序の段
 
 暦の上ではすでに夏となり、夏の訪れが遅いこの地方でも、ようやく夏の足音を感じるようになってきていた。
 和室の八畳間。
 廊下に面した障子は開け放たれ、縁側の向こうに見える庭は緑が萌えていた。
 古くから多くの剣士を排出してきた北の地は、その自然環境の厳しさと引き替えに、鮮明な四季の移り変わりを見せる。
 一年の内でも、もっとも色鮮やかな季節を前に、緑の若芽は日増しに強くなる陽光を浴び、色濃い緑に輝いていた。
 緑の香りを乗せたそよ風が、軒先に下がった風鈴を撫でて澄んだ音を響かせる。
 年の頃は十四、五歳の少女が、部屋の下座に座っていた。
 着衣は胴着に袴。艶やかな黒髪を高く結い上げ、歳に似合わない凛とした雰囲気を漂わせている。
 面立ちに、まだ幼いものを残す少女は、一人前の剣士としての存在感を漂わせていた。
 この地方には、鬼を切ったと言われる古い剣術の流派があった。
 少女は物心をつく前から、その流派の後継者として育てられてきた。
 師は、父。
 父の下で剣を学ぶ大人達に混じって、少女は修行した。
 その教えは厳格で容赦のないものだったが、少女は大の男も音を上げる鍛錬にも挫けることなく、素晴らしい剣才を発揮し、やがて奥伝に手をかけるまでになった。
 少女はなによりも剣を愛し、誰よりも父を敬愛していた。
 一つ、また一つと新しいものを身につけていくのは楽しかったし、なにより父が喜んでくれるのが嬉しかった。
 だが、そんな日々は唐突に終わりを迎えた。
 弟ができた。
 たったそれだけ。
 たったそれだけのことで、少女は総てを失った。
 後継者としての立場と、父の愛情。その二つが少女の総てだった。
 剣の継承者としては、男子が望ましい。当たり前のことだ。正当な後継者は一人のみとされている流派では尚更だ。
 父親は比較的若くに妻を娶ったが、子供を授かったのはしばらくしてからで、しかもようやく授かったのは女児だった。
 その後、二人目は妻の体力的に無理があると判った父親は、少女を後継者として育てる決心をしたのだが────。
 弟が出来たと判ったのは、半年前。
 母の胎内に弟がいると聞いたその日、父から告げられた。
 もう剣術の修行はしなくていい、と。
 その言葉に少女は恐怖した。
 自分はなにか父を怒らせるような失敗をしたのだろうかと思い悩み、父の言に従うどころか、なおのこと鍛錬に身を入れた。
 もちろん、それで父の態度が変わるはずもなく、逆にいつまでも鍛錬場に姿を見せる少女を疎ましく思っているように、少女は感じていた。
 見かねた弟子の何人かが父に進言してくれたようだが、それでも父の態度は変わらなかった。
 それでも、いつか父の心が戻ってくると信じて、少女はさらに過酷な鍛錬を己に課し続けた。
 黙ってみていられなかった弟子達が、無理な鍛錬は止めるように言っても、少女は頑として聞かず、ただ黙々とそれを続けた。
 昨日、母が無事に弟を出産したと、病院から連絡が入った。
 そして今朝、父が「話があるから、部屋に来なさい」と少女に言った。
 それは久し振りに父からかけられた言葉だったが、少女はそれに喜びよりも、強烈な不安を感じた。
 今、少女は渦巻く不安に耐えながら、じっと膝に置いた自分の拳を見下ろしている。
 すらり、と襖の開く音がした。
 びくり、と少女が身を竦める。
 襖が閉じ、自分の正面に父が座るのを気配で感じるが、不安が重い枷となって顔が上げられない。
「美燕(みえ)」
 名を呼ばれた。
「……はい」
 自分でも驚く程かすれた声が出た。
 しかし、父は何もなかったように続けた。
「来週から、ここに通いなさい」
 はっと少女──美燕が顔を上げる。
 畳の上に差し出されたのは大きな茶封筒。
 封筒の下側に中学の名前が記され、学校の所在地も印刷されていた。
 それは、控えめに言っても、とても近所とは言えない場所だった。
 不安が心臓を掴む。
「必要な書類は全部入っている。向こうの友人にも話は通してある。詳しい話はタキさんに聞きなさい」
 コノウチカラデテイケ。
 少女には、そう言っているように聞こえた。
「……お父様……」
「もう、決まったことだ」
 封筒を凝視したままか細い声で美燕が言うのを、無造作に切り捨て父は立ち上がった。
 全身を縛る見えない枷を振りほどき、美燕は意を決して膝を立てる。
「お父……!」
 ぴしり、と軽く冷たい音を立てて、襖が父と美燕との間を断絶した。
 美燕は、脱力したように座り込んだ。
 やがて、その細い肩が震え始める。
 袴の膝で握りしめた拳は蒼白で、唇は血が滲むほど噛みしめられた。
 俯いた顔から、ぽつりと一つ、拳の上に落ちる。
 いつの間にか、どこかで気の早い蝉が鳴き始めていた。
 
