番外編・それぞれの肖像「石堀舞(いしぼり まい)の場合」
 
            1
 
「ね、舞ちゃん、ちょっとアルバイトしない?」
 学校の授業が終わり、帰り支度を始める舞に、小柄でアンダーフレームの眼鏡を掛けた、太いお下げが特徴的な少女が話しかけてきた。
 その眼鏡の少女──葉弥乃が、こうして唐突に話を振ってくるのにも随分慣れてきた舞は、ゆっくりと首を横に傾げ、いつものようにぼそっとした口調で問い返す。
「……怪しいやつ?」
 その拍子に、中途半端な長さのままつんつんと伸びた前髪の隙間から、そのぶっきらぼうな口調に似合わない、意外に優しげな目元が見えた。
「あ〜〜っとね、ちょっと怪しいかも」
 あはは、と笑う葉弥乃には、気まずそうな様子は欠片もない。真意を測りかねた舞は、じっと前髪の間から葉弥乃の顔を見つめる。
「頼んできた人間が人間だから、あまりまともな頼み事じゃないかもってことなんだけど。一応、ヤラシイことや、犯罪じゃないのは確かよ。現金収入では無いと思うけど、どうかな?」
「……なんで、ボク?」
 男の子のような口調で問い返す舞は、ボサボサの髪型に大きめのTシャツと黒いスパッツ。それに加え、女子にしてはやや背が高めでスレンダーな体型の為、遠目には男に見えてしまいそうだ。
「名指しってわけじゃないんだけど、相手が出した条件に合うのが舞ちゃんだったから。なにか予定があるなら、他を当たるけど」
「……今から?」
「早ければ早いほどいいって」
「……」
 しばらく沈黙しつつ思案していた舞は、やがてゆっくり頷いた。
「……わかった」
「良かった、ありがとう舞ちゃん。じゃあ、今から依頼人のとこいくけど、大丈夫?」
 黙って頷く舞。
「じゃあ、早速いきましょうか」
 
 放課後の第三図書館。
 第一、第二に比べ、古書が中心のここは、放課後でもやや人は少ない。
 その第三図書館の奥、本棚に隠れて外からは見えない窓際。四人がけの机に、二人の女学生が向き合って座っていた。
 片方はどこにでもいそうな、気弱な雰囲気の制服姿の少女だったが、もう一人の方はやや異質な少女だ。
 窓を背にして座っているその少女は、すんなりと真っ直ぐ伸びた美しいブラウンヘアーを耳の上にかき上げ、日本人離れした怜悧な美貌をさらしながら、テーブルの上に並べられた革製のカードをトントンと人差し指で叩いた。
「とりあえず、悩みをなんとかしようっていう熱意が、根本的に足りないんじゃないかしらね。それって、相談とか占いとか、それ以前の問題よ? それが悪いとまでは言わないけれど、もっと切実な気持ちで私のところにくる人は多いの。その人たちの時間を奪ってしまうのだけは感心しないわ」
 棘は無いが、淡々と、それでいて流暢で辛辣な言葉に女生徒は身を縮めた。
 滑らかな動作でカードを手元に集めながら、少女と呼ぶには成熟した気配を持つもう一人の女生徒は言葉を続けた。
「以上。……本当に自分にできる全てのことをして、それでもどうにかならなかったら、またくるといいわ。そのときはアドバイスするから」
 最後の言葉の尻尾には、僅かな優しさが引っかかっていた。
 それを敏感に察した女生徒は、ほっとした顔で立ち上がり、深々と頭を下げてから小走りにその一角から出て行った。
 女生徒の背中が見えなくなるのを待ち、残された方の女生徒が軽く溜息をつくと、本棚の向こうから眼鏡の少女が顔を出した。
「や」
「ああ、葉弥乃。そろそろ来る頃だと思ってたわ」
 先程までの怜悧さの下から顔見知りに対する気安さを覗かせ、その女生徒は品のいい笑顔を葉弥乃に見せた。続いて姿を見せた舞にも、軽く会釈する。
「どうぞ座って。そちらの彼女もどうぞ」
 促される前に椅子に着いていた葉弥乃が、面白そうに口を開く。
「叉里亜(さりあ)、相変わらずねぇ」
「あまり好意的な『相変わらず』じゃないみたいだけど?」
「だって、占いって、カウンセリングみたいに色んな方法で悩みを聞き出して、アドバイスするもんなんじゃないの? 叉里亜ってそういう駆け引きしないで札しか見ないじゃない。言い方もきついし」
「話なんか聞かなくても、全部札に出るもの。聞くだけ無駄よ。大半は占うだけの必要も無い話ばかりだしね。さっきの子だって、もっとキツく言ったって良かったと思うわ。大体、お金を取ってやってることじゃないんだから、細かい気なんて使ってられないわよ」
「とか言って、ちゃんとフォローもしてたじゃない」
「別にフォローじゃないわ。本当に一生懸命やった後なら、いくらでも相談に乗るわよ。私、一生懸命な人って好きだもの」
「……すまない」
 日本人離れした容貌から飛び出す流暢すぎる日本語に、そこはかとなく違和感を感じながら、舞は放って置いたらいつまで続くかわからない会話に割り込んだ。
「……誰?」
 叉里亜を見てから、葉弥乃に目を向ける舞。
「あ、うん、ごめんね。この派手な娘は一年子組の葵叉里亜(あおい さりあ)。仕事を頼んできた相手よ」
「余計なことは言わなくてよろしい。自己紹介が遅れて御免なさいね、初めまして、葵です」
 微笑みを浮かべて頭を下げた叉里亜の瞳の色が、ターコイズブルーなのに舞は気がついた。
 舞の視線に気がついた叉里亜は、笑みを深めてあかんべえをするように、人差し指で片目を軽く剥いた。
「お祖母様譲りなの。綺麗でしょ?」
「日本人ぽくないけど、四分の三は日本人だよ」
「……すまない」
 まじまじと見たのは不躾だったかと舞は謝罪したが、叉里亜は気にした様子もなく言った。
「大丈夫、慣れてるから。それに、自慢のチャームポイントだからね。貴女のお名前も聞いていいかしら?」
「……石堀舞。拳闘を少し、やってる」
「舞さん、でいいかしら?」
 黙って頷く舞。
「じゃあ、早速頼みたい仕事の話をするけど。まずは、私がこの学校でやってることを簡単に説明するわね。さっきみたいに色々と校内の人間の相談を受けながら、ちょっとした怪しいトラブルの解決なんかをやってるの」
「……怪しい?」
「有り体に言えば、オカルト系」
 叉里亜の返事に舞は一切表情を変えず、しばらくその顔をじっと見た後、ふと葉弥乃に顔を向けて言った。
「……いろんなのがいるな、ここ」
「それがこの学校の売りだもの」
 馬鹿にした調子も呆れているわけでもない至極真面目な舞の様子に、葉弥乃は笑って答える。
 あからさまに怪しげな話だったが、最初に怪しい話と断られていたし、多少の興味も舞にはあった。
「これだけ個性的で強力な意識が集まる場所だから、その手の話は多いのよ。でね、舞さんには、これからちょっとある場所まで一緒に来て欲しいの」
「……いくだけ?」
「とりあえずは。これで」
 頷きながら叉里亜は綺麗に重ねられた札を示す。
「条件に合う相手を現場に連れていけって卦が出たの」
 そういえば、さきほど葉弥乃がそんなことを言っていたような気がする。なんとなく聞いても理解できなさそうだと思った舞は特に問い質そうとはしなかった。
「……どこ?」
「第二ボクシング部。その練習場ね」
 舞は反射的に、三ヶ月ほど前の入学式が終わった後、どこで聞きつけてきたのか自分を勧誘に来ていた、丸顔で人の良さそうな第二ボクシング部長の顔を思い出していた。
「ここしばらく練習場を閉めてるって聞いたけど、それが原因?」
 葉弥乃が口を挟むと、叉里亜は真顔で頷いた。
「そう、出るようになったらしいわ」
「……出る」
 ここまでの話の流れから、大体何のことかは想像がつく。
「で、そこに舞ちゃんを連れてけってこと? 後はどうするの?」
「さあ?」
「叉里亜が言うことにしては、珍しく漠然としてるのね」
「説明しても解らないでしょうけどね。貴女もそうだけど、特に諏訪君周りの人達は星の力が強すぎて卦がぼやけるのよ。ちょっと占ってみて漠然とした感じの卦だったから、葉弥乃周りの人間が関わってくるんだろうなって想像が逆についたわけだけど」
「わかんない。まあいいけど」
「どうかしら、頼まれて貰える?」
「……ああ」
 短く舞が頷くと、叉里亜がにっこりと微笑んだ。
「ありがとう。それじゃ報酬の話なんだけど、『かどや』の百円ラーメン食べ放題券が七枚。いいかしら?」
 かどやは安さと量の多さで近隣学校の運動部員御用達の飯屋である。
「予想はしてたけど、想像以上にチープな報酬ねぇ」
「私自身が報酬とってやってるわけじゃないからね。これだってさすがに自腹じゃないけど、依頼主から好意で貰ったものなんだから」
「……それでいい」
「いいの?」
 紹介した手前気になるのか、舞の顔を覗き込んで葉弥乃が問い返す。
「……もともと、それが目当てだったわけじゃない」
 表情が薄く、口調も木訥な感じなので真意が読みにくい舞だったが、分かり難い皮肉や建前は口にしないので、本音なのだろう。
「硬派なのね。好きよ、そういう人」
 戯けた台詞だが、あながち冗談でもなさそうに叉里亜は言った。
「いつもならタダでこき使えるのがいるんだけど、つい最近関わった件でちょっと怪我しててね。引き受けて貰えるなら、とても助かるわ。それじゃあ、明日の放課後またここに来てもらえるかしら? 依頼者の方には私が話を通しておくから」
「はいはい! もちろん、あたしも立ち合っていいよね?」
「どうせ駄目だって言ってもくるんでしょう、貴女は」
「うん」
 しれっと答える葉弥乃。
 交渉というか、確認が終わったと見て取った舞は椅子から腰を上げた。
「じゃあ、また明日」
 よろしくね、と見送る叉里亜を残し、舞と葉弥乃は第三図書館を後にした。
 
