皆伝・剣の行く末、拳の想い。
士郎と美燕の仕合から数日が過ぎ、今日から九月になる。
月が変わっただけなのに、どこか秋の足音を感じるような気が武人にはしていた。
美燕はこの数日、大事をとって安静にしている。本当は次の日から起き上がってきて家事をしようとしたのだが、武人が説き伏せてそうさせた。
静流は自分がいない間に、なにか重要なことがあったのは感じているようだが、特になにも訊かずに家事をこなしている。
葉弥乃はいつものように毎日やってきて、変わらぬ笑顔を振りまいていた。
士郎も、行動はいつもの通りだったが、何か思い悩むというか、深く考え込んでいる様子だった。
意図的になのか、それともなんとなくなのかは判らないが、士郎と美燕はどちらともなく食事の時間をずらしたりして、なるべく顔を合わせないようにしているようだ。
気になると言えば気になるが、以前のような悪い意味での緊張感は綺麗さっぱり無くなっているので、後は時間に任せるしかないと武人は思っている。
早朝。
まだ誰も起きていない、眩しい朝日が差し込む時間。
なんとなく物寂しさを感じながら、日課の鍛錬をしに稽古場へ足を運んだ武人は、神棚に向かって正座する背中を見つけた。
「ここでなにをしている、士郎?」
武人の問いかけを受けて、士郎がゆっくり正座したまま振り向いた。
ほう。
その顔を見て、ほんの少し武人は感心した。
少し引き締まったな、と思う。
肉体的なことより、精神的なものだろう。美燕くんとの仕合は、意味あるものになったようだ、と内心嬉しく感じる。
自然と頬が弛みそうになりながら、重ねて訊いた。
「もう鍛錬はしなくていいと、言ったはずだが?」
やや詰問口調の武人に怯むことなく、士郎は胸を張っていった。
「俺を、鍛えて欲しい」
「……どういう心境の変化だ? もともと嫌がっていたのはお前だろう」
我ながら意地の悪い質問だな、と武人は思う。
士郎は言葉を選ぶようにしばし黙り込んでから、意を決した様子で口を開く。
「責任を果たしたいんだ」
短く言う。
この数日考えていたこと。
美燕が、交えた拳から士郎の過ごした時間を感じ取ったように、士郎もまた交えた剣から美燕の過ごした時間を感じ取っていた。
最後の一合。
あれと同じだけの一撃を、もっと早くに出されていたら、床に伏せていたのは自分だっただろう。
はっきり言って、自分が克ったことは奇跡に近いと思う。
だが、克った。
克ってしまった。
それが事実。
美燕がその剣にどれだけの時間を費やし、どれほどの気持ちを込めていたのか。
あの短く濃密な時間の中、おぼろげながらそれを感じ、それに敬意すら抱いた。
だから、強くならなくてはいけないと思った。
強い気持ちを持って挑んで来た相手を退けた者の、それが最大の礼儀だと思うから。
きっと美燕はもっと強くなるだろう。
だから、自分ももっと強くならなければいけないと思う。
美燕に克ったことを誇れるように。
美燕が、自分と剣を交えたことを誇れるように。
「そのためには、多分、親父に鍛えて貰うのが一番いいと思う。頼む」
そう言って、士郎は両手を床について頭を下げた。
しばらく、じっとそれを見ていた武人は、頭を下げたままの士郎を見て、太く笑った。
「そうか」
それ以上、武人は問い質さなかった。
「では、早速やるか。こい」
「おう!」
正座から一挙動で立ち上がった士郎は、そのまま武人に挑みかかった。
とんとん、と靴の爪先で軽く地面を叩く。
士郎の腕や顔には真新しい痣や、絆創膏がいくつもあった。
まだ時間的には余裕があるが、学校指定の夏服に着替えた士郎は玄関を出た。
今更美燕に対して含みはないが、漠然とした気まずさというか、どんな顔をして会えばいいのか判らず、結果的に避けている形になっている。
美燕のほうもどうやら似たようなものらしく、お互いに妙な牽制をしあっていた。
今日から新学期なのだが、ぼうっとしてると葉弥乃が迎えにきてしまうので、なんとなく逃げをうつ気持ちで、溜息をつきながら門をくぐった。
「士郎さん」
くぐったところで、不意に横合いから声をかけられて、驚きに飛び上がる。
驚いて振り向く士郎の目に、門の向こうからは死角で見えなかった、制服姿の少女が飛びこんできた。
士郎は一瞬それが誰か判らなかった。
「え? あ〜〜……」
反射的に少し飛び退いた後で、士郎は口ごもる。
どう呼んだらいいのか迷った。
名前で呼ぶほど親しくはない気がするし、名字で呼ぶのもよそよそしい感じがし過ぎる気もする。
思考停止状態で硬直している士郎に、少女は居住まいを正し、深々と頭を下げた。
「今まで数々の無礼、どうかお許し下さい」
制服姿の少女──美燕の肩を黒髪が滑り、顔の横に流れ落ちる。
「ゆ、許すって……なにを?」
相手から行動を起こしてくれたことに内心感謝しながら、士郎は尋ねた。
「考えが足りないばかりに暴言を吐き続けました。許していただけますか?」
「いや、その、許すも何も。何も間違ったことは言われてないし……俺の方が悪いこと言ったんじゃないかと思ったくらいで」
しどろもどろに士郎が答えると、美燕が顔を上げた。
「それでは?」
「う、うん。気にしてないよ、全然」
「良かった。ありがとうございます」
ほっとした顔の美燕から、士郎はなんとなく目を逸らす。