      初伝・剣は拳に出会う
 
       壱
 
 濃緑の作務衣姿の男は、まるで苔むした大岩のような存在感を辺りに発散していた。
 みたところ、歳は少なくとも不惑を越えているようだが、では具体的に何歳かと問われると、首を捻ってしまう不思議な雰囲気の持ち主だ。
 眼光は生気に溢れ、百八十センチはゆうに越える体躯は、しなやかさと厳めしさ、相反しそうな二つの要素を絶妙なバランスで内包している。
 もし動物に例えるなら「猫科の熊」とでも表現できそうだった。
 骨格のしっかりした頑健な見かけに反して、その雰囲気は刺々しさのない柔らかく暖かなものだった。
「そういうわけで、今日から知人の娘さんがくるので」
 唐突に彼の口から出たのは、そんな言葉。
「──……は?」
「二人とも粗相のないようにな」
「ちょっとまて」
 ジメジメとした梅雨も明け、日に日に暑くなる、夏休み前最後の日曜日、午前七時。
 最近はどこの家庭でもすっかり珍しくなってしまった、日本の朝食風景。縁側から広い庭が見える純和風の八畳間で、ちゃぶ台を囲むのは親子三人。
 一枚板の天板に並ぶ朝食もまた純和風。焼き海苔に卵、納豆、焼き魚、そして味噌汁。
ちなみに、味噌汁の具は麩と大根菜っ葉。数々のおかずはほんのりと湯気を上げているが、まだご飯は花柄の電気ジャーの中だ。
「なんだ?」
「聞いてないぞ」
 半眼で、ジャーのご飯をしゃもじで混ぜる父親に言ったのは、十代半ばほどの少年。
 だが、父親は彼を一瞥しただけで、ジャーからご飯を茶碗に盛りつけつつ、なんでもないように言った。
「そうだったかな」
「あのな!」
 声を荒げてちゃぶ台へ乱暴に手を振り下ろそうとした少年は、次の瞬間音もなく畳の上に転がっていた。
 見れば、振り下ろそうとした手を、両手がふさがっていたはずの父親の片手に捕らえられ、そのままうつぶせに押さえつけられていた。しかも、体格差はあるとはいえ、それほど力を入れているようにも見えないというのに、見えない岩にでも乗っかられているのかと思うほど、少年は身動きが取れなくなっていた。
「せっかくの朝食がひっくり返ったらどうする。食い物は大切にせんか」
 動けないなりになんとか抜け出そうともがく息子を見下ろし、やれやれと溜息をつく。
 ただ重いだけなら多少はなんとかなりそうなものだが、不思議なほどにビクともしない。慣れてなければ、そのどうにもならない妙な感覚に笑い出していただろう。
 たっぷりと十秒ほど、作務衣の袖も揺らさず息子を押さえ続けていた父親は、少年が諦めて動かなくなるのを確認してから、ゆっくりと訊いた。
「メシの盛りは?」
「……大盛りで」
 大いに不満がありそうな様子の少年を解放した男は、何事もなかったように飯の盛りつけに戻り、しっかり盛りつけたスミレ柄の茶碗を残りの一人である少女に手渡す。
 こちらの少女は少年よりもいくつか歳が下だろう。意志の強そうな眉と目元が父親と兄によく似ている。
 父と兄のやりとりを慌てもせず、むしろ微笑ましげに眺めていたのは、細身の見かけに反して胆が太いのか、それとも単純に見慣れているからなのか。
「ねえ、お父さん。その話って、この前の話に関係あるの?」
 受け取った茶碗を目の前に置いて、ショートボブの可愛らしい頭を少し傾げる少女。
「静流(しずる)は察しが良いな。その通りだ」
「この前の話?」
 捕られていた腕の関節とくりくりと回してほぐしつつ、少年が問い返す。
「お兄ちゃんも聞いてたでしょ? 寮の方、女子寮として再開するって」
 親子の住むこの屋敷は、庭・建物を含めてゆうに二百坪以上の広さがある。その内、建坪が約三分の二。さらに建坪の内半分が親子の生活する母屋で、残りの半分が道場とそれに隣接する形で寮があるのだが、今は諸事情あって店子はいなかった。
「冗談かと思ってた」
「そんな冗談を言ってもしょうがあるまい。家屋も使わないと傷む一方だし、あちこちから再開しないかとの声もかけられていたのでな」
「……どっかの誰かさんが、寮生を残らず叩きだしたのは何年前だったっけ?」
「礼儀というのは痛い目にあって覚えるものだと、私は思うがな」
 半眼でちくりと言ってくる少年の言葉を、さらりと受け流す。
「色々と事情があって、女子寮ということにした。折良く頼まれて、友人の娘の下宿先を相談されたので、どうせならということで、うちで面倒を見ることになった。本格的に寮生を受け入れるのは来年からのつもりだったがな」
 喋りながら三人分の御飯と味噌汁の準備を終え、両手を合わせる。
 少年と静流もそれにならって、正座で手を合わせた。基本的な躾が良いのだろう、二人も綺麗な姿勢だ。
「で、だ。静流、後で駅まで彼女を迎えにいってもらえるか?」
「うん。何時?」
「十一時過ぎの電車で来るはずだ。それと、士郎(しろう)」
 味噌汁をすすっていた少年の手が止まる。
「朝飯が終わったら、寮の部屋の掃除をするから手伝うように。逃げてはいかんぞ」
 釘もしっかり刺されたにも関わらず、なにも聞かなかったような態度で食事を再開する士郎の肘を、静流がつついた。
「可愛い人だといいね、お兄ちゃん」
「別に」
 笑みを含んだ目で囁いてくる妹に、兄は素っ気なく返す。
「一応言っておくが」
 こちらは悪戯っぽい調子で父。
「その娘さんは、幼い頃から古流剣術を仕込まれているからな。手を出すなとは言わんが、そのつもりがあるなら、覚悟だけはしておいた方がいいぞ」
 妙に嬉しそうな言葉に、士郎は鼻の頭に皺を寄せて唸った。
「なんだか、猛烈に嫌な予感がしてきたんだけどな……」
 
 かつて、闘神と称された男がいた。
 長い時を闘い、勝ち抜き、そしてある日を境に武の場から姿を消した。
 男の名は、諏訪武人(すわたけひと)。
 現在の彼が家族と共に過ごす、日常的な朝の風景だった。
 