          2
 
      **********
 
「やめんか! 一体全体、なにがあったってんだ?!」
 背後で怒鳴るおじさんの声が遠くに聞こえる。
 母さんがいなくなって、父さんが死んで。
 一人の身内もいなくなった自分を、血の繋がりも何もないジムの一選手の子供だった自分を引き取って面倒を見てくれた恩人で、ジムの会長。
 自分が何をしたのか、頭では理解していても実感がなかった。
 じわり、と両方の拳から「痛み」が這い上ってくる。
 それは妙な感覚だった。
 それが「痛み」だとは理解できるのに、「痛み」を感じることができない。
 じんわりとした熱のような感覚。
 日はやや傾き、オレンジ色の日差しがジムの中に陰影を作っていた。
 拳の皮膚が破れ、そこから滲んだ血がぽつぽつと床に点を作る。
 滴る血は、自分のものだけではない。
 目の前の壁に磔状態だった男が、糸を切られた人形のように床へ崩れ落ちた。
 ごとん、と堅い音を立てて床にぶつかり横を向いた顔は血に塗れ、輪郭が歪んでいた。一目で意識が無いのが判る。
 ふと目を落とすと、自分のセーラー服にも点々と赤いものが散っていた。
 右を見る。
 力無く、土下座するような格好で、腹を押さえたまま床に顔を押しつけて動かない男が一人。
 左を見る。
「ひっ……!」
 鼻血が止まらないのだろう、鼻っ柱を押さえて蹲っていた青年が、こちらと目があった途端に、尻で床を掃除しながら後ずさる。
 面白いほどその顔は青ざめて、鼻がはっきりと横を向いていた。
 酷く現実感を欠いたままで、自分が口を開くのを他人事のように感じていた。
「…………笑ってみろ」
 小さくかすれた声だったが、相手の顔が引きつったところを見ると、しっかりその耳にとどいたらしい。
「……お前らにその権利があるっていうなら、もう一度嘲笑(わら)ってみろ……」
 これ以上ないほど蒼白になっていた青年の顔は、真っ白になった。
「父さんのことを嘲笑ってみせろっ……!!」
 恐怖が頂点に達したのだろう、その青年はヒステリックな悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。
 音が、感覚が、景色が、遠い向こうにあった。
 世界が、とても遠く。
 その中で、「痛み」のない拳の「痛み」だけが、現実的(リアル)だった。
 
      **********
 
 はふぅ、と舞は溜息のような欠伸を漏らした。
 梅雨も明け、期末テストも終わっているので、後は夏休みを待つばかりの放課後。まだ昼を過ぎたばかりで、初夏の日差しが廊下に降り注いでいる。
 舞はいつもと変わらず無地のTシャツに黒いスパッツ姿。葉弥乃もスカートをはいている以外は似たような格好だが、小柄な割には力強く胸元が持ち上げられているTシャツの背中には「日々是平穏」という黒々とした墨書がプリントされていた。
 朝食を皆で済ませた舞は、葉弥乃と連れだって第三図書館に向かっているところだ。
「なんか眠そうだね。大丈夫?」
「……夢を見た」
「夢?」
「……普段はあんまりみない」
「舞ちゃん、寝付きいいもんね。どんな夢?」
 なんの気なしの質問だったが、舞は一瞬口をつぐみ、やがてぽつりと言った。
「……つまらないやつ」
 そんなやりとりをするうちに、第三図書館までやってくる。
 二人が図書館内に入ると、貸し出しカウンターで図書委員らしくないごつい容貌の男子生徒がこちらに目を向けた。
 葉弥乃の顔見知りなのか、表情を緩めつつ片手を上げて挨拶してくるのに葉弥乃が返すと、彼は黙って手にした科学雑誌に目を戻した。
 昨日のように奥まで行くと、叉里亜は昨日と同じ席で女生徒二人相手に話をしていた。おそらく占いの客だろう。
 叉里亜がいつもいる席の区画は奥まっている上に本棚に囲まれている為、図書館の入り口からはほとんど見えない。一度葉弥乃が「地震がきたら、一発でぺちゃんこだね」と言ったところ、「私を誰だと思ってるの。そんなヘマをするとでも?」と帰って来たことがあった。
 とりあえず、まだ少しかかりそうな様子だったので、適当に時間を潰すことにした。
「ごめんなさい。待たせてしまったわね」
 しばらくすると、本棚の向こうから質素なナップザックを持った叉里亜がやってきた。古地図の束を引っぱり出してきていた葉弥乃が顔を上げる。
「すぐにいく? お昼は?」
「大丈夫よ。舞さん、行ける?」
「……ん」
 椅子に座って眼を閉じていた舞が、ぱち、と目を開いた。
 
