボンヤリと宙を見つめているだけだった。
「ソルド」
 夫人が娘を呼びに席を立った頃合いを見て、壁際に立っているソルドにミルドレイが近づいてきた。
「笑えとは言わんが、少しくらい愛想を良くしてくれよ。子供相手だ」
 小声で、命令とはほど遠い口調のミルドレイに、面倒臭そうに溜息をつきながらも、ソルドは小さく頷いた。
「まあ、最初に値切ったのはこちらだがね。働き次第でさらに賃金は下げるつもりだから、そのつもりでいて欲しいな」
 どうやら筋金入りの吝嗇家らしいクライムが、その嘘臭い笑顔を崩さないまま気楽そうに言ってくる。
 それなりに若くして商売を成功させているのだから、そうでなくてはならなかった部分もあるのだろうが、ミルドレイは最低限の不愉快を眉の間で表現しつつ、黙って頷いた。
「お待たせしました」
 どうもあまり友好的でない声色の夫人が、接客室に戻ってきた。
 部屋に入り、入り口の横に退くと、娘の名前を呼んだ。
「アナスタシア、入りなさい」
「はい、お母様」
 可愛らしい、線の細い声で答えて姿を見せたのは、年の頃なら十歳前後の、ふわふわした巻き毛が特徴の小柄な女の子だった。
「初めまして、お客様。アナスタシアです」
 仕立ての良い、細かいレースが施されたワンピースのスカートを摘み、視線を下げつつ腰を落として挨拶をする仕草に残る幼さが微笑ましい。
 家政婦や執事がいないわけではなかろうに、わざわざ夫人が迎えに行ったことといい、大事に育てられているのだろう。一目見ただけでもそうと知れる、花のような可憐さが漂う少女だ。
「初めまして、お嬢さん」
 年齢的には孫同然の少女に、好々爺然とした笑みをミルドレイが返すと、アナスタシアの笑みがさらに広がる。
 ふと突っ立ったまま反応を返さないソルドを目に止めて、アナスタシアは小さく首を傾げた。
 不愉快だとか嫌悪など微塵もない、単純に不思議そうな表情だった。
「そちらの方も、初めまして?」
 何の含みも感じられない無垢な笑みを向けて再度の挨拶をしてくる少女に、さすがに無視できなくなったか、ソルドも「……ああ」とだけ小さく返す。  
 愛想も素っ気もない返事だったが、それでも満足した様子のアナスタシアは母親のところまで下がる。
「アナスタシア、お前に護衛をつけるという話はしたね? 彼にその護衛を頼もうと思っているんだが、どうかな」
「護衛……?」
 再び、くりん、と首を傾げてミルドレイを見、続いてソルドの方に視線を巡らす。
 そして、夫人が止める間もなくトテトテとソルドの側まで近づくと、やや俯き加減だったソルドの顔を見上げる。ソルドはやや大柄な体格だし、アナスタシアは小柄もいいところなので、丁度視線がぴったりと合う角度だった。
「あなたが、わたしを守ってくれるの?」
 不自然な笑顔も、懐疑の色もない。
 純粋で透明な問い掛け。
 鮮やかな青色の瞳に吸い込まれるように感じた時には、ソルドは思わず頷いていた。
 クライムが満足そうに何かを言い、夫人が不機嫌を深めるのを気配で感じつつも、ソルドは少女の瞳から目を離すことができなかった。
「おひげがいっぱい」
 無精髭にまみれたソルドの顔に、少女は言った。
「わたしの大好きなクマさんそっくり」
 花がほころびるように、鮮やかな笑顔を浮かべる。
「わたしのこと守ってね、クマさん……」
 