**********
 
 美燕の後ろで電車のドアが閉まった。
 ガタゴトとホームから電車が出て行く音を背中で聞きながら、剣士姿の少女は荷物を肩に担ぎ直して改札口に向かった。
 美燕の姿を見て笑みを深めた駅員に切符を渡し、大した広さのない駅の構内を出ると、妙に閑散とした町並みが目の前に現れた。
 美燕が聞いた話では、そこそこ大きな街ということだったが、駅前の様子を見る限り都会的という言葉とは無縁な雰囲気だ。
 背の高い建物はほとんど見あたらず、山に囲まれた田舎である美燕の故郷に比べ、随分空が広いような気がする。
 しかし、古い建物がそう多いわけでもないのに、なぜか歴史の香り漂う町並みに美燕は逆に好感を抱いた。
 駅の方を振り向くと、駅の向こうにそれほど高くない山並みが見える。
 しばらく町並みを眺めていた美燕は、はっとして辺りを見回した。
 バスの発着場がある駅前のロータリーは、駅と同じくそれほど広くなく、中心の植え込みにはレトロな雰囲気の時計塔が立っていた。
「……まだ少し、時間がありますね」
 大きな時計が指しているのは十時と少し。待ち合わせは十一時半なので、まだかなりの時間がある。本当はもう一本遅い電車で来る予定だったのだが、なんとなく実家に居たたまれず、早めに出てきてしまった。
 美燕は形の良い眉を微かに曇らせ、溜息をそっとつく。
 とりあえず、どこかで時間を潰そうと歩き出した。
 美燕の見送りには誰も来なかった。
 あまり身体の丈夫ではない母は、産後の肥立ちが悪くいまだ入院したままだったし、美燕の扱いに同情した何人かの弟子達と、お手伝いのタキは見送りを申し出てくれたが、これは美燕自身が丁重に断った。
 あの日以来父とは会話らしい会話も無く、家を出る時も姿すら見せなかった。
 見送りに来てくれなくても良かった。
 なんでもいい、声だけでもかけてくれたら。
 それだけで良かったのだ。なにもないよりは、どんなにひどい言葉であっても、その方がまだマシだったのに。
 物思いに耽りながら歩いていた美燕の足が、駅前の観光案内所の前で止まる。
 まだ真新しい四角い建物の前面は厚いガラス張りで、内側からこちらに向けてポスターや告知などが色々と貼ってあった。
 その内の、一際目立つ鮮やかなポスターに目を引かれる。
 一月後の夏祭りに行われる、浴衣美人コンテストの告知ポスターだった。ポスターの中では、緑を背景に水色の清涼感漂う浴衣を綺麗に着こなした美女が、少女の美燕から見ても魅力的な笑顔をふりまいていた。
 美燕は、いわゆる女の子らしい格好というものをした覚えがほとんど無い。物心つく前にはそれなりにあったのだろうが、少なくとも木刀を握るようになってからは皆無だ。
 別に父なり母なりがそう仕向けたわけではなく、美燕自身がそういう世間一般の女の子が興味を持つようなものに興味を持たなかっただけだ。
 これからは、自分もこういう格好をすることもあるのだろうか。
 想像の中で自分にも同じ格好をさせてみるが、物憂げな溜息が漏れるだけだった。
 頭を振って想像を振り払うと、その拍子に肩にかけた刀袋から堅い感触を感じる。
 つい最近、美燕が素材から選んで手ずから削りだした赤樫製の木刀の感触だ。
 ふと、改札を通る時に見た駅員が笑っていたのを思い出す。
 あれは、自分を笑っていたのではないだろうか。
 自分にとっては当たり前の胴衣姿。春夏秋冬、防寒に何かを上から羽織ることはあっても、大半の時間をこの姿で過ごしてきた。
 今までそれをおかしいと思ったことは一度もないが、他人がそれをどう見るかなど考えたことがなかったと気付く。
 これも変えなければいけないのだろうか。
 道を絶たれたからには、剣も捨てなければいけないのだろうから。
 ──新しい生活を、始めなければいけないのだから。
 もう一度首を横に振って考えを頭から追い出し、美燕はガラスに映る自分の姿から目を逸らすと、逃げるように歩き出した。
 とにかく、待ち合わせまで時間を潰さなくてはいけない。
 そう思いながら首を巡らせると、刀袋越しの堅い感触と合わせ、削ってから時間の経っていない木の香りを感じた。
 それは故郷の香りでもあった。
 ほんの数時間前まで踏みしめていた故郷の地が、今は遙かに遠い。
 胸の奥が鋭く痛んだ。
 もう一度、ゆっくり木の香りを吸い込む。
 この香りが薄れる頃には、胸の痛みも少しは薄れているだろうか。
 
        弐
 
「いたっ……!」
 掴もうとしてくる手から身を躱そうとしたところで、背中がブロック塀にぶつかり、太いお下げ髪が揺れた。
 小柄な少女は一瞬痛みに顔をしかめたが、すぐに気を取り直し、眼鏡の奥から相手を睨みつけた。
「なんなのよ、あんたたち!」
「だから、さっきから言ってるじゃねえの」
 気丈な態度で威嚇する少女に対して、少女よりも幾つか年上で、見るからに頭の悪そうな高校生らしき柄の悪い二人組が、だらしない舌足らずな口調で言う。
「おれたちゃヒマしてんだよ。おれたちと遊んでくれるか、遊ぶための『これ』」
 と親指と人差し指で丸を作る。
「めぐんでくれねーかなーってさ?」
 ニヤニヤ笑いを浮かべながら、かくんと首を傾げる。連れらしいもう一人も、一歩引いたところで同じような笑いを浮かべている。
 その言葉を聞いた少女の顔が、はっきりと軽蔑したものに変わった。
「なにかと思えば、カツアゲ? ……あんた達、この辺の高校生じゃないわね?」
「そうそう、わざわざとおくからきたボクタチに愛の手をってな?」
 なにがそんなにおかしいのかと疑いたくなるなるような調子で、二人共にゲラゲラと笑い転げる。
「まあ、そうでしょうね。ここら辺じゃ、そんな命知らずはいないでしょうから」
 ぼそっと小さく呟き、少女は目だけで辺りをうかがった。
「もう! こんな時に限って誰も通りかからないんだから……っ!」
 その時、通りの角を曲がって、こちらに向かってくる人影が見えた。
 少女の顔に僅かな喜色が浮かぶ。
 現れたのは、見たところ少女よりも幾つか年上のように見える、胴着姿に刀袋を担いだ、どこからどう見ても剣士の少女だった。
 急に瞳が輝き出した眼鏡の少女を訝しく思った少年達が、その視線を追って振り向く。
 三人分の視線を受けた女剣士は、特に驚いた様子もなく、冷ややかな視線を少年達に注ぎ、続いて眼鏡の少女に目を向ける。
 一瞬だけ二人の視線が絡む。
 眼鏡の少女は「お願い」という視線を女剣士に向けたが、女剣士の方はついと視線を逸らし、なにも見なかったかのように、歩みを緩めもしない。
 あからさまに「関わりたくない」という態度に見えた。
 救世主だと思った人物のそんな態度に、眼鏡の少女は軽い失望を覚えたが、すぐにこの状況から逃げ出す算段に思考を切り替える。
 それにしても、と思う。
「……おっかしいな。立ち居振る舞いからして、かなり『使える』人かと思ったんだけど。関わりたくないってだけかな?」
 女剣士の登場に、少年達はしばし緊張しながらその動向をうかがっていたが、女剣士が黙ったまま通り過ぎようとするのを見て取り、眼鏡の少女に向き直ろうとした。
 隙アリ!
「あ、てめえっ!」
 眼鏡の少女は、その隙を見て逃げだそうと素早く走り出す。
 少年達は驚いて、それを追いかけようと女剣士に完全に背を向けた。
 三人の視界が、完全に女剣士から外れた瞬間。
 ご、と鈍い音がした。
 しばらく妙な間があって、少年の一人の目がくるんと裏返ると、そのまま糸が切れた操り人形のようにぐりゃりと垂直に倒れ込んだ。
「お、おい!」
 片割れが慌てて支えるその横を、つむじ風のごとく眼鏡の少女が走り抜ける。
 加速しながら女剣士の方に目をやると、その意外に女性的な背中は、刀袋の口を縛りながら次の角の向こうに消えるところだった。
 間違いない、彼女がなにかしたのだ。
 なにをしたのかは、まったくわからなかったが、このチャンスを逃す手はない。眼鏡の少女は文字通り脱兎の勢いで、女剣士とは逆の方向へ逃げ出す。
 背後から怒声が追いかけてきたが、それもすぐに聞こえなくなった。
 