「もう二ヶ月くらいになるかな……」
 ボクサーというよりも、高校球児のようなイガクリ頭の部長・坂下は、古めかしい南京錠がかけられたプレハブの練習場前で、そう切り出した。
 先程一行の中に舞を見つけた彼が、舞が入部希望で来たと勘違いしたせいで軽く一悶着あったがものの、叉里亜からの説明でなんとか収まった。
 まだ少し残念そうな雰囲気の視線を時折舞に投げているが、しっかり舞からは黙殺されつつ、坂下は背後のサッシ戸を肩越しに一瞥する。
「リングの上にね、出るようになったんだ。まだ具体的に人的被害が出たわけじゃないんだけどね。出始めてからすぐにここを閉鎖しちゃったから、実際に人的被害が出るものなのかどうかはわからない。自分じゃ試す気にならないし、大切な部員ならなおさらだ。しばらく経てばいなくなるかと思ったけど、ちょこちょこ確認しに来ている限りは、やっぱり出るんだよね。だから、にっちもさっちも行かなくなって、葵さんに頼んだんだけど」
 言葉を切って、坂下は不安そうに叉里亜を見る。
「大丈夫だよね?」
 とりようによっては失礼な質問と態度だったが、叉里亜はにっこりと微笑んだ。
「頼り無く見えますか? 安心して下さい。代替わりばかりですが、きちんと申し送りも受けていますし、その実力もあるからここにこうしているのですから」
「そ、そうだよね。とにかく俺がどうこう言うよりも、見てもらった方がいいかも……」
 部長と言うからには叉里亜より年上なのだろうが、明らかに気圧された坂下は慌てて練習場の鍵を開けた。
 練習場は後者の裏手にあり、西日は校舎に遮られているが、半日密閉状態になっていた練習場内は十分熱気が溜まっている。開いたサッシから、まとわりつくような熱気がこぼれて、一行の身体を撫でていった。
 無人の練習場内はかなりの広さがあったが、釣り下げられたサンドバッグやパンチングボールなどの器具があるため、それほどガランとした印象はない。
「窓開けるね」
 一声掛けて四方の窓を開けていく葉弥乃に続いて、坂下も少し警戒した態度でそれを手伝う。
「舞さん?」
 練習場に踏み込んだ直後から練習場内の一点を見つめて動かない舞に、叉里亜が声を掛けた。
「……ん」
 舞は簡単に返事をするだけで、視線を動かない。
 その視線は、練習場の真ん中に据えられたリングの赤コーナー辺りに注がれていた。
「ひょっとして舞さん、視え(かんじ)る人かしら?」
 叉里亜の質問に、舞は少しだけ顎を引いて答える。
「それなら話は早いわね。先に言ってくれれば良かったのに」
「……聞かれなかったから」
 短く答えた舞は、ふいっと視線を逸らし、壁際にあったベンチに腰を掛け、どこからともなく取り出したバンテージを手慣れた動作で拳に巻き始める。
「なにしてんの、舞ちゃん?」
 顔に風を送るつもりなのだろうが、暑い空気を掻き回す役にしか立ってない手をパタパタと動かしながら、窓を開けて戻ってきた葉弥乃が尋ねた。
「……バンテージ巻いてる」
「どうして?」
「……拳を保護する為」
「そうじゃなくてぇ!」
 眉をハの字にして腰に手を当てる葉弥乃を尻目に、舞は黙々とバンテージを巻き終えると、右の拳を固めて左掌を打つ。
 ぱしん、と乾いた音がする。
「……ボクがくれば解決すると葵が言った」
 今度は左で右を打つ。
「……ボクができるのは、これだけだ」
 だから、そうする。
「……グローブを貸して」
 一人だけ蚊帳の外で様子を伺っていた坂下は、不意に舞から声を掛けられたことに慌てながらも、頷いてグローブを取りに行った。
 
