序の段
 
 暦の上ではすでに夏となり、夏の訪れが遅いこの地方でも、ようやく夏の足音を感じるようになってきていた。
 和室の八畳間。
 廊下に面した障子は開け放たれ、縁側の向こうに見える庭は緑が萌えていた。
 古くから多くの剣士を排出してきた北の地は、その自然環境の厳しさと引き替えに、鮮明な四季の移り変わりを見せる。
 一年の内でも、もっとも色鮮やかな季節を前に、緑の若芽は日増しに強くなる陽光を浴び、色濃い緑に輝いていた。
 緑の香りを乗せたそよ風が、軒先に下がった風鈴を撫でて澄んだ音を響かせる。
 年の頃は十四、五歳の少女が、部屋の下座に座っていた。
 着衣は胴着に袴。艶やかな黒髪を高く結い上げ、歳に似合わない凛とした雰囲気を漂わせている。
 面立ちに、まだ幼いものを残す少女は、一人前の剣士としての存在感を漂わせていた。
 この地方には、鬼を切ったと言われる古い剣術の流派があった。
 少女は物心をつく前から、その流派の後継者として育てられてきた。
 師は、父。
 父の下で剣を学ぶ大人達に混じって、少女は修行した。
 その教えは厳格で容赦のないものだったが、少女は大の男も音を上げる鍛錬にも挫けることなく、素晴らしい剣才を発揮し、やがて奥伝に手をかけるまでになった。
 少女はなによりも剣を愛し、誰よりも父を敬愛していた。
 一つ、また一つと新しいものを身につけていくのは楽しかったし、なにより父が喜んでくれるのが嬉しかった。
 だが、そんな日々は唐突に終わりを迎えた。
 弟ができた。
 たったそれだけ。
 たったそれだけのことで、少女は総てを失った。
 後継者としての立場と、父の愛情。その二つが少女の総てだった。
 剣の継承者としては、男子が望ましい。当たり前のことだ。正当な後継者は一人のみとされている流派では尚更だ。
 父親は比較的若くに妻を娶ったが、子供を授かったのはしばらくしてからで、しかもようやく授かったのは女児だった。
 その後、二人目は妻の体力的に無理があると判った父親は、少女を後継者として育てる決心をしたのだが────。
 弟が出来たと判ったのは、半年前。
 母の胎内に弟がいると聞いたその日、父から告げられた。
 もう剣術の修行はしなくていい、と。
 その言葉に少女は恐怖した。
 自分はなにか父を怒らせるような失敗をしたのだろうかと思い悩み、父の言に従うどころか、なおのこと鍛錬に身を入れた。
 もちろん、それで父の態度が変わるはずもなく、逆にいつまでも鍛錬場に姿を見せる少女を疎ましく思っているように、少女は感じていた。
 見かねた弟子の何人かが父に進言してくれたようだが、それでも父の態度は変わらなかった。
 それでも、いつか父の心が戻ってくると信じて、少女はさらに過酷な鍛錬を己に課し続けた。
 黙ってみていられなかった弟子達が、無理な鍛錬は止めるように言っても、少女は頑として聞かず、ただ黙々とそれを続けた。
 昨日、母が無事に弟を出産したと、病院から連絡が入った。
 そして今朝、父が「話があるから、部屋に来なさい」と少女に言った。
 それは久し振りに父からかけられた言葉だったが、少女はそれに喜びよりも、強烈な不安を感じた。
 今、少女は渦巻く不安に耐えながら、じっと膝に置いた自分の拳を見下ろしている。
 すらり、と襖の開く音がした。
 びくり、と少女が身を竦める。
 襖が閉じ、自分の正面に父が座るのを気配で感じるが、不安が重い枷となって顔が上げられない。
「美燕(みえ)」
 名を呼ばれた。
「……はい」
 自分でも驚く程かすれた声が出た。
 しかし、父は何もなかったように続けた。
「来週から、ここに通いなさい」
 はっと少女──美燕が顔を上げる。
 畳の上に差し出されたのは大きな茶封筒。
 封筒の下側に中学の名前が記され、学校の所在地も印刷されていた。
 それは、控えめに言っても、とても近所とは言えない場所だった。
 不安が心臓を掴む。
「必要な書類は全部入っている。向こうの友人にも話は通してある。詳しい話はタキさんに聞きなさい」
 コノウチカラデテイケ。
 少女には、そう言っているように聞こえた。
「……お父様……」
「もう、決まったことだ」
 封筒を凝視したままか細い声で美燕が言うのを、無造作に切り捨て父は立ち上がった。
 全身を縛る見えない枷を振りほどき、美燕は意を決して膝を立てる。
「お父……!」
 ぴしり、と軽く冷たい音を立てて、襖が父と美燕との間を断絶した。
 美燕は、脱力したように座り込んだ。
 やがて、その細い肩が震え始める。
 袴の膝で握りしめた拳は蒼白で、唇は血が滲むほど噛みしめられた。
 俯いた顔から、ぽつりと一つ、拳の上に落ちる。
 いつの間にか、どこかで気の早い蝉が鳴き始めていた。
 
   
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