 はぁ、と美燕は長々と溜息をつく。
 つい、見ていられずに手を出してしまった。
 父の友人とはいえ、これから他人様のお世話になろうというのに、さっそく厄介ごとに首を突っ込んでしまったことに軽く自己嫌悪を覚える。
 だからといって、後悔もない。ああいう輩は、美燕の最も嫌悪する人種だ。力を持つ人間は、その力でもって他人を抑圧してはいけないと美燕は幼い頃から心に刻んできた。
 どうしても見逃せなかったのだが、やはり「やってしまった」という意識はどうしようもない。
「思い切りの良い人でしたね」
 ふと、先程絡まれていた少女を思い出して微笑を浮かべる。
 目の前で起きたことに気を取られずに、咄嗟の判断で躊躇無く逃げ出していた。しかも、自分とは逆の方向にだ。
 普通窮地から逃れようとする人間は、無意識に助かる可能性の高い方を選ぶものだ。さっきの場合、人のいる方、つまり美燕の方だ。
 なのに、あの少女は迷うことなく逆を選んだ。他人に依存しない性格なのか、騒ぎにしたくないこちらの意図を酌んでくれたのかは知らないが、的を散らすという意味でも良い判断だったと思う。
 つらつらと考えながら刀袋の、刀で言えば鯉口の辺りを指でなぞると、堅い鉄の感触がある。木刀での抜刀を考え工夫された抜刀補助用の鉄片が、そこに仕込まれていた。
 そう、先刻の男を昏倒させたのは、抜刀術の一手。
 行き違った相手の首を、こちらも後ろ向きのまま背後から切りつける。幕末に暗躍した人斬りの一人が編み出したものだ。
 もちろん真剣ではないし、殺すつもりなど無いので、気絶させただけだが。
 美燕はこの技を祖父から習った。祖父は幕末に京都にいたという、祖父のさらに祖父から教わったとのことだったが、まさか使う機会があるとは思わなかった。
「へい、か〜〜のじょ。お茶しな〜〜い?」
 いきなり横手から、妙にレトロな内容に似合わない、可愛らしい女の子の声をかけられ、美燕は驚いて顔を上げた。
「貴女は先程の……」
 美燕の驚いた顔に、路地の壁に背を預けていた眼鏡の少女はニカッと満面の笑みを浮かべて、美燕の前に立った。
「さっきはありがとうね、女剣士さん!」
「逆方向に逃げたのではないのですか?」
 やや不審げに眉を寄せる美燕に対して、臆することなく少女は笑みを深めた。
「一旦逆方向に逃げてから、ぐるっと回ってこっち来たの。助けてくれた恩人に、お礼もしないのは仁義に反するでしょ? あたし、一ノ瀬葉弥乃(いちのせ はやの)っていうの、よろしくね。葉弥乃って呼び捨てでいいから。あなたの名前も訊いていい?」
 人懐っこく言う葉弥乃に、美燕は飲まれたように目を白黒させ、どうしたらいいのかわからず、そのまま突っ立ってしまう。
 気まずい沈黙が落ちかけたところで、愛嬌溢れる表情を崩さない少女は「ん?」と小首を傾げる。
 その仕草に自然と笑み崩れた美燕は、大きく深呼吸してから告げる。
「私は上泉、上泉美燕(いずみ みえ)です」
「じゃあ、みーちゃんでいいかな?」
「み、みーちゃん?」
「うん」
 馴々しいといえば言える言動だが、あまり人と打ち解けないところのある美燕ですら、なぜかそれを感じさせない雰囲気が葉弥乃にはあった。それどころか、美燕は知り合ったばかりの少女に対して妙な親近感すら覚え始めていた。
「ね、みーちゃん、さっきのお礼にお茶でもどう? 近くにいきつけの喫茶店があるんだけど」
 葉弥乃の申し入れに、美燕は少し考えてから答えた。
「そうですね。ご相伴にあずかりましょうか」
 いつもの美燕なら断っているところだが、美燕自身この葉弥乃という少女に少なからず興味が出てきたし、なにぶん見知らぬ土地である。さすがに一人でいるのは少し不安もあった。
「じゃあ、いこっか」
 葉弥乃が美燕の右手をとり、先になって歩き出す。
 美燕は少し驚き、そんな風に他人から触れられるのは、覚えがないくらい久し振りだということに気がつく。
 それは、不快な感触ではなかった。
 
「不思議なお店ですね、ここは」
 出されてきた抹茶を飲み終え、美燕は店内を見回して言った。
 個人経営としては、やや広めな店の内装は、一見無難にまとめられているように見えるが、注意して見ると様々な国の要素が散見された。
 おそらくアフリカ辺りが由来に見える古びた木像が景色に溶け込んでいるかと思えば、こっそりとトーテムポールのような彫刻が隠れていたりする。
 みな違和感なくまとめられているため、意識しないと、普通に見逃してしまいそうな感じだった。
 メニューも銘柄はやや少なめなものの、国の東西を問わず幅広く取りそろえられている。あまりに雑多に揃えられているため、それぞれの香りが死んでしまいそうな気もするが、一口飲んだ抹茶は充分薫り高いものだった。
 どんな魔法を使っているのか知らないが、マスターの腕も管理も確かなようだ。
 二人が座っているのは、窓際のボックス席。日曜日の午前中だというのに、店内に客の姿はほとんどない。
「気に入った?」
「そうですね。あまりこういう店に入ったことがないので比較はできませんが、良い店だと思います」
 美燕の答えに満足そうな笑みを浮かべて頷き、続けて訊いた。
「みーちゃんは、この街に来て間もないの?」
「はい、今日来たばかりです」
 美燕が、父親の友人のところに下宿人として世話になる予定だと説明すると、葉弥乃が腕を組んで考え込んだ。
「なんかどっかで聞いた話ねぇ。……ああ、おじさまのところに来るって話の。ねえ、みーちゃん、その友人って諏訪ってひと?」
「え? あ、はい、そうです」
「やっぱり、あれってみーちゃんのことだったんだ」
「諏訪様をご存じなのですか?」
「うん。おじさまのところにはよく遊びにいってるから。そこの士郎って馬鹿とも幼馴染みだし。ところで、みーちゃん歳いくつ?」
「今年で十五です」
「へえ、キリッとしてるから年上かと思った。じゃあ、あたしと同い年だね。その士郎ってのも同い年。おじさまのところに下宿するなら、中学も一緒になるね、きっと」
 嬉しそうに笑ってコーヒーの最後の一口を飲み干す。ちなみにブレンドのブラックだ。
 曖昧に笑って視線を逸らした美燕は、店内のクラシカルな柱時計に目を止めた。針は十一時を回るところだ。
「あの、申し訳ないのですが、待ち合わせがあるので失礼したいのですが……」
「待ち合わせ?」
「諏訪様に、迎えにきて頂くことになっています」
「何時?」
「十一時半です」
 葉弥乃は腕時計で時間を確認すると「ちょっと待ってて」と美燕を身振りで抑えつつ、折りたたみ式の携帯電話を取りだし、カウンター内でグラスを磨くマスターに向かって片手で拝む。マスターが頷くのを確認してから、手早く短縮ダイヤルを呼び出した。
『はい、諏訪です』
 2コールで電話口に出たのは少女の声だった。
「もしもし、静流ちゃん?」
『あ、葉弥乃さん』
「今日、静流ちゃんのところ、上泉ってお客さんくるでしょ?」
『はい、今から迎えに出るところだったんですけど。どうしたんです?』  
「ちょっと色々あってね、さっきその本人と知り合ったの。あのね、あたしがそっちまで案内しようと思うんだけど、構わない?」
『いいんですか?』
「うん。今日もそっちに寄るつもりだったし」
『じゃあ、葉弥乃さんさえ良ければ、お願いします。お父さんにも伝えておきますね』
「おっけーおっけー。それと、お昼御飯は食べていくから。んじゃ、また後でねぇ」
 あっという間に算段をつけた葉弥乃は、携帯を閉じ、美燕ににっこりと笑いかけた。
「というわけで、御飯食べたら案内するね。なに食べる? ここ、ペペロンチーノが絶品なの。もちろんあたしの奢りだから遠慮しないでね」
「はあ」
 どう言っていいやら判らず、美燕は溜息と一緒に頷いた。
 