         3
 
     **********
 
 すっかり禿げ上がってしまっている額をつるりとなで上げ、大村は腕を組んだ。
 ジムを構えてもうすぐ二十年になるが、こんなことが起こったのは初めてのことである。
 日本ランカーが二人に練習生が一人。計三人が、たった一人に潰されたのだ。
 事務室の応接セットで向かい合っている相手に、ちらりと視線を向けた。
 制服姿の相手は、感情の色がない視線をまっすぐにこちらへ送ってきている。制服についた汚れは、すでにクリーニングされて綺麗になっていた。
 その両膝の上には、白い包帯に包まれた両手が乗っている。
 今は亡き友人が残した忘れ形見。友人として、トレーナーとしても共に時を過ごした男が残した一人娘だ。三年前、天涯孤独になった彼女を引き取った日のことを、大村は昨日のことのように覚えている。
 大村は当時妻帯して十年になっていたが、子宝に恵まれていなかった。彼女の父親から、他に血縁がいないことは聞いていたし、母親が蒸発したことも知っている。ちょくちょく少女の面倒を見たこともあったし、そのおかげで妻と少女の間に面識もある。
 少女を引き取る相談を持ちかけると、妻は二つ返事で同意した。
 葬式が一段落したところで話を持ちかけた大村に、父の死にも涙を見せなかった少女は、積極的では無かったものの首を縦に振った。
 だが、それに際して少女が一つだけ出した条件。
 それは、名字を変えたくないということだった。
 親を亡くしたばかりの少女の気持ちに心を砕くだけの度量は、大村も十分持っているし、それは随分ささやかな願いであると思った。
 それから数年。いまだにどこかよそよそしさが抜けない少女だったが、もともと闊達な性格ではなかったし、多少頑なさがあったとしても、いずれ時間が解決してくれると大村夫妻は思っていた。
 しかし、それは少し楽観的だったのかもしれないと、大村は感じていた。
 自分達が思っていたよりも、少女はずっと多くのものを我慢していたのだろう。今回の件は、それがきっかけを得て吹き出したものなのだと思う。
 大村の心中は複雑だった。
「二人病院送り。もう一人も全治一ヶ月だそうだ」
「…………」
 それを成した少女は、その言葉にも眉ひとつ動かさず、ただ無言で大村の目を見つめている。
 そこには反抗心も、謝罪の色も浮かんでいなかった。
「まあ、三人とも必要以上に騒ぐつもりはないようだ。もし今回の事を問題にしようと思ったら、自分達が誰にやられたか話さなきゃならんからな。あいつらにもプライドがあるだろうし、その点は問題ないだろう」
 話を聞きにいった際に、三人からはジムの退会希望も受けている。正直に言って、ジムとしては在籍するランカーを二人も失うのは痛いが、最近素行の悪さが目立ち始めた連中でもあるので、丁度良い厄介払いになったと思えば気に病む必要も無い。
 それよりも、事情を知った大村夫妻が心配したのは少女のことだ。
 夫人は単純に事件を起こした少女に対する周りの反応を気に病んでいたようだが、大村が心配しているのは、もう少し違うところだった。
 どのような理由があろうと、鬱屈した心情を暴力で解決することを覚えてしまった者は、容易に道を踏み外してしまうことを、大村は経験上よく知っている。
 男ならば格闘技などの世界に身を投じることで昇華できる可能性がある。
 女ならばどうだろう?
 女子格闘の世界もあるにはある。ものによっては、男子のそれに並ぶほどレベルの高い世界もある。
 だが、おそらくこの少女の求めるものは……。
 ほとんど瞬きの間に三人の男を叩き伏せた少女の姿に、時に路地裏で、時にジムで、光り輝く原石を見つけた古今の名伯楽気分を、確かに大村は味わった。
 その輝きを見せた少女を目の前に、大村は運命の皮肉も同時に味わっている。
 少女の父親は本当に心の底から拳闘が好きな男だったが、惜しむらくは彼には素質がなかった。プロのリングに上がり、僅かな勝利と多くの敗北を重ねる彼に、大村は一度と言わず引退を勧めた。そんなに拳闘が好きなら、指導者としても道もあると。
 それでも、彼はけして首を縦に振らなかった。
 ただひたすらに走り、ひたすらサンドバッグに向かい、ひたすら拳を振り続けた。ほとんど執念とも言える情熱で。
 そんな彼に素質は与えられず、その娘に素質は与えられた。
 彼が求め続けた世界に手が届くだけの素質を持ちながら、そこに立つことすら認められない少女へと。
 おそらく、今現在少女が立てる世界に、この素質を受け止めることはできないだろう。そこまでの才能を、大村は少女の中に見出していた。
 少女が辿り着くべき場所が見えない。
 だからといって、このまま腫れ物に触れるかのような扱いをしていれば、道を誤ることは目に見えている。
 それならば……。
「拳闘を、やってみるか?」
 その言葉に、少女の視線が初めて揺れた。
 場当たり的な判断かも知れないが、他の方法を大村は思いつかなかった。
 少女は、ゆっくりと、だが確実に頷いた。
 大村と少女が、ある学校について知るのは、まだもう少し先の話だった。
 
       **********
 
 きゅっ・きゅきゅっ、トン・トトン。
 坂下が舞のグローブの紐を結び終えた直後、突然リングから聞こえてきた声に坂下の顔が恐怖に引きつった。リングシューズの爪先がマットを叩き、擦る音だ。もちろん、リング上には誰もいないようにしか見えない。
「で、出た!」
 後ずさる坂下の横をすり抜けて、舞はリングに向かった。
「ちょっと待って舞さん、少しやりやすくしてあげるから」
 運動靴を脱いで裸足になり、ロープを潜ろうとした舞の背中に、叉里亜が制止の声をかける。
 訝しげな顔で振り向く舞へ人好きのする笑顔を向けた叉里亜は、持参したナップザックから小さな香炉を四つ取りだし、火のついた香を入れたそれを葉弥乃に手伝わせてリングを囲むように設置した。
 四つの香炉から、すーっと細い煙が立ち上る。
「窓は開けっ放しでいいの?」
「今日は風が弱いからいいわよ。下手に通気を悪くすると蒸し風呂になるし」
「相変わらず不思議な香りのお香だね。今更だけど、変なもの入ってないでしょうね?」
「少なくとも習慣性はないはずだけど」
 聞き捨てならない会話を交わしつつ、葉弥乃と舞を下がらせた叉里亜は細めた目を伏せ、不思議な旋律の声で何語か判らない唄を口にし始める。
 葉弥乃と一緒にリングから離れていた舞は、その唄を聞くうちにこめかみに鈍痛を感じ始めたが、その風の初期症状のような頭痛は唄が進むごとに薄れていった。
 そこでようやく、舞は香炉から立ち上っていた煙が妙な動きをしていることに気がついた。
 天井に向かっていた煙が、換気扇に吸い込まれるような動きで、リングの一角、赤コーナーの辺りに向かって集まっていく。
 その動きはどんどんと速度を速め、集まった場所で香の煙は見る間に密度を濃くしていった。
 やがて叉里亜の唄が終わる頃には、香の煙がゆっくりとフットワークを刻む男の姿を形作っていた。なんとなくではあるが、目鼻立ちも確認できる程度にはっきりしている。
 ふーっと大きく息を吐いて、叉里亜が、どうよ、と一同を振り返る。
「……驚いた」
 短く口にした舞は、言葉ほど驚いているようには見えなかった。
 葉弥乃は先程のやりとりからも判るように、以前にも見たことがあるのだろう、余裕のある態度で拍手までしている。
 一番驚いているのは坂下だろう。顎が落ちんばかりに愕然としていた。
「こういう展開になるって予想してた?」
「最初は説得から入ろうと思ってたんだけど」
「そうする?」
「いいえ。この件は舞さんが鍵みたいだから、好きなようにやってくれた方がいいわ」
「だって」
 葉弥乃がそう言いながら舞の方を振り向くと、舞は黙って頷いた。
「あ、あれ、もしかして、先輩……?」
 一人リング上の煙男を凝視していた坂下が、自信なさげに呟いた。
「ん? あれ坂下先輩の知ってる人?」
 無遠慮に指を差して尋ねる葉弥乃に、やはり自信無さそうにではあるが坂下が頷く。
「多分、俺の二つ上の先輩、だと思う……」
「故人かしら?」
 叉里亜の質問に坂下が再度頷く。
 目の前にそれがいるのにわざわざ確認したのは、それが場合に寄っては生きている人間のものである可能性もあったからだ。その場合はとるべきアフターケアが少々異なってくる。
「少し、話を聞かせていただけます?」
「いいけど……あのままにしておいていいのかい?」
 ちらりとリング上に目をやる坂下。
「大丈夫です。香が切れても、こちらから刺激しない限り一時間は保ちますので」
 叉里亜に促されて坂下が語ったのは、将来を嘱望されながら不慮の事故でこの世を去った、当時三年生だったボクシング部員の話だった。
「俺が部に入ったばっかりの頃だから、もう丸二年も前の話だよ」
 どうも本人の目の前で話すのが具合悪いのか、ちらちらとリングの方を気にしながらも、坂下は話を終えた。よく見ると確かに、リングの上の煙男はグローブをしているように見える。
「でも、それっておかしくない? 出るようになったのって、最近の話なんでしょ?」
「そうなんだよね。だから俺も先輩のことには頭が行かなかったんだけど」
「それに関しては心当たりがあるからいいんだけれど。それじゃ、舞さん、お願いできる?」
「…………ん」
 舞の反応が微妙に遅れたのを敏感に察した葉弥乃が、振り向いてくる。
「舞ちゃん?」
「……なんでもない、大丈夫」
 ぎゅうっと音を立ててグローブを擦り合わせ、舞は青コーナーの方からリングに入った。その後を追うように叉里亜が青コーナーにやってきた。
「いいかしら、舞さん。十分程度よ」
 振り向く舞に、叉里亜が説明する。
「なにかしらの刺激を与えてから、香が拡散するまでの時間。それしか保たないわ」
「……十分」
「ヘッドギアとマウスピースは?」
「……いらない」
 わたわたとやってきた坂下に、短く答える舞。
 赤コーナーへ目をやると、相手はフットワークを止めてこちらを見ていた。一応は舞を認識してくれたらしい。
「……ゴングを」
 舞のその言葉が、ゴングよりも明確な始まりの合図だった。
 