 
「では、頼んだぞ」
 アナスタシアが納得した以上、ソルドが仕事を受けるのに、雇用主側からの問題はない。だが、ソルドの精神状態を考慮すればミルドレイに幾ばくかの不安があるのは事実だった。
 乗ってきた馬車のところまでソルドに送られて戻ってきたミルドレイは、ソルドの能力に対する心配ではなく、部下に対しての心配を、その軍人らしさの溢れた峻厳な顔に浮かべて、馬車の荷物入れから取り出した細長い包みをソルドに差し出す。
「これは……」
「懐かしいだろう。もっとも……今のお前には、嫌なものかもしれんがな」
 差し出されるままに受け取った包みを開くと、中から現れたのは正式の物よりも一回り大きな騎士団の長剣だった。
「お前の為の特注だったから、その後誰も使う人間がいなくてな。私が手元においておいた」
 柄本にあったはずの騎士団の紋章だけが取り外されている。
 ミルドレイの言ったように、それはソルドにとって複雑な思いを抱かせる物だった。
「自前の得物は持ってないだろう。私からの贈り物だとでも思っておけ」
 柄の革巻きも新しくなっているが、他は紋章が取り外されている以外、見覚えのある拵え。
 ソルドが、最も過酷で最も充実していた時間を、共にくぐり抜けた武器だ。
 折れず、曲がらず。
 騎士団の魂を象徴していると評された剣。
 今の自分が持つに相応しい物とは思えなかった。
 それに、この剣を目にしていると、どうしても自分が守っていた背中を思い出してしまう。
 得物を持っていないのは確かであるし、ミルドレイは純粋な気持ちで用意してくれたのだろうし、固辞する程の気力もソルドにはない。
 なんとなく受け取ったものの、馬車に乗って帰って行くミルドレイを見送った後も、腰に下げたその剣の柄に触れることが、どうしてもできなかった。
「それではメイリン、彼の案内をお願いね」
 一足先に仕事へ戻った夫の代わりにミルドレイの見送りに出ていた夫人は、随伴していた小太りの家政婦長に指示し、アナスタシアの手を引いて先に館へ戻る。
 手を母親に引かれながらソルドの方を振り返ったアナスタシアが、笑顔を浮かべつつ手を振ったが、ボンヤリと見ているだけでソルドは反応らしき反応を返さない。
「じゃあ、部屋に案内するよ。アタシは家政婦長のメイリン、これからよろしく頼むよ」
「……ソルドだ」
 陰気で負の雰囲気を発散する男に、やや及び腰で話しかけるメイリンだったが、無愛想でも一応返事が返ってきたことに納得したのか、先に立って歩き出した。
 
 メイリンに案内されたのは、屋敷の片隅にある小さな部屋だった。
 中庭にも、外にも出やすい位置にあるので、特に冷遇されているわけではないのだろうが。
 素朴だが清潔そうなベッドが一つと、小さなサイドテーブルが一つだけある。
「基本的には、お嬢様の登下校と外出時の護衛が仕事です。それ以外では、一応この屋敷には警備人もいますが、非常時にはそちらの補助に回って頂くことになりますな」
 あてがわれた部屋のベッドに腰掛けるソルドに説明しているのは、メイリンと入れ替わりにやってきた執事長のハイゼン。白いものが多い髪を丁寧に撫でつけ、きっちりと整えられた髭には清潔感が漂い、ソルドとは対照的だった。
 丁寧な説明が耳に入っているのかどうか、ソルドはぼうっと宙を見つめて、持ち込んでいた酒の瓶に口をつけた。
 ソルドの人となりには眉をひそめなかったハイゼンだったが、さすがにその態度には表情を曇らせる。
「……貴兄が雇われた事情は、屋敷を取り仕切る立場として、表も裏も心得ているつもりですが。あまりうるさく言いたくはないのですが、少なくとも与えられた仕事はこなして頂けますようにお願いします」
「……ああ」
 呻き声なのか返事なのか分からない声を発するソルドに、ハイゼンは深々と溜息をついた。
「今日はもう予定がありませんので、待機していて下さい。屋敷の中を見たい場合はメイリンに言って下さい。夕食は……」
「……いらない」
 ぼつりとソルドはハイゼンの言葉を遮る。
「…………腹にモノを入れると酔えないからな」
 その言葉に、ハイゼンは盛大に溜息を吐き出し、なにも言わずに部屋を出て行く。
 ソルド以外に誰もいなくなった部屋の中に、瓶の中身が立てる音だけが響いた。
 
「どう思うね、あの若いの」
「実際的な働きは、あまり期待しない方がいいでしょう」
 当日の夜。屋敷内の休憩所で食後のお茶を啜りながら、ハイゼンはメイリンの問いにキッパリと答えた。
「元々クライム様は、案山子程度に役に立てばいいと思ってらっしゃるようですし、その程度には役に立つのではないですか?」
 辛辣な評価を加えるハイゼンに苦笑いしながら、メイリンはクライムの正面に座る。
「お嬢様は、気に入ったみたいだけどね」
「なにが気に入ったのでしょうね」
「さっき訊いてみたら、部屋にある熊のぬいぐるみに似てるからって言ってたよ」
「そのように可愛い物でしょうか」
「久し振りにお嬢様の笑顔が見られたから、それだけでもアタシは構わないけど」
「やはり、学校では上手くいってないのですか?」
「そうとはっきり聞いたわけじゃないけど、言葉の端々や態度を見てるとね。お嬢様の少し鷹揚なところは、あたし達くらいの年寄りが見れば可愛げだけど、同じ子供が見ればどうか判らないし。なにしろ、ただでさえ成り上がりってんで目をつけられてるお家柄だしねぇ」
「子供の世界も、色々と面倒なようで」
 カップに残ったお茶を飲み干して、ハイゼンは嘆息する。
「学校に関しては、夏休みに入るからしばらくはいいけどね」
「内も外も問題多し、ですな」
「平穏無事なんてのは、面倒臭い人生のオマケみたいなもんさ。片付けるよ」
 愚痴っぽくなった空気を振り払うように、メイリンが明るく言って立ち上がった。
      