        参
 
 狭い診療所へ転げ込んできた二人組に、机に向かい書類を書いていた、痩身で小柄な初老の男が片眉を吊り上げて振り返った。
「なんでぇ騒々しい。今日は休診日だぞ。急患か? うちは骨接ぎ屋だぜ」
「な、なんでもいいから診てくれよ! 突然倒れたんだよぉ!」
 ぐったりとしている相棒を引きずってきた少年が、泣きそうな声で頼んだ。
「突然倒れただ? 若ぇのに卒中かよ。しょうがねえな、診るだけ診てやっからそこ上げろ」
 椅子を回して少年達を向き、診療台を顎で示した男の左袖がゆらりと揺れる。男は隻腕のようだった。
 言われた少年は、慌てて隻腕の男が示した台に相方を乗せる。
「どれ」
 慣れた手つきで脈を取り、気を失っている少年の下まぶたを親指でひっくり返す。
 そして、ふん、と鼻を鳴らした。
「気絶してるだけじゃねえか」
「へ?」
「気絶してるだけだってんだよ。……ん? おうアンちゃん。ちょっとこいつをうつぶせにしてくれや」
「あ、ああ」
 言われるままに相棒の身体をひっくり返す。
「今時、珍しい技ぁ使う奴がいるな」
 うつぶせにされた男の、首の後ろをしばらく観察していた隻腕の男はぼそりと嬉しそうに呟き、じろりと突っ立ったままの男に目を向けた。
「良かったな、この程度で済んでよ」
「あん?」
 言葉に込められた濃厚な揶揄に、訳のわからない様子だった少年の顔が険しくなる。
 だが、隻腕の男はそれを歯牙にもかけず、うつぶせに寝かされた少年の背中に手を当てると活を入れる。すると、まるでスイッチが入ったように少年が目を覚まし、頭に手を当てて呻きながら立ち上がった。
 特に感動もなく、隻腕の男は机まで戻り煙草を咥えて火をつけた。
「お代はいらねぇよ。それより、おめえら余所もんだろ? これ以上怪我しねえうちに帰ったほうがいいぜ」
 明後日の方を向きながら、さぱーっと煙を吐き出す。その口調は、誰が聞いても小馬鹿にした調子が混じっていた。
 さきほどから険悪になっていた少年に加え、目を覚ましたばかりの少年も、たった今診察してもらった恩も忘れて男を睨みつけた。
「ようジジイ。ちょっと診てもらったからって、ナメた口きかれて黙ってられるわけじゃねえんだぜ?」
「……だからよぉ」
 低く低く、地の底から響いてくるような声。
 少年達の恫喝など微風にもならない、暴風のような殺気が男の小柄な身体から少年達に吹きつけた。
 そして、向けられた男の視線に、二人は縮み上がった。怒りに紅くなりかけていた顔色が、瞬間的に真っ青に変わる。
 そもそも、少年達がホームグラウンドを離れてまでこの街に来たのは、簡単に言えば「箔」をつけるのが目的だった。
 先輩連中や、それよりもっと上の危ない職業連中の間で、この街はオカルトじみた恐怖心に満ちて語られている。
 それについて問いただしてみたところで、訊かれた者はただ首を横に振り「悪いことは言わないから、あの街には近づくな」ということが異口同音に語られるだけだった。
 だが、具体的なことは誰も知らないのではないかと思うほど情報が少ないせいで、逆に恐怖心よりも好奇心が勝つこともある。
 先輩達どころか本職も距離を置きたがるような場所で、例え小さくともなにかやれば箔になると浅はかな考えでやってきたのだが。
 考えが甘かった、と考える余裕もない。
 たった今少年達に吹きつける純度の高い殺気は、極寒の吹雪のように動きと体温を奪い、向けられた視線はライフルの銃口よりもはっきりと死の香りを漂わせていた。
 もし少年達の膀胱に貯蓄があれば、あっという間に放出していただろう。
 男の前では、少年達など大蛇の前のアマガエルよりも無力な存在だった。
「この街にゃあな、てめぇらみてぇなチンピラが大好物の獣がうろうろしてんだ。骨まで噛み砕かれねえうちに消えろって言ってんだがな」
 二人の顔色は蒼白を越えて、死人の色になりつつあった。両足が削岩機のように震えている。
「それとも」
 にやり、と男の口が吊り上がる。少年達は、その口の奥に長い牙と先の割れた長い舌が見えたような気がした。
「ここでオレに喰われるかい?」
 恐怖が頂点に達する寸前、ふっと殺気が弱まった。
 その瞬間「ひぃ」と短い悲鳴を上げ、これ以上はないほどみっともない姿で、少年達は這うように逃げ出した。
 バタバタと落ち着きのない足音が遠ざかるのを待って、男は鼻を鳴らした。
「クズどもが。まあ、小便漏らさなかっただけまだマシか」
 椅子に座り直し、改めて紫煙をくゆらせる。
「アレやったのも余所もんだな。この街の連中ならあんな回りくどいやり方はしねぇだろうしな。そういや、タケんとこにあいつの娘がくるとか言ってやがったが、そいつか? ……そのうち見にいかねぇとな」
 男はそう独りごち、短くなった煙草を灰皿に押しつけると、何事もなかったようにまた書類に向かった。
 