          3
 
      **********
 
 その日が来ることを、少女は感覚的に予見していた。
 少し以前から、日常的に行われていた両親の喧嘩がぱったりと無くなっていたのだ。
 それは嵐の前の静けさだったのだろう。それでも少女にとっては久し振りに心安らかな日々だったが、その間、母親が自分を避けるように目を合わせなかったことを、今更ながら少女は思い出していた。
 学校から帰ってきた少女を迎えたのは、静寂。
 親子三人が暮らす小さな部屋は、ひっそりと静まり返っていた。
 今までも、誰もいない部屋に帰ってくることはあったが、その日は何かが違っていた。
 外から入ってくる雑音が聞こえる部屋の中には、タンスやちゃぶ台などの家具があるべきところにあるというのに、はっきりとした空虚が漂っていた。
 何が起きたのかはすぐに理解したものの、なにができるわけでもなく、少女はぼんやりとちゃぶ台の前に座る。
 やがて、父親がその日の仕事と練習を終え、電気もついていない部屋に戻ってくるまで、少女はそのままでいた。
 父親は、真っ暗な部屋にぽつんと座っている幼い娘を見た瞬間、すぐに事態を正確に把握した。そして、身体の中身を全て吐き出すような細く長い溜息をつき、部屋の電気を点けて、座ったまま自分を見上げる娘に強ばった笑みを向けた。
「腹減ったか?」
 うん、と少女が頷くと、父親の顔が泣き笑いの形に歪む。
「よし、飯を食いに行こう。なにが食いたい?」
 ことさらに明るく言いながら、父親は娘の小さな身体を抱き上げた。
 父の腕の中で、少女は思案げに首を傾げる。
 その愛らしい仕草は、父親の作り笑顔を本物の笑顔に変えた。
「まあいいさ。歩きながら考えよう」
 荷物を放り出し、娘を抱えたままの父親は、そのまま部屋を出て行く。
 母親はその後、二度と姿を見せることは無かったし、連絡を寄越すこともなかった。
 