「あなた、少しいいかしら……?」
控えめなノックにクライムが答えると、ランプの灯りに照らされた書斎に入ってきたのは、夜着に着替えた夫人だった。
「どうしたね、ローラル? まだ少し書類仕事が残ってるんだ。寝室で待ってて……」
「話があるの」
 控えめな、自尊心の高い夫を刺激しないように考えた声色だった。
 それに気がついているのかどうか、クライムは手に持った書類の束を机の上に置いた。
「急ぎかい?」
「ベッドの中でするような話じゃないから」
「ふむ」
 これ見よがしに両手の指を絡め、椅子の背もたれに体重をかけたクライムが顔を向ける。
「なんだい?」
「……最近、商会からはあまりいい話が聞こえてきません。あまり良くない事に手を出しているという話も聞き及んでます。下の者たちからも、少なからず不満が出ているとか」
「そんな話か……」
 興味を失ったのを隠しもせずに溜息をついて、クライムは書類を手に取り直した。
「マイドナル海峡がこれからの時期閉鎖になるのは承知で、商船を越えさせたのはどうして?行きはともかく、帰りは明らかに閉鎖の時期に掛かるわ。まさか、無理に海峡越えをさせるおつもり?」
「海峡閉鎖中は、あちらからの輸入に頼っている物資は高騰する。閉鎖時期でも、絶対に海峡越えが無理というわけではない。優秀な船長を雇っているし、リスクに見合ったメリットも充分見込める。なにも考えていないわけではないよ」
「どうして、そのような危険を犯す必要があるの? なにか理由が?」
「ローラル」
 聞き分けのない子供を叱るような口調で、クライムは夫人を一瞥した。
「どうも君に余計な事をささやく不心得者がいるらしいね。それはまあいいとして、元々貴族のお嬢様育ちに商売の事は解らないだろうね。結婚する時にも言ったと思うが、君は仕事の事に口を出さずに、家の事だけ考えていてくれたまえ。君からの要望には、ちゃんと応えているだろう? なにが不満なのかね?」
「あの酔っ払いのことを言っているのかしら? シルクのドレスを注文したら、下男の作業着が送られてきたような非道い詐欺だと思うけれど」
「見た目はともかく、彼の経歴に嘘はないんだがね。……もういいかい? 今日中にこの書類に目を通さなければいけないんだ。申し訳ないが、今は君の愚痴を聞いてる暇は無いのだが」
 迷惑そうな態度を剥き出しにした口調に、夫人は細く長い溜息を吐いて、踵を返した。
「遅くに邪魔をしてごめんなさいね。今日は先に休ませていただくわ……」
 憤激を押し殺した口調で言い捨てて、夫人は音高く書斎の扉を閉めて出て行った。
 クライムはちらりとそちらを見ただけで、黙って手元の書類に視線を戻した。
 
「あのね、今日お屋敷に新しい人が来たのよ」
 広々とした部屋の真ん中に、豪奢な天蓋付きのベッド。
 調度は充実しており、過不足無いはずの、少女には逆に豪勢すぎる部屋。
 だが、どこか空虚さを感じる不思議な空間。
 その空虚さを埋めるように、至る所に大小のぬいぐるみが鎮座しているが、一際大きな子供ほどもあるクマのぬいぐるみにしがみついたアナスタシアは、ふかふかのベッドに半ば埋もれて、もの言わぬクマに話しかけていた。
「大きくて、おひげがいっぱいで。あなたみたいに、どこか哀しそうで寂しそうで、辛そうな目をしてた……あなたそっくり」
 異国の石を磨いて作られたぬいぐるみの瞳は、深い色を湛えて少女の言葉を吸い込んでいる。
「……みんなが幸せで、楽しくて、嬉しくなれればいいのにね……」
 眠りの精の誘惑に抗いながらの、ぽつぽつと途切れがちな言葉に、ぬいぐるみは応えない。 ただその言葉を受け止め続ける。
 やがて、安らかな寝息が小さな桜色の唇から漏れ始める。
 大きな窓に引かれた分厚いカーテンの隙間から、月の光が細く差し込んでいた。
 