     **********
 
「大きなお屋敷なのですね」
 古めかしい土塀沿いに肩を並べて歩きながら、美燕が隣の葉弥乃に言った。
 美燕は少女としてはやや背が高く精悍な印象があるのに対し、葉弥乃は平均よりやや低めの身長で女の子然としているので、そうして並んで歩いていると似合いのカップルのようにも見える。
「この近所じゃ一番敷地は広いんじゃないかな。ちなみに、あたしの家はこの通りを少しいったところなの。そのうち案内するね」
「はい」
 そんな会話を交わすうちに、重厚な構えの門前に辿り着く。
 一目で古い物と判る面構えの門は、少なくとも三十年や四十年ではきかない歴史の重みを発散しており、その分厚い門扉は大きく開け放たれている。
 美燕の実家も大きな屋敷で、田舎作りで開放感はあったものの、重厚さという点では門一つとっても及ばなかった。
 家は住んでいる人間を表すと聞く。このような屋敷に住む人とは一体どんな人物なのだろうか。
「ほらなにしてるの、みーちゃん。いくよ」
「あ、はい」
 なかば圧倒されて門を見上げていた美燕は、先に門をくぐっていた葉弥乃の声で我に帰ると、自らも門をくぐった。
 敷地内に入ると、すぐ左手に大きな木が立っており、正面には門に負けない歴史感溢れる屋敷があった。
 向かって右手に渡り廊下があり、稽古場らしき建物に繋がっている。その稽古場の向こうに比較的新しい建物が見えた。ここからでは角度的によく見えないが、渡り廊下は稽古場を経由してそちらにも延びているようだ。おそらくあれが寮だろう。
 その時、どこからか怒号と喧噪が急速に近づいてきた。
 方向は……上?
 何事かと上を振り仰ぐと同時に、美燕の目の前になにかが降ってきた。
 その瞬間、四年ほど前に、里近くまで降りてきていた猿たちのボスに襲われた経験を美燕は思い出していた。
 思い出した時には、特殊な縛り方で結んだ刀袋の口をほどき、木刀を抜き打っていた。
「?!」
 驚きの理由は二つ。
 一つは、それが猿でなく人間だったこと。
 もう一つは、とっさの一撃だったとはいえ、手を抜いたわけでもない一閃が空を切ったこと。
 刹那。落ちてきた人間──少年と、美燕の視線が絡んだ。
「あ」
 少年がなにかを言おうと口を開きかけた。
 その表情のまま、美燕の視界の中で少年の顔が真横にスライドする。
 仁王像のような足が少年を捕らえるのが、やけにゆっくりと見えた。
 どかん!
 一瞬遅れてきた音と共に、少年は放物線ではなく直線を描いて大木に叩きつけられる。
 まるで鐘突き棒のような蹴りを放った人物は、空中で横にくるりと回り、その巨体からは想像もできない軽やかさで、地面に降り立った。
「追われる立場でよそ見とは。随分余裕があるな、士郎」
「おじさま、おじさま。多分もう聞こえてない」
 白目を剥いて動かなくなってしまった士郎を、腕を組んで睥睨する武人に、葉弥乃が苦笑いで突っ込んだ。
「おお、葉弥乃くん、いらっしゃい。面倒をかけてしまったらしいね、ありがとう」
「どういたしまして。みーちゃん、こちら、諏訪武人さん」
 木刀を振り切った状態で呆然としていた美燕は、はっとした表情で慌てて木刀を納め、軽く身繕いすると武人に向かって頭を下げた。
「は、初めまして。これからお世話になる上泉美燕です。今後、ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお叱り下さい」
「君の父上から話は聞いている。こちらこそよろしく」
 その礼儀正しい態度を気に入ったのか、武骨な顔に柔和な表情を浮かべて武人は頷く。
「随分前に一度会っているが、覚えてないかな?」
「え? あの、すいません。覚えがありません」
 恐縮する美燕に、武人は笑って首を横に振った。
「確か、君が二つか三つくらいのことだからね。覚えてなくとも仕方がない」
 言いつつ、奇妙に滑らかな動きで、木の根元でのびている士郎に近づき、その後ろ襟を掴んで、猟師さながらに肩へ担ぐ。
「二人とも上がるといい、茶でも出そう」
「こいつ、今日はなにしたんですか?」
 完全に失神して、目を覚ます気配がない士郎の頭を指で突きながら、葉弥乃が尋ねる。
「寮の掃除を手伝わせていたのだが、途中で逃げ出してね」
「懲りないわねぇ、逃げられるわけないのに」
 楽しそうな会話を交わす二人に、美燕がおずおずと口を挟む。
「あの……、いつも、こんな感じなのですか?」
「なにがかな?」
「ああ」
 首を傾げる武人の隣で、葉弥乃が笑いながら手をパタパタと振る。
「士郎……こいつが、おじさまにドツき回されるのなんて、いつものことだよ」
「いえ、あまりに鋭い蹴りだったもので……。死んでいるのではありませんか?」
 真顔で言う美燕に、葉弥乃がからからと高笑いする。
「これくらいで死んでたら、今まで三桁は死んでるんじゃないかな?」
「誰に似たのか、身体だけは丈夫だからな」
「おじさまに決まってるでしょ。まあ、これからここで生活するなら、すぐ見慣れると思うよ」
「はあ……」
 本日何回目かの、溜息混じりの返事。
 なんだかとんでもないところに来たような気がする。
 玄関に向かう武人と葉弥乃、それにぐったりとしている士郎を見、美燕はなんとなくそう思った。
 だからといって、それに対する不快や恐れは何もなかったけれども。
 