       **********
 
 何度も鳴り響き、その都度様々な勝負を見届けてきた鐘が鳴った。
 静かな立ち上がり。
 舞はロープに沿って右に移動し、それを見て取ったのか煙男も同じように動き出す。
 固唾を呑んで見守る一同の耳に、舞の微かな足音と、足下が霞んでよく見えないくせに、はっきりと聞こえる煙男の足音が聞こえた。
 リングの上で並べてみると、さすがに舞よりも煙男の方が体格がある。身長だけでも五センチは違いそうだった。
 同心円を描くような動きでリングの中を周りながら、両者は少しずつ間合いを詰めていく。
「あれ?」
 はた、と葉弥乃が呟いた。
「舞ちゃん、いつもと構えが違う?」
「あれはデトロイトスタイルって奴だね」
 ゴングを鳴らし、律儀なことにストップウォッチとゴングを持って戻ってきた坂下が、葉弥乃に解説した。
 舞は、右腕を折りたたみ脇を締めて拳を顎に添えるように構え、直角に曲げた左腕は柔らかく水平に構えられ、ゆらゆらと振り子のように揺れている。丁度両手でL字を書くような形で、身体は左斜。
 他にもヒットマンスタイルなどと呼ばれる構えだ。懐の深さとしなりの利く腕の筋肉が必要なフリッカーという独特のジャブを主体にするかなり偏った構えだが、日本人ではほとんど使い手を見ない。
 対する煙男の方は、オーソドックスな右アップライト。
 坂下がそんな解説を加えている間に、両者がどちらともなく間合いを割ったのは、丁度開始一分を過ぎたところだった。
 初撃は舞。
 遠目の距離からムチのような動きで跳ね上がった左のフリッカーが煙男の顔面を襲う。
 パァンッ!
 鋭く乾いた音が響き渡り、その一撃を受けた煙男の左拳が弾かれ、汗のように煙男を形作る煙が薄く飛び散る。
 おお、と坂下が感嘆の声を漏らす。
 舞のフリッカーが、充分な速度と威力、射程を持っているのは確実だった。舞は取り立ててリーチがある方ではないが、踏み込みと腰のキレで自らのリーチを最大限に活かしている。それは身長差を埋めてあまりがあった。
「なんかスゴい生っぽい音がしたね。煙なのに」
「ふっふっふ、褒めてくれてもいいわよ?」
 葉弥乃ほどではないものの、充分にふくよかな胸を自慢げに反らす叉里亜をよそに、守勢に回ると不利と判断したのか、煙男が積極的にジャブを放り込んでいく。
 舞は冷静に避け、受け、距離が詰まりそうになると突き放すようなフリッカーの連打を浴びせる。デトロイトスタイルはディフェンスに難のある構えだと言われているが、舞はその目と反射神経の良さで、それを感じさせない。フリッカーを上手く使って間合いを制しているので、時々強振する煙男の右拳がまったく届かない。
「なんか、舞ちゃんらしくないなぁ」
 かくん、と首を傾げる葉弥乃に、興味深そうに勝負を見つめていた叉里亜が訊いた。
「らしくない?」
「うん。舞ちゃんが真剣に勝負してるのって、この前の藤堂絡みの件で一回観ただけなんだけどね。普段の稽古なんか観てても、もっとこう違う感じだったと思うんだけど」
「石堀さんは、普段『なんでもあり』を意識して練習してるんじゃないかな? この前の試合も異種格闘戦だったし。やっぱりルールごとに有利不利っていうのはあるから、ボクシングルールだとスタイルが違うとか」
 観客三人の中では唯一格闘技経験者の坂下が、もっともらしい意見を出す。
「う〜〜ん?」
 納得いかなそうな葉弥乃。
…………のに……
「へ?」
 どこからともなく聞こえてきた声で我に帰った葉弥乃は、きょろきょろと辺りを見回したが、もちろん自分達以外に人の姿は見えない。と、いうことは。
 葉弥乃が隣の叉里亜に目をやると、ちょいちょいと煙男を指さしている。
……たら……だったのに……
 声は先程よりはっきり聞こえたが、まだ聞き取りにくい。
「なに言ってんの?」
「しっ」
 叉里亜が煙男を見つめたまま、人差し指を唇に当てる。
「……聞こえないぞ」
 構えを解かないままだが、手を止めた舞が煙男に向けて言葉をぶつけた。その言葉に反応したのか、一瞬煙男の姿が揺らめいた。
……生きていれば……
「……生きていれば?」
……生きていれば、おれは……チャンピオンにだってなれたんだ……
 葉弥乃と坂下が思わず顔をしかめてしまうほど、その声には深い後悔と怨嗟が込められていた。それだけを聞いても、突然訪れた死が彼にとってどれだけ理不尽なものだったのかが想像できた。
 だが。
「……そうか」
 短く言った舞は、毛ほども表情を変えず無造作に間合いを詰めた。
 ぱぱぱぁんっ!
 閃光のようなフリッカー三連発。
 ガードごと圧力に負けて煙男が後退する。
「?!」
 突然のことに目を丸くする観客三人の前で、舞はなんの遠慮会釈も容赦もなく、立て続けにフリッカーを叩きつけ、その合間に弩のような右ストレートを叩き込む。
 なんとか直撃だけは避けている煙男だったが、反撃の契機すら掴めずに、じりじりと後退していく。
 舞はそのまま簡単に相手をニュートラルコーナーまで押し込め、まるで相手をコーナーポストに埋め込むつもりでもあるように、凄まじい連打を続ける。
「……どうした?」
 手を休めずに、舞は呟いた。
「……これはボクのスタイルじゃないぞ?」
 煙男のガードがこじ開けられていく。
「……手も足も出ないか?」
 ズぱンっ!
 開いたガードの真ん中を射貫く右ストレート。
 カクンと煙男の腰が落ちる。
 トドメとばかりに舞が右手を切り返そうとしたとき、坂下が手にしたストップウォッチが三分経過を伝えた。
 舞の技術に、呼吸も忘れて魅入っていた坂下が、我に帰ってゴングを鳴らす。
 ゴングが鳴った瞬間、舞は振り下ろしかけた拳をピタリと止め、さっさと煙男に背中を向けて自分のコーナーへと戻っていく。
 煙男も無防備なその背中に襲いかかる素振りもなく、大人しく自分のコーナーへ戻っていった。なんとなく動きに精細を欠いているように見えるし、姿を保つ香の煙も多少薄れたかに見える。
「椅子、使う?」
「……いらない」
 小さな椅子を持ってきた葉弥乃に首を振って答えると、舞はトップロープに両手を掛け、立ったままコーナーポストへ背を預ける。そして、鼻からゆっくり時間を掛けて吸い、さらにゆっくりと吐き出したときには、やや早くなっていた呼吸が元に戻っていた。
 対角線上のコーナーに目をやると、煙男は両手をだらりと垂らして棒立ちになっていた。そもそも休憩が必要なのかどうかすら怪しいが、少なくともボクシングのルールには従うつもりらしい。
 じっと前髪の隙間から相手に視線を送り続ける舞の横顔に、葉弥乃が声を掛けるべきかどうか迷っているうちに、短いインターバルが終わった。
 ゴングと同時に、今度は一ラウンドとは違い、舞が直線で距離を詰めた。
「あ」
 葉弥乃が思わず声を漏らす。
 舞の構えがまた変わっている。今度はオーソドックスなボクサースタイル。完全な前傾姿勢よりもやや上体を起こした、オールラウンドの攻防に適応する構え。葉弥乃が知っている本来の舞の構えだ。
 まだコーナーから出かけだった煙男の目前まで、あっという間に距離を詰め、弾丸のようなジャブ二連打。虚を突かれた煙男は再びコーナーを背負う。
 しかし、舞はそれ以上追撃せず、軽やかなステップでリング中央まで戻り、無表情のまま右手で相手を招いた。
 それが挑発だと解ったのだろう、煙男は一ラウンド目の劣勢が嘘のような素早い動きでコーナーから飛び出し、牽制のジャブから矢のような右ストレートを放つ。
 スパァン!
 それを迎えたのは舞の完璧なタイミングの左カウンター。タイミングを計りもしない、まるで来るのが解っていたような動きだ。
 当たりがやや浅かったのか煙男は怯まず、さらに連続して攻撃を繰り返す。ワンツーにストレート、アッパー。上下左右にパンチを散らす。
 だが、パンチが繰り出される度に打撃音を響かせるのは、煙男の身体だった。舞は相手の繰り出す攻撃のことごとく、全てカウンターを取って見せた。
 とん・ととん・とん。
 軽やかな舞の足音と重い打撃音が奇妙なリズムを刻む。
 舞は徹頭徹尾カウンターに徹し、煙男が攻めあぐねて手を止めると、左ジャブで小突いて挑発する。それに耐えきれず相手が手を出すとすかさずまた正確なカウンターだ。
「う……」
 葉弥乃が呻きに似た声を漏らす。あまりに一方的すぎて、憐憫の情を覚えずにはいられなかった。血が出るわけでも、顔を腫らすわけでもない。しかし、倒れもせずにカウンターを浴び続けるその姿は、どうしようもうなく残酷に感じられた。
「舞ちゃん、なんか怖いよ……」
 眉をしかめる葉弥乃の横で、坂下が生唾を飲み込む。
 三人の中で、叉里亜だけが興味深そうな目で舞のその姿を眺めていた。
「先輩、あんなに一方的にやられるほど弱くなかったはずだけど……」
 恐る恐るといった感じで、坂下が言う。事実、生前は将来タイトルを取るであろうと周りから期待されていた逸材だったのだ。
「私はボクシングをよく知りませんが、見るだけで簡単に解る話じゃないですか」
 叉里亜がさらりと返す。
「舞さんの方が遙かに強いだけのことだと思いますけど」
 第二ラウンド終了のゴングが鳴る。
「舞ちゃん……」
「舞さん」
 コーナーに戻って息を整える舞に声を掛けようとした葉弥乃を遮り、叉里亜が確認する。
「次で最後よ」
「……ん」
 相変わらずの無表情で、さすがに顎先へ滴ってきた汗を手首を拭おうとする舞を見て、葉弥乃が慌ててタオルを渡す。
 そして、最終ラウンドのゴングが鳴った。
 赤コーナーから、最初からするとかなり薄くなってきた煙男が飛び出してくる。自分に残った時間が少ないことを理解しているのか、それとも中・遠距離では勝ち目がない至近距離の打撃戦に持ち込むつもりなのか、それともその両方か。
 両拳をぴたりとアゴにつけ、激しく頭を振って的を絞らせないようにしながら突撃してくる。
 舞もそれに応じる動きでリング中央まで進み出、相手の突進力を削ぐためのジャブを連打するが、煙男の激しいウェービングに半分が的を外す。
 それでもガードをすり抜けた何発かを被弾しつつも、煙男は自分の距離まで詰めると同時に、すかさず左のボディを強振。
 空を切る。
「?!」
 舞を除く全員が驚愕の表情を浮かべた。煙男の表情はよく判らないが、狼狽している雰囲気ははっきりと判る。
 舞は煙男の左側面にいた。お互いの手が届く至近距離。
 ワンテンポ遅れて舞に気付いた煙男が慌てて防御を固める。
 だが、舞は手を出さずにそのまま静かに後退した。フットワークはとっていない。無造作に見える足運びだが、氷の上を滑るように静かで滑らかな動きだった。
 横から見ていた葉弥乃たちには判ったが、たったいま煙男の側面を取った足運びと同じものだ。けして速くは見えないが、恐ろしく無駄のない動き。
 舞の攻撃を警戒して頭を振りながらも、煙男は手を出しあぐねたのか足を止めた。横から見ていた葉弥乃たちには何をしたのか判ったが、目の前でやられた相手からすれば、舞が目の前から身体ごと消えてしまったように見えただろう。困惑も無理はなかった。
「鈴ちゃんとか、おじ様みたいな動き……、そっか、最近よく一緒に練習してたっけ」
 舞と同じ寮に住む同級生の中国拳法家のことを、葉弥乃は思い出していた。
 ということは、これが舞の新しいスタイルなのかと葉弥乃は思った。もともと舞は近距離での打ち合いが得意のようだったが、距離を空けずに身体をさばく歩方を取り入れられたのなら、その強力な手技はさらに活かせることだろう。
 葉弥乃自身は格闘技や武術の経験が皆無なものの、士郎や武人の近くでレベルの高い技術を見続けているせいで、見る目だけは身についているのだ。
 間合いを外したきり、ぴたりと動かなくなった舞に、しばし躊躇していた煙男だったが、度胸を決めたか待ちきれなくなったか、頭を振りつつ再度突撃する。体格で勝る以上、至近距離の攻防に活路を見出すしかないのだろう。
 煙男はまたジャブの洗礼を受けながら距離を詰め、首を刈り取るようなショートフック。
 今度は右側面を取る舞。
 それを読んでいたのか、単なる反射か、煙男は素早い返しのフックを振るう。
 空振り。
 舞はやはり近距離の、煙男が向きを変えないと手が出せない位置に移動している。
 すぐに向きを変えた煙男が、狂ったように左右のフックを中心とした連打を繰り出した。
 それでも舞にかすりもしない。舞は、自分の手の届く範囲から一切出ていないというのにだ。
「足の裏にローラーでもついてるのかしら?」
 呆れ半分、感心半分で叉里亜がこぼした。
 坂下は惚けた顔で舞の動きに魅入っている。
 ぱぱんっ!
「……たら、れば、か」
 煙男の動きが一段落した瞬間、その横顔に牽制のジャブを当てながら、するすると距離をとった舞が呟く。
「……そんなものが許されるなら、負ける奴なんかいない」
 ほとんど一瞬で間合いを詰め、一転攻勢に出た舞のワンツーは、ほぼ同時に相手に届いた。
 アゴを上げながら、泡を食ってガードを上げた煙男の懐に舞が滑り込む。
 どんっ!!
 一際重い打撃音が響く。衝撃が相手の左肩に抜けるような、強烈な肝臓打ち。
 煙男の身体が衝撃でくの字に折れるが、それでも倒れずに反撃。
 だが、それを迎えるのは舞のカウンター。しかも、次の瞬間には目の前から消えている。
 それは、超至近距離でのヒットアンドウェイ。
 煙男は、まるで旋風にもまれる葉っぱのように踊った。
 死角から放り込まれるワンツー。ガードを上げれば肝臓打ち。ガードを固めれば、怒濤の連打でガードをこじ開けられる。迂闊に手を出せば拳は空を切り、カウンターの洗礼を浴びる。
 しかも、それらが背面以外全ての角度で飛んでくる。ルールが禁じていなければ、背後からの攻撃すら簡単にできるだろう。
 舞の攻撃に翻弄される煙男の身体が、唯一攻撃のこない方向、後ろへと運ばれていく。
 煙男の背中が赤コーナーに触れると同時に、一際強烈な肝臓打ちが煙男のボディーに深々と突き刺さる。
 最初のゴングが鳴ってから初めて、煙男の顔に苦悶のようなものが浮かび、身体がガクンと前のめりに倒れかかる。
 その隙を見た舞がとどめの右を振りかぶり、打ち下ろそうとした瞬間、煙男の見えない足が前に出て、倒れかかる身体を支えた。
 ぎらり、と煙男が顔を上げるのが舞には見えた。
 伸び上がるような右のアッパー。完璧なタイミングのカウンター。
 動作を始めていた舞は、そのパンチを避けられない。
 二つの拳が交差した。
 