 口元から落ちるように離れた瓶が、床ギリギリで辛うじてソルドの手の中に留まり、水音を立てる。
 開けっ放しの窓際で椅子に座り、差し込む月光の下でただひたすら機械的に酒を飲み続ける。
 夜空には少し欠けた月が煌々と輝き、その輝きが強すぎて星の光は地上へ届かない。
 淀んだソルドの目は夜の闇に向けられ、そこには無いどこかへ彷徨っていた。
 雷鳴のごとく、断続的な記憶が脳裏に走る。
 曇天を背景にそびえ立つ異形の城。
お前の背中は、お前の命はオレが守ってやるよ
 月光を照り返す銀色の刃を滑り落ちる深紅。
 喉の奥から溢れ出る血塊が、微かな呟きを掻き消す。
 切る瞬間は、確かに殺人鬼だったはずだ。
 だが、横たわり、光を失いつつある瞳から一筋の滴を落としているのは友の姿だった。
 確かにあいつは死にたがっていた。
 最後の最後まで、オレに対する恨みなど無かった。
 オレはあいつの望みを叶えてやったつもりだった。
 
 だが、それで良かったのか?
 
 本当は、あいつはオレに助けを求めていたんじゃないか?
 例え救うことができなかったとしても、最後の瞬間まで探すべきだったんじゃないか?
 すべきことを、してやれることを。
 もっと良い結末を。
 オレはそれをしなかった。
 あいつを救うなんて綺麗事を考えながら、変わってしまったように見えたあいつを見てるのが辛い自分を隠して。
 そして、あいつを一人で死なせた。
 殺した。
 恨みでも、憎しみでも、あいつがオレに少しでも向けてくれたなら、少しは楽だったのかも知れない。
 最後の最後まで、あいつは一人で全て背負っていってしまった。
 一緒に背負ってやれると思っていた。
 思っていただけだ。
 オレは結局、あいつの隣にすらいてやれなかった。
 周りの全てを置いて、あいつはいってしまった。
 残された人間は、やはり誰もオレを責めなかった。
 彼女も。
 オレの言葉を聞き、ただその光を失った両目から幾つも滴をこぼしながら、もう二度とは戻らない大切な時間への哀悼を捧げた。
 そこにはただ、深い哀しみだけがあり。
 怒りも、憎しみも、ありはしなかった。
 誰も責めることのない罪は、全て自らが背負うしかないのだということを、オレはその時初めて知った。
 そう、オレは罪人だ。
 もう二度と、赦されることのない、永遠の裏切り者だ。
 罪悪感が、身体の内側から心を食いちぎる。
 苦しむのは当然だ。
 苦しまなければいけないのだ。
 それなのに、耐えきれない。
 自己嫌悪をつまみに、酒を飲み干す。
 酔っている間だけ、ほんの少し痛みを忘れる。
 そして、痛みを忘れる事に、さらなる痛みを感じる。
 終わりのない、痛みの連鎖。
 逃れる術も、その資格もない。
 獣のような呻きが喉の奥から漏れる。
 それを押し戻すように、ただ酒を飲み続ける。
 夜はまだ長かった。
 
            3
 
「おはよう、クマさん」
 ソルドが屋敷に勤めて二日目。
 祝日の礼拝に向かう為の馬車に乗り込む前、アナスタシアは馬車の隣に突っ立つソルドへにこやかに挨拶する。
「…………」
 だが、ソルドはアナスタシアに一瞥をくれることもなしに、だらりとした仕草で馬車の御者台へ登る。
 隣に座られた若い御者は、ソルドから漂ってくる酒の臭いに一瞬顔をしかめたが、反応を返さないソルドを不思議そうに見ているアナスタシアに、帽子を取って挨拶する。
「おはよう、ジム。今日もよろしくね」
 にっこりと笑顔を浮かべて御者に挨拶を返し、引き続きソルドを注視するアナスタシアだったが、屋敷から見送りに出てきたハイゼンに促されて馬車に乗る。
「常ならば私か他の者も付いていくのですが、夏の間は屋敷の者たちも少しずつ休暇に入り、人手がやや足りません。多くは期待しませんが、給金程度の働きは期待しますので」
 ハイゼンが馬車の扉を閉めながら、ソルドに釘を刺す。
「……ああ」
 一応聞いてはいるようで、雑な反応が返ってくる。
「……頼みましたよ」
 溜息を隠そうともせず、ハイゼンはジムにも念を押す。
 ジムにしてもソルドは当てにならないと思ったのだろう。真面目な表情で頷いた。
「それではお嬢様、お気をつけて」
 ガラス越しに手を振るアナスタシアに手を振り返すハイゼンを残し、馬車は屋敷を後にした。
 