      四
 
「静流、いるか」
「は〜〜い!」
 それほど大きな声ではないのに、遠く響く声で武人が玄関から呼ぶと、すぐに返事があり、やがて磨き込まれてツヤと深みを醸す廊下を、女の子が軽い足取りでやってくる。
 身長は小柄な葉弥乃と同じくらい。健康的に引き締まった手足はすんなりと伸びて、黒いレギンスに大きめのTシャツ姿が、年相応に活動的で可愛らしい。
 途中で葉弥乃と美燕に気付き、笑顔で軽く会釈すると、武人の目の前に立つ。
「なに、お父さん?」
これを居間に持って行ってくれるか」
 と、士郎を無造作に板間の上へ放りだし、武人は玄関に置いてあったタオルで裸足を拭いた。
「それと、私は茶の用意をしてくるから、お客さんを居間まで案内を頼む」
「はい。じゃあ、上泉さんでしたよね、どうぞ」
 静流は、にこやかに美燕を促しながら、兄のアーミーパンツの片裾を掴み、そのままずるずると引き摺って歩き出す。大きなぬいぐるみのような扱いだ。
「本当にいつものことなんですね……」
 自分よりもいくつか年下らしい少女が、なんの疑問もなく士郎を引き摺っていくのを見て、美燕は誰にともなく呟いた。
「慣れよ、慣れ」
 笑みを含んで言いつつ玄関に上がった葉弥乃が、脱いだ靴を揃えて静流の後についていくのを見て、美燕も慌てて後を追った。
 葉弥乃は勝手知ったる何とやらで、まったく躊躇なく歩いて行くが、美燕にとっては初めての場所だ。不躾だとは思いながらも、視線はあちこちへとさまよう。
 改めて大きい屋敷だな、と感心する。見れば分かることだが、外よりも中に入った方がよりその印象が強くなる。作りの古い日本家屋であるため、不必要な壁が極端に少なく、吹き抜けのような開放感あり、手入れの行き届いた古い木材は落ち着いた雰囲気を発散している。
 屋敷自体は、美燕の実家と印象が少し似ているだろうか。
「みーちゃん、こっちこっち」
 広く長い縁側を歩きながら、緑の溢れる庭を眺めていた美燕を、葉弥乃が障子の向こうから手招きする。
「随分広いお屋敷ですが、諏訪様達はこちらにご家族だけで?」
 勧められるままに座布団へ座りながら、美燕は無造作に兄を畳の上へ放りだした静流に訊いた。
「ええ、わたしとお兄ちゃん、お父さんの三人暮らしです」
「三人?」
「はい、お母さんは四年前に死んじゃったので」
 あっけらかんと言い放たれた静流の言葉に、逆に美燕が困惑顔になる。
「あの、すいません。知らぬ事とは言え、失礼なことを訊きました。歴史のある建物のようなので、先祖伝来の家なのかと思いまして」
「あ、そういうことですか。ここ、もともとお父さんの家じゃないんですよ。お母さんの親戚のお家だったらしいんですけど、ご家族がいなかったそうです。お兄ちゃんが生まれた年に亡くなられて、お母さんが継いだって聞いてます」
「そうなのですか」
 人にも物にも歴史ありということか、襖の上にある精緻な彫りの欄間に目をやりつつ、そんなことを美燕は考えた。
「葉弥乃さんは半分ここに住んでるみたいなものですから、正確には三・五人かもしれませんけど、それでも広すぎますし、掃除も大変なんですよね。無理に寮なんか建てないで母屋(こつち)の方を貸せば良かったと思うんですけどね」
「まあ、色々と事情もあってな」
 静流の背後で襖が開き、お盆を片手に持った武人が現れた。
「今日は紅茶なのだが、美燕くんは紅茶で平気かな?」
「え? あ、あの。はい、大丈夫です、けど……」
 紅茶?
 いや、別におかしくはないと思うが。
 作務衣に身を包んだ大男の口から出てくる単語の違和感に、美燕が砂でも口に含んだ気分になる。
「あれ? オレンジ・ペコじゃないんですか?」
 ふわりと漂う香りに、微かに鼻を動かした葉弥乃が訊く。
「今日は茶屋のマスターからいい葉を頂いてね。ダージリンだよ。お茶請けは私の焼いたクッキーだ。先日の残りで申し訳ないが」
 ダージリン? 手作りクッキー?
 いや、別に悪くはないが。
 なにやら無言で色々と美燕が煩悶しているうちに、茶席は整っていく。
 薄い桃色のティーコゼーを外し、明らかに物の良さそうなポットから、人数分しっかりと均等に注がれた紅茶は充分に香り高く、クッキーも大層美味しかったが、なんとなく納得のいかない美燕だった。
「──……うう〜〜」
 不意に、二日酔いの唸り声のようなものが聞こえたかと思うと、分厚い一枚板でできた食卓の向こう、武人の隣辺りから、ひょいと少年の顔が現れる。
 釈然としない表情でティーカップを傾けていた美燕と、ばっちり目が合った瞬間、彼は逃げるか飛び退くかしようとしたらしいが、次の瞬間「スパン」という小さな音を残して美燕の視界から再び消えた。
「?!」
 あまりの唐突さに美燕が固まっていると、食卓の向こうで少年がもがく気配がした。
「落ち着かんか、みっともない」
 左手でティーカップを傾けつつ、例によって武人の右手が士郎を取り押さえている。
 今度は多少早くあきらめたらしく、おとなしくなった士郎がぼそりと呟く。
「……普通、初対面でいきなり斬りつけてきた相手と目が合ったら逃げるだろ」
「それはさておき」
 息子の呟きはあっさりと無視し、悠々と紅茶を飲み干した武人が続ける。
「士郎も目を覚ましたことだし、改めて紹介しようか」
 士郎を解放して、卓をぐるりと見回し、美燕を示す。
「彼女が今日からうちの店子になる、上泉美燕くんだ。私の古い友人の娘さんで、古流剣術の使い手でもある」
「改めまして、上泉美燕です。ご面倒をおかけすることも多いかと思いますが、宜しくお願い致します」
 美燕は武人の紹介に応じて、ぴしりと背筋の伸びた正座から、剣士らしい綺麗な礼を見せた。
 それを満足そうに頷いて返つつ、武人は家族を紹介する。
「こちらも改めて、私が大家の諏訪武人だ。こちらが娘の静流。家中のことであれば、この子に訊けば大抵の事は判るはずだ。こちらはご近所の一ノ瀬葉弥乃くん。よく遊びにくるし、学校も一緒になるから、顔を会わせる機会も多いだろう。で」
 ぐわしっと、そっぽを向いていた士郎の頭を豪快にわしづかみして、無理矢理前を向かせる。
「これが息子の士郎だ。美燕くん、葉弥乃くんと同い年になるね。未熟者の上、愚か者だが、宜しくしてやって欲しい」
 無駄と知りつつも父親の力に抗っていた士郎の目が、美燕の方を向く。
「ども」
 武人の手を振り払って、言葉少なにそう言っただけで、またそっぽを向く。
 当たり前かもしれないが、先程美燕から出会い頭に攻撃されたのが、腹に据えかねているのだろうか。
「まあ、この通り愛想も悪い奴だが、一応うちの跡継ぎということになる」
 跡継ぎ、という言葉に、美燕の胸が少しうずく。
「……継ぐなんて、一言もいってねぇけどな」
 ぼそっと漏れた士郎の小さな呟きは、はっきりと美燕の耳に届いたが、そこには触れず士郎に対して頭を下げた。
「先程は失礼しました。まさか目の前にいきなり人間が降ってくるとは思わなかったもので、こちらも取り乱してしまいました」
「え、いや、うん、いきなり目の前に降ったオレも悪いんだし……」
 思いの外真っ直ぐケレン無い謝罪を受けて意表を突かれたのか、士郎はバツが悪そうに頭を掻いた。
「木刀で少々小突かれたくらいでは壊れないから、いつでもやってくれて構わないよ。こいつにもいい鍛錬になるだろう」
「いえ、私は──」
 本気なのか冗談なのかさっぱり判らない武人に答えようとしたところで、美燕は口ごもった。
 もう、剣を捨てましたので。
 そう言おうとして、その言葉に説得力がないことに思い至る。
 視線を落とすと、傍らに置いた刀袋が目に入った。
 ならば、なぜ未練げにこんなものを持ち歩いているのだ。
 捨てたいのか、捨てられないのか。
 たった一言を発することに、思っても見なかった強い抵抗感を感じたことに、美燕自身が驚いていた。
 急に言葉を切った美燕に、不審の視線が集まりかけたところで。
「ごめんくださーーい! 宅急便でーーす!」
 呑気な大声が、物思いに沈みかけた美燕を引き戻した。
「おそらく美燕くんの荷物だろう。静流、出てくれるか」
「はぁい」
 静流が玄関に向かって返事をしながら小走りに居間を出て行くのを見送って、武人も腰を上げる。
「部屋の方は掃除が済んでいるからね。荷物を運びがてら案内しよう。
「はい」
 頷いて、美燕も立ち上がった。
 