        4
 
     **********
 
「おまつり、いきたい」
 少女は父親に言った。
 試合が終わった控え室。試合に負けた父親は、ベンチに腰掛けてうなだれていた。
 最近負けが込んできた。
 すでに三十をいくつか越えてしまった身体は、そろそろ言うことを聞かなくなってきている。
 今日は、日本チャンピオンへの挑戦権を掛けた、大事な試合だったのに。
 ──また一歩遠ざかった。
 そんな無力感を抱いていた父親に、少女はそう言った。
「祭り?」
 問い返す父親に少女は頷く。
「近くでやってるって」
 父親は腫れた顔に困った表情を浮かべた。
「いっても、なにも買えないぞ?」
 かわいそうだが、もとより裕福とは言えなかった上に、雀の涙ほどの貯金と当座の現金は、つい先日持ち去られてしまっていたので、今は無一文に近い状態だ。
 今日の試合の金もほとんど借金で消えるため、無駄遣いする余裕などまったくなかった。
「それでも、いい」
 まっすぐに父親を見つめ、小さな手で父親の首に掛かったタオルを、ぎゅっと握る。
「おまつり、みたい」
 普段口数が少なく、わがままもほとんど言わない少女の願いだった。
 直帰の許可はすでに会長からもらっている。父親は手早く帰り支度を整えると、少女の手を引いて控え室を出た。
 試合会場からさほど離れていない大きな御諏訪さまの神社で、祭りは開かれていた。
 境内にはまるで狛犬のように、大きな御輿が二つ据え付けられ、参道には多くの出店が並び、色とりどりの浴衣を身につけた人々が河のように流れていた。
 陽も落ちきって暗くなった空の下、橙色の暖かい灯りに浮かび上がった光景に、少女の顔は喜びで満ちる。
「きれい……」
 祭りの灯を映す少女の瞳は、周りの景色よりもなお輝いていた。
 少女は約束したとおり、あれが欲しいとか、これが欲しいとは一言も言わなかったが、時折、甘い香りや綺麗な玩具に目を奪われているのに父親は気がついていた。
 いくら聞き分けが良かろうとも子供である。
 祭りに供される様々なものが欲しくないわけがない。ただ我慢しているだけだ。
 それが父親には不憫であり、そんなものすら与えてやれない己の不甲斐なさに歯がみせずにはいられなかった。
「ねえ、お父さん。きれいだよね?」
 手を引く父親を振り仰ぎ、少女は無垢な笑顔を見せる。
 その無邪気な顔に父親は目頭が熱くなるのを抑えられなかった。それを誤魔化すように、少女の両脇に手を差し入れて持ち上げると肩車をする。
「そうだな。でも、お父さんはもっと綺麗な場所を知ってるぞ」
 それは単に表情を誤魔化すためだけに口にしたはずだった。
「もっときれいなところ?」
 少女の無心の問い返しに、遙か昔に抱いた思いが蘇ってくるのを父親は感じた。
「……そうだ。そこで、一番強い人と比べっこするのが、お父さんの夢なんだ」
 それはもう、叶うはずがないと、どこかで諦めていた夢だった。
 追いかけることに迷い続けてきた夢。
 憧れている男がいた。
 彼はボクサーですらない。
 だが、いつか、自分が選んだ拳闘を武器にその男と闘い、自分を試して見たかった。
 それは過去形になりかけていた夢。
「ふうん、かなうといいね。お父さんのゆめ」
 少女の言葉が、再びその夢に息吹を与えた。
 