 街の通りを順調に馬車が進んでいると、ぱしゃ、と小さな音がして、御者席の後ろの小さなシャッターが開いた。
「ねえ、クマさん。どこか悪いの?」
 挨拶を無視されたのを、この少女はソルドの調子が悪いからと思ったようだ。心配そうに、綺麗な眉が少し寄り気味になっている。
 例によって、ソルドは無反応。
「ねえ、具合が悪いなら、お屋敷に引き返したほうが……」
「……悪いんだがな」
 心配そうにジムへ顔を向けるアナスタシアに、ソルドは酒に焼けた声で投げやりに言う。
「大した用がないなら、オレに話しかけるな」
 どう考えても丁寧とは言いかねる言葉に、隣のジムが鼻白む。
「……具合悪くないの?」
 だが、言われた当の本人は、心配そうな顔を崩さずにソルドをじっと見る。今の無礼な態度に心をとられた様子は欠片もない。
「お嬢様、こいつのことはオレが見てますんで、心配せんで下さい。それよりも、走ってる最中に席から立つと危ないですから、座ってて下さいな」
 見かねたジムが口を挟むと、しぶしぶといった態度ではあるが頷いたアナスタシアは、もう一度ソルドを見てからシャッターを閉めた。
「……あんた、子供に対してくらい、少しは愛想良くしたらどうかね?」
 見かけからするとかなり若そうなジムだが、子供好きらしく、人の良さそうな顔を僅をしかめてソルドの態度を咎めた。
「……与えられた仕事はするが……子守はオレの仕事じゃない」
 あまりといえばあまりの返事に、ジムは絶句した後、これ以上何を言っても無駄だと判断して、手綱を握り直して正面を向いた。
 無駄だろうなと思いながら、言わずにはいらない皮肉が口をつく。
「央都突入部隊ってのは、英雄の集まりだと思ってたんだがね」
「…………英雄なんていなかった」
 返事があったことに驚いて視線だけソルドに向けるが、ソルドは宙を見つめているだけだ。 返事と言うよりも、独り言に近い呟きが続く。
「戦わなければ死んだ。だから生きる為に戦った奴らばかりだった。英雄は、ひょっとしたらいたのかもしれないが……少なくとも、オレは違う。オレは、ただそこにいただけだ……」
 ぶつぶつと漏れる言葉には聞き取れない部分も多かったが、ソルドの態度がただの怠惰からくるものではないのだろうということは、なんとなくジムにも察せられた。
 だからと言って、ソルドの態度は同情できるようなものでもない。
 盛大に溜息を吐いたジムは、それ以上特に話しかけることもなく、馬車が石畳を進むガタゴトという音だけが響いていた。
 