「登校するのでしょう? ご一緒してよろしいでしょうか」
士郎は、不意打ちで謝罪を受けたせいでかなり動揺していたが、曖昧に頷いた。
「それでは」
二人は微妙な距離を保ちつつ、並んで歩き出す。
そのまま黙って歩きつつ、士郎は横目で美燕を伺った。
ほんの何日か見ない間に、美燕の雰囲気は一変していた。
手にした刀袋と馬鹿丁寧さは変わらないが、浴衣を着ていた時のような、どこか場違いな堅さが綺麗さっぱり抜け落ちている。
堅く美しいが、壊れ易いガラスじみた雰囲気が、しなやかさを強靱さを兼ね備えたものに取って代わっている。
結び上げていた髪を下ろし、首の辺りで簡単にまとめた美燕の横顔が、士郎にはほんの一時とても綺麗に見えた。
その視線に気がついたか、美燕が不思議そうに顔を士郎に向ける。
士郎は不必要に慌てて、取り繕う。
「あ、あのさ、怪我の方は」
「はい、戴いた薬が良かったのでしょう。何日かすれば鍛錬も再開できそうです」
ごめん、と士郎は反射的に口にしそうになったが、寸前で堪える。
それを口にするのは、美燕に対する最低の侮辱である気がした。
「あれは……」
前を向いたまま、美燕が口を開く。
「よい仕合だったと、思います」
「うん」
士郎自身が驚く程、自然に同意の言葉が口をついた。
またしばらく、無言のまま並んで歩く。
「私は、弱いですね」
ぽつん、と美燕が言う。
強くなるために厳しい鍛錬を積んできたというのに、迷子になり暗がりで泣いていたあの頃から、なにも変わっていなかった。
今回のことで骨身に染みて思い知った。今までの己の所行を振り返れば、恥ずかしさで身が竦みそうになる。
結局は父の真意を説いて聞かされるまで、そんなことを考える余裕すら無くしていた。
ただ悲しむばかりで、父の真意も、士郎や葉弥乃達の気持ちを考える事もせず、自分の事だけで精一杯だった。
だから、認めよう。
「私は、弱いです」
そう、自分は弱い。
弱いから、ただ生きていくだけでも支えがいる。
剣を握り続けるための理由がいる。
「だから」
いつか、父が言っていた。
剣士はただ剣のみを握っているわけではない、と。
自分は父との絆を、剣と共に握っていた。
士郎は、強く、疾く、真っ直ぐな拳に、何を握りしめているのだろう。
いつかそれを知り、そしていつか、その拳に克ちたいと思う。
少しづつでも、受け入れて。
僅かずつでも、強くなって。
だから、その日までは、剣を握り続けていようと思う。
自分は、そしておそらく士郎も、不器用な人間だから。
剣で、拳で、語るより他に仕方を知らないから。
立ち止まった美燕は身体ごと士郎に向き直り、強く優しい微笑みを浮かべて言った。
「また、仕合いましょう。いつか、もっと強くなったら」
士郎もまた立ち止まり、少し俯き加減に呟く。
「いつか、もっと強くなったら……か」
その頃には、今は知らないなにかを知ることが出来ているだろうか。
「うん」
今は見えない先が。
越えるべき背中が、少しは見えているだろうか。
頬が自然に綻びた。
「そうだな」
士郎の答えに、美燕の笑顔が屈託のないものに変わる。
ふと士郎は、美燕が家に来てから、美燕の笑顔を見るのも、美燕に笑顔を見せるのも、今が初めてだということに、今更ながら気がつく。
「おっはよーーーーーーぅ!!」
「はうっ?!」
ドップラー効果を引きずって、まるで体当たりのような勢いで走ってきた葉弥乃が、そのままの勢いで力一杯美燕に抱きついた。
「いたたた……」
さすがに怪我に響いたか、美燕が胸を押さえてやや顔をしかめた。
「ああっ! ご、ごめんね、みーちゃん、つい」
「……いえ、大丈夫です」
慌てて顔を覗き込んでくる葉弥乃に、美燕は笑顔を返す。
そう、別に士郎をうらやむ必要などなかったのだ。
少なくとも、この強くて優しい、そのくせ繊細で魅力溢れる少女の好意は、会った時から自分にも注がれていたのだから。
そんなことにさえ、自分は気がつかなかった。
本当に自分は未熟なのだと思う。
だがそれを自覚できるなら、より良い方向へ進むことも、きっと出来るはずだ。
「それはそれとして、二人とも薄情なんだから。待っててくれてもいいじゃない」
「悪い」
「すいません」
まったく同時に謝罪の言葉を口にした士郎と美燕が、顔を見合わせて少し笑う。
頬を膨らませていた葉弥乃は、一瞬その二人の様子にきょとんとしたが、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべて、二人を両手に抱え込んだ。
「お、おい?」
「葉弥乃、どうしたんですか?」
訝しげな二人に取り合わず、葉弥乃はさらに両手に力を込めた。
「あ〜〜、なんかいいな〜〜……」
士郎が家を出たのに気がついて追いかけてきた静流が、道端で一塊になっている三人を見て、羨ましそうに言った。
「なに言ってんの静流ちゃん。ほら、静流ちゃんも混ざんなさい、ほらほら!」
葉弥乃が誘うと、静流は途端に笑顔で士郎達の後ろに回り、葉弥乃と一緒に二人を挟み込むように抱きついた。
困惑の体を深める二人に、葉弥乃は屈託なく笑った。
「やっぱりさ、みんな仲良しなのがいいよね。そうでしょ?」
澄みきった青空に、楽しそうな笑い声が溶けていく。
しばらくはいい天気が続きそうな、そんな空だった。
了