 それは、彼が日本タイトル戦を前に夭折する、丁度一年前の話だった。
 
       **********
 
 バシンッ!
 グローブが身体を打つ、鋭い音がジムの中に響いた。
「ああっ!」
 誰ともなく声が上がる。
 煙男は倒れていない。
 舞もまた、倒れていなかった。
 煙男の腕が泊止まっている。
 その力こぶの辺りに、舞の右拳がめり込んでいた。
 避けられないのならば、止めればいい。舞は瞬時の判断で、攻撃に攻撃をぶつけて相殺した。
 狙ってそれができるほど、両者の実力は隔たっているのだ。
「……その程度だ、お前は」
 ドバンっ!
 厳かとも言える舞の宣言と共に、舞の左フックが煙男の側頭部を綺麗に捕らえ。
 どごんっっ!!
 返す打ち下ろしの右が、煙男をリングに叩きつけた。
 律儀にカウントを取り始める坂下だったが、煙男は立ち上がる気配もなく、そのままテンカウントを聞く前に薄れて消え去ってしまった。
 倒れていた後には、嘘であったかのようになにも残らない。
 坂下が試合終了のゴングを打ち鳴らす。
「ご苦労様」
「……ん」
 労いの言葉を掛ける叉里亜に短く答え、舞は振り向きもせずリングを降りた。
「つよいわね、舞さん」
 微妙に含みのある口調だったが、舞は特に追求するつもりもないらしく、坂下にグローブを外してもらいながら叉里亜に尋ねる。
「……あれでいい?」
「ええ。まあかなり乱暴なやり方だったけど、きれいさっぱり未練は無くなったでしょうから、もう出ないと思うわ。部長さんも、そういうことですから」
 にっこりと水を向けると、坂下はカクカクと頷いた。
「じゃあこれ、報酬ね」
 舞がバンテージを解き終えるのを待って、叉里亜が茶封筒を差し出す。舞がそれを受け取ると、好意的な笑顔を見せつつ言った。
「私、貴女が気に入ったわ。なにか困ったことがあったら、遠慮無く相談してちょうだい。最優先で協力させていただくわ」
「珍しいね、叉里亜が自分からそういうこと言うのって」
「そりゃあ私だって、誰かを気に入ることくらいあるわよ」
 冗談とも本気ともつかない態度で、叉里亜はにっこり笑って肩を竦める。
 それから舞と葉弥乃は、勧誘熱を再燃させた坂下を振り切り、家路についた。
 
 まだ陽の高い夏の道。適度に日差しを遮る梢の下を舞と並んで歩きつつ、葉弥乃は先刻の勝負を思い出していた。
 そっと舞の横顔をうかがう。
 舞は前髪の間から、真っ直ぐ前を見ていた。
 第二ボクシング部を出てから、なんとなく気まずさを感じていた葉弥乃は、珍しく黙ったまま歩いている。
 舞も同じように感じているのかどうか。舞は普段から口数が少ないので判別がつかない。
 その時、不意に舞が葉弥乃の方を向いた。
 驚いた葉弥乃は、反射的に目を逸らして前を向く。
 またしばらく無言で歩いていたが、やがて口を開いたのは、意外にも舞の方だった。
「……父さんは」
「え?」
 いきなり舞が話し始めたことに驚いて葉弥乃が舞を見る。舞の視線は前を向いたままだった。
「……あんなふうに、出てきたことない」
「…………舞ちゃんの、お父さん?」
 まだ知り合って三ヶ月ほどだが、舞が自分の家族の話をするのは初めてだった。
「どんな人だったの?」
 舞の両親がいないことは知っていたが、葉弥乃は恐る恐る問い返す。
「……ろくでなし」
「は?」
 あまりと言えばあまりの返事に、葉弥乃の目が点になる。
「……拳闘にのめり込みすぎて、母さんに逃げられた。それなのに、拳闘やめようとしなかった。あちこちに借金してでも、馬鹿みたいに続けた、ろくでなし」
「…………」
「……でも」
 ふ、と舞は視線を伏せる。
「いつでも、精一杯、一生懸命だった。一瞬一瞬を、後悔のないように生きてたような気がする。特に、最後の一年はそうだった。だから、あんなふうに出てくるほど、未練、残らなかったんだと思う」
 訥々と、珍しく長目に語る舞に、葉弥乃は少し気になったことを訊いた。
「ねえ舞ちゃん。舞ちゃんは、なんで拳闘やってるの?」
 簡単ではあるが、簡単に答えられない葉弥乃の問いに、舞はしばらく黙り込んだ。
 少し長い間、黙って蝉の声を聞きながら歩く。
 訊いてはいけないことだったかと葉弥乃が声をかけようとしたところで、舞が顔を上げた。
「……さあ……どうしてかな?」
 冗談でもなんでもなく、真剣味を帯びた舞の表情に、葉弥乃は追求をやめた。きっと舞の中でも答の出ていない話なのだろう。
「ねえ、舞ちゃん、お腹空かない?」
 話を逸らすように、ことさら葉弥乃は明るく言った。
 舞はとりあえず考えるのをやめ、葉弥乃の言葉に頷いた。
「夕飯まで少し時間あるし、帰ったらみんなに声かけて、甘いものでも食べに行こうよ」
「……これ、使おう」
 貰ったばかりの茶封筒を取り出す舞。
「いいの? 舞ちゃんの報酬でしょ?」
「……構わない」
「わお、舞ちゃん太っ腹ぁ。じゃあ、急いで帰ろ!」
 歩みを早める舞と葉弥乃。
 輝く太陽は晴天にあり、夏は始まったばかりだった。
 
                                       了
 
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