 しばらくして辿り着いたのは、第二央都中央部、東側の外れにある大きな教会。
 東部にある貧民街に比較的近いが、第二央都の中では最も治安のいい辺りである。
 宗派は、世界でも最大の信者数を誇る大地母神信仰。
 休・祝日の礼拝はもちろん、貧民街の、学校に行くだけの財力を持たない子供達の為に休日学校を開いたり、食べることにも事欠く人々の為に、炊き出しを行ったりもしている。
 その一方で富裕層の参拝も多いが、さすがに礼拝時以外は両者が同席することは少ない。
 第二央都では富裕層と貧困層の格差が大きいが、両層の人々が分け隔て無く集まる、比較的珍しい場所の一つだ。
 また、大地母神教会で授けられる護符(チヤーム)は、寄付や奉仕活動をすることによって階層を問わず授けられており、この教会は施設の大きさに比べて専任の職員が少なめなのだが、護符を授かる為の奉仕作業に従事する人々は意外に多く、手が足りないということはほとんどなかった。
 夏休み中のアナスタシアは、ここで勉強することになっている。
 ある程度の財力を持った家ならば、夏休みなどの長期休暇中は、家庭教師の類をつけるのが一般的だ。
 だが、早いうちから様々な人間と触れ合うのに理想的という理由から、夫人の方針で教会通いを選んだらしい。
 ソルドが雇われた経緯も、教会通いをするにあたっての不安を少しでも薄くする要があってのことと思われた。
「デイジー、ローイス、今日もありがとう。行ってくるね」
 馬車から降りたアナスタシアは、まるで人に挨拶するように馬車を引いてきた二頭の馬に声を掛ける。
 まるで返事をするように軽くいななく二頭に笑顔を送り、帽子をとるジムにも笑顔を返す。 そして、ソルドに視線を送る。
 妙な間。
 ややあって、アナスタシアが可愛らしく首を傾げた時に、ジムが言った。
「なにやってんだ、降りなよ」
「?」
 今度はソルドが不思議そうな顔をする。
「いや、アンタ、お嬢様の護衛だろうが。お嬢様を置いて屋敷に帰ってどうすんだ?」
「……そうか」
 反論するでもなく、ソルドがのろのろと馬車を降りるのを見届けたジムは、一つ鼻を鳴らし、アナスタシアに礼をしてから、ゆるゆると教会の敷地を後にした。
「おや、アナスタシアさん。おはようございます」
「あ、神父様。おはようございます」
 ぼうっと突っ立ったまま馬車を見送っていたソルドは、アナスタシアと、静かで深みのある男の声で振り返った。
 ちょうど真新しい佇まいの教会から、やや背が高く細身の、黒い修道服姿の男が歩いて来るところだった。
「こちらは?」
 静かな歩調で近づいてきた神父は、二人の目の前までやってくると、小綺麗にまとまったといえる、確かに聖職者向きであろう顔を向けて訊ねた。
「はい。わたしのこと守ってくれる人です。クマさんってい……」
「ソルドだ」
 満面の笑顔で紹介をしようとするアナスタシアの言葉に被せて応える。
「最近ますます物騒になってきていますからね。護衛の方ですか?」
「……そうだ。あんたは?」
「これは失礼しました。この教会の責任者兼神父長で、セラビィと申します。以後よろしく」
「神父だと……?」
 優しく和らいだ表情のセラビィに、うろんな視線を注ぐソルド。
 美貌ではないが顔立ちはそれなりに整っていて、身長はさほど高くない。やや痩せてはいるように見えるが、貧相ではなかった。
 いかにも聖職者然としていて、特におかしなところはなさそうに見えた。
「なにか?」
「……いや、なんでもない」
 わざわざ掘り下げて訊ねるのも面倒臭いと思ったのだろう、興味を無くした様子で、ふいと視線を外す。
「そうですか。では、アナスタシアさん、ついでですから、教室まで一緒に行きましょうか」
「はい!」
「ソルドさんはどうします?」
「……時間はいつまでだ?」
「今日は、後三刻までですね」
「……適当に敷地内で待機している」
「そうですか。では周りには伝えておきますから、ごゆっくりどうぞ。では失礼します」
 軽く頭を下げて、セラビィはアナスタシアを先導して教会に入っていった。
 途中何度か振り返って笑顔で手を振るアナスタシア見もせずに、セラビィの背中をしばし見つめた。
「神父だと……?」
 同じ言葉をもう一度呟く。
 あの神父から漂ってきた匂いは、ソルドが昔嗅ぎ慣れた匂い。
 血と争いの匂いだった。
 だが、セラビィの背中が建物の中に消えると共に、すぐ興味を失う。
 第二央都は、良くも悪くも雑多な都市だ。様々な過去を持った人間で溢れている。
 自分とて、人に話したくなるような過去を持っていない。
 教会前広場に植えられた大きな木陰まで移動し、そこに座り込むと、懐から酒瓶を取り出したソルドは、無造作にそれをあおった。
 
         4
 
 アナスタシアの教会通いがはじまってしばらくは、平穏な日々が続いた。
 だが、傷を背負う者にとって、平穏な日々はその痛みを耐えるだけの日々。
 なにもない時間は、最も苦痛を助長させる。
 ごろり。
 空の酒瓶が床を転がる音が、暗い部屋の中に反響する。
 今夜は特に痛みがひどい。
 すでにいつもの倍以上の酒量を重ねている。
 それでも耐えられない。
 意識は混濁し、足下もすでにおぼつかない。
 痛みだけがある。
 痛みを感じる感覚は鈍っているはずなのに、痛みだけが無くならない。
 薄まらない。
 逆に感覚が鈍ることで、痛みだけが鮮明になっていく。
 もっと飲まないと……。
 新しい酒瓶を出す為に立ち上がった瞬間、ソルドは大きくバランスを崩してサイドボードにぶつかった。その拍子に、口を開いたままサイドボードの上に放って置いた小物入れが床に落ちる。
 大して物持ちではないソルドの持ち物はたかが知れている。
 軽い音を立てて床に散らばった道具が、ソルドの持ち物の全てだった。
 酩酊状態で血走ったソルドの目が、床の小物の一つに吸い寄せられた。
 それは、白と黒の戦争と呼ばれた先の大戦後半、兵士に広く配布されたもの一つ。
 精神汚染や、精神同化といった搦め手を使う敵が戦場に現れ始めたのに対抗し、開発された道具だ。
 見た目は小指大で縦長の巻かれた紙。
 基本は呪術筒と呼ばれる、簡易的な法術を専門的な訓練なしに使用可能にする道具で、まず攻撃的な法術が込められることはない。込められる法術の階位が低すぎる為、有効さが求められなからで、呪術筒自体は軍の生活雑貨の一つである。
 その道具の名前は「自決筒」。
 生物の身体に流れる「素」というエネルギーを火薬に、簡単な攻撃法術で撃発すると、使用者の神経系を破壊、瞬間的に死に至らしめる。
 当時の精神攻撃は、抵抗できずに感染すれば回復の手段は無く、乗っ取られて敵になる前に自決、または周辺の味方が始末する他に手がなかったのだ。
 急作りの為、数々の欠点を持つが、敵空の攻撃に対し対抗法術の完成が間に合わなかった為、結局終戦まで使われたものだ。
 あまりに使用目的が限定されているので、兵器に分類されるものに関わらず、終戦後も積極的な回収が行われなかった。
 それがソルドの荷物の中にあったのは、退役の時に返しそびれたものが紛れ込んでいたのだろう。少なくとも、そこにそれが入っていることに、ソルドは今まで気がつかなかった。
 だが今のソルドには、それがとても魅惑的なものに見えた。
 
 暗く分厚い雲が垂れ込めた夜空には、星どころか月すらどこにあるか判らない。
 真夜中である。
 最近第二央都の区画整理と共に設置され始めた外灯の、個人邸宅用が何基かディエンドル邸に設置されている。
 その内の一つが置かれた中庭に、ふらふらと歩み出てきた人影が一つ。
 その人影、ソルドが空を見上げた。
 淀んだ瞳に映るのは、同じように淀んだ夜空。
 外灯の光は弱い。
 その僅かな光は、周りの景色を闇の中から浮かび上がらせるが、それは逆に光の届かない場所の闇を深くする。
 のろのろとソルドの右手が上がった。
 手の中にあるのは自決筒。
 ピタリと、少し傾げた首筋に押し当てられる。
 その動作には、積極的な意識が欠片も感じられない
 ぼんやりした頭の中に撃発の為のイメージを展開。
 これで終わる。
 安堵すら欠片もない、無機質な想い。
 機械的に、その口が撃発の呪文を唱える。
 静寂。
 何も起きなかった。
 ソルドの目にほんの少し正気が戻り、愕然とした表情を浮かべて手中の自決筒を確かめる。 撃発の要になる、外側に記された赤い呪印。
 その一部が濡れて滲んでいた。
 この道具の欠点の一つ。
 撃発を司る呪印が極端に繊細で、水分に弱い。
「なんで……?」
 呟くソルドの鼻先に水滴が当たる。
 雨。
 水滴はどんどんと数を増やし、やがて雨になった。
 降り始めのたった一滴。
 それが自決筒に当たったのか。
 力なく空を見上げるソルドに、勢いを増していく雨が降り注ぐ。
 お前は、そのまま苦しめ。
 そう言われているようだった。
 呆然と雨を浴び続けるソルドは、ふと視線を感じて邸宅を見上げた。
 小さな人影が、二階の窓からソルドを見下ろしていた。
「……?!」
 見ていたことに気付かれて驚いたのか、目があった途端、アナスタシアは慌ててカーテンの向こうに逃げていった。
 雨はさらに強くなっていく。
 ソルドはいつまでも、雨に打たれながらそこに立ち尽くしていた。
 
 自決に失敗した夜から、ソルドの生活はさらに酷くなった。
 動いていなければ死体と間違えそうなほどだ。
 他の使用人との溝はさらに深まり、孤立の度も深まっていく。
 かろうじて護衛の仕事はこなしているものの、それもいつまで続くか疑問だった。
 さすがにあの夜以降、アナスタシアの態度もやや硬いものになっている。
 だが、それを有り難いと思うほどの感情もソルドには残っておらず、あの晩以降、アナスタシアの通学時間が行きは早く、帰りもかなり遅くなっていることにも頓着していなかった。
 そして一週間が経った頃。
「ねえクマさん、ちょっとしゃがんで」
 教会帰りの馬車に乗る直前、不意にアナスタシアがソルドに声をかけた。
 少女の願いに疑問を持つ気力も無いソルドは、のろのろとアナスタシアの前に膝をついた。
「はい」
 ちゃり、と軽い金属音がして、ソルドの首になにかが掛けられた。
「元気出してね」
 ソルドの耳元で小鳥が鳴くような声で囁くと、アナスタシアは小走りに馬車に乗り込んだ。
「……?」
 立ち上がりながら手にとって確認すると、細い銀鎖の先にレリーフが彫られたヘッドが付いている。
 ペンダント型の護符だ。
 そのレリーフが目に入った瞬間、ソルドはぎくりと身をすくませた。
 通常、護符のレリーフは、願いの種類や持ち主誕生時の星の巡りに応じた神の姿が刻まれる。
 だが、今ソルドの首にかけられた護符には、魔王のレリーフが刻まれていた。
 永遠の裏切り者。
 それがその魔王に付けられた、最も有名な呼び名。
 創世神話において、神々の一柱でありながら他全ての神々を裏切り、戦った魔王。
 名前も伝わっていない、その名前すら忌避された存在。
「やはり、あなたの為のものだったんですね」
 その意図を計りかねたソルドが立ちすくんでいると、アナスタシアを見送りに来たのか、セラビィが声を掛けてきた。
「なに……?」
「ここしばらく、アナスタシアさんが来るのが早かったり、帰りが遅かったりしたのを変だと思いませんでしたか?」
「…………」
「彼女は、その護符を授かる為に奉仕活動をしていたのですよ」
「オレの為……?」
 ボンヤリと呟きながら手の中の護符を見下ろす。
 だが、まだその意味が解らなかった。
「その方は一般的に魔王として忌避されていますが」
 ソルドの戸惑いを感じているように、セラビィが説明を加える。
「我々の宗派では、あえて裏切り者として敵になることで、神々の結束を促し、創世神話における神々の争いを終息に導いた英雄神であるとされています」
 それは少なくともソルドは初めて聞く解釈だった。
「その方は、裏切り者の守護者であり、絶望した者を導く存在なのです。おそらく、貴方にはあった護符だと思いますが」
 ゆっくりと首を動かし、ソルドはセラビィに目を向けた。
「私がそう思ったわけではありませんよ。彼女が、そういう人に一番いい護符はなにか訊いてきたのですよ」
 笑みを浮かべたセラビィに言われ、馬車の方に視線を向けると、馬車の窓からこちらを伺っていたアナスタシアが、慌てて馬車の奥に引っ込んだ。
「生きている以上」
 ソルドの隣に立ったセラビィが、聖職者らしい諭す口調で言った。
「できることをしなければいけません。新しい後悔を増やさない為にも」
 それが聞こえているのか聞こえていないのか、ソルドは手の中の護符を見つめたまま立ち尽くした。
 ぶるるっ。
 動かないソルドを促すように、デイジーとローイスが軽くいななく。
 はっと顔を上げたソルドが、今までになくやや慌てた様子で御者席に上がる。
 ソルドとセラビィのやりとりを黙ってみていたジムが、帽子をとってセラビィに頭を下げると、馬車が動き出す。
 ソルドの視界の隅で、御者席側の覗き窓がそーっと開き、アナスタシアがこちらを覗き込むのが見えた。
「……アナスタシア」
 急に呼びかけられて、アナスタシアが身をすくめる。
「ありがとう」
 今までからは想像もできない、あまりに素直な感謝の言葉。
 不意を突かれたのか、アナスタシアはみるみるうちに真っ赤になり、逃げるように覗き窓を閉めてしまった。
 横でそのやりとりを、見ていたジムは片眉を上げて驚きを表現したが、雇い主を呼び捨てにしたことを叱責したりせずに、黙って手綱を握っていた。
 
 その夜。
 月の光が差し込む自室で、ソルドは腰掛けたベッドの下から酒瓶を取り出した。
 微かに月光を反射する瓶に、無精髭だらけのうえ不摂生を重ねた自分の顔が映っていた。
「ひどいツラだな……」
 苦笑いが浮かぶ。
 ちゃり、と銀の鎖が音を立てる。
 魔王のレリーフもまた、月光を反射していた。
 酒瓶のコルクを強く押し込み、再度ベッドの下に放り込む。
 乱暴に靴を脱ぎ捨て、ベッドへ横になる。
 例え悪夢混じりであっても。
 久し振りに眠ることができそうな気がした。
 
 月は優しく夜を照らしている。
   
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