**********
 
 カラカラと音を立て掃き出しのサッシを開け放つと、夕闇が浸食しつつある広い庭が見える。
 空を見上げると、ほの暗い空に星が見え始めていた。
 ほんのりと湯気が立ち上る背中を窓枠に預け、美燕は夕闇の空を見上げる。
 美燕に与えられた部屋は一階の角部屋。寮にある部屋の中で、一番母屋に近い部屋だ。
 風呂上がりの身体を冷ますために、飾り気がない浴衣の衿を少し緩めて風を呼び込む。そのまましばらく微風を浴びながら、体内の熱気を吐き出すように深呼吸して、部屋の中に目を移す。
 八畳の和室に押し入れが一つ。寮内のトイレは共同で、風呂は母屋の物を利用する。
 部屋にはテレビのアンテナ線と電話線が引かれているが、電話は母屋で取り次いでもらうことなっているし、テレビもあまり見る習慣がないので、美燕にはどちらも用事が無い。
 いまのところ、室内には布団が一組と中くらいの段ボールが二つ、それと風呂に入る前にもらった蚊取り線香と陶器の豚がある。
 美燕はもともと物持ちではないし、こちらで揃えられる物はわざわざ持ってこなかった。生活費は、お手伝いのタキを通じて、通帳と印鑑の形ですでに受け取っている。
 通帳には、普通の生活であれば、数年は持つであろう金額が入っていた。
 質素を旨とする美燕なら、高校を卒業するまで充分持つだろう。もちろん、学費に関しては別口で払い込んでくれるそうだし、足りなければ追加もしてくれるらしい。
 確かに美燕の実家は、地元でも指折りの資産家だが、それでも十四そこそこの少女に持たせるには多すぎる金額だ。
 ちょっと普通ではない待遇だったが、美燕に特別な感慨はない。
 別に資産家の子供だからといって大金に慣れているわけではないが、その破格の扱いは、父が本気で自分を遠ざけようとしている証拠としか思えなかったからだ。
 藍色の浴衣の衿から、風が滑り込む。
 陽が落ちきった空は既に夜に変わり、真珠をばらまいたような星空が広がっている。
 街の星空は、故郷よりも多少くすんでいるかと思っていたが、ほとんど変わらない美しい星空だった。
 ──明日から、こちらの学校に通うことになる。
 とはいっても、すぐに夏休みに入るので、顔見せだけになるだろうが。
 地元で通っていた学校は、生徒数の少ない小さな田舎の学校だった。
 生徒数の桁が違う学校はどんなものなのか、美燕には想像もつかなかった。
 不安がないかと言われれば、もちろんあるが、むしろ美燕はそうであることを望んだ。
 日常に追われていれば、余計な事を考えずに済む。
 歩くことだけに集中できる。
 その時、ほとほととドアを叩く音がして、静流の声が聞こえた。
「美燕さん、ご飯の用意ができましたよ」
「はい、今行きます」
 答えた美燕は浴衣の衿を正し、網戸を閉めて蚊取り線香に火をつけると、豚の中に設置して部屋を出た。
 暗い部屋の中に、蚊取り線香の煙と、淡い星の光が漂った。
 
    中伝・現在(いま)の剣と昔(かこ)の拳
 
        壱
 
 血と汗と油と、時間によって磨き込まれた床に、鋭い風切り音が反射した。
 早朝の稽古場。東側の格子窓から、白い朝日が差し込んでいる。
 美燕は手にした木刀を横に一振りしてから逆手に持ち替えて壁際に移動し、タオルを拾い上げて汗を拭いた。
 溜息一つ。
 本当ならば、稽古場の掃除だけをして戻るつもりが、この稽古場の持つ不思議な雰囲気に当てられて、つい鍛錬まで始めてしまった。
 武人が言うには、現在門下生らしい門下生はおらず、この稽古場を使っているのは身内ばかりだという。
 だが、綺麗に掃除され、ささくれ一つ無い床板、埃も積もっていない桟などを見れば、日常的に丁寧な手入れをされているのは充分窺い知れた。
 鈍く輝く三十畳はある床、そして建物自体に染みついた匂いが、かつてここで多くの者達が過ごした時間を忍ばせる。
 正面を見上げれば、やはり綺麗に掃除され、青々とした榊と御神酒が供えられた立派な神棚が、厳然と稽古場を見下ろしていた。
 昨夜聞いたところによれば、諏訪家では基本的に朝夕の食事は当番制であるとのこと。
 当然、美燕もそれに組み込まれるわけだが、環境に慣れるまでは、しばらくの間免除ということになるそうだ。
 美燕は、一応家事の類は苦手ではないし、下宿人であるとの立場を考えれば、今日から仕事を振られても構わなかったのだが、武人にやんわりと断られてしまった。
 それならば、ということで美燕が申し出たのが稽古場の掃除だった。
 そんな美燕の生真面目な態度に対し、苦笑いを浮かべながら武人は頷き、ついでにいつでも稽古場を利用してもいいとの許可も与えてくれた。
 しばらく神棚を見上げていた美燕は、自分が落とした汗を拭こうと、道場の隅に置かれたバケツと雑巾に歩み寄る。
 その時、どこかで感じたことのある気配が近づいて来るなと思っていると、大小二つの人影が稽古場に飛び込んできた。
「毎朝毎朝寝込みを襲って来やがって、この偏執狂!」
 小さい方の人影は士郎だった。無地のTシャツに短パン姿で、起き抜けなのか、頭に寝癖がついたままだ。
「毎朝ではないな。ちゃんとお前の食事当番の時は遠慮しているぞ」
 涼しい顔で言ったのは、当然武人。こちらは昨日と変わりない作務衣姿。
「そういう問題じゃねえよっ!」
 額に怒り筋を浮かべて、士郎は闘犬のような勢いで襲いかかった。
 唐突に目の前で始まった闘いに美燕は少し驚いたが、昨日の今日で多少精神的な免疫ができていたか、すぐに冷静になると興味深げに勝負を見つめた。
 一合、二合、三合。
 攻防が繰り広げられてすぐに、美燕の心には感嘆が広がっていった。
 攻めているのはほとんど士郎だが、その蹴り一つ、突きの一つが速度もキレも申し分なく、攻撃の回転もいい。見ていると、一呼吸で三連撃以下の手がない。
 それ以上に凄いのは、もちろん武人。
 無数に繰り出される士郎の攻撃を、何分の一か、それ以下の手数で一つ残らず捌いている。しかも、武人は最初の立ち位置から足を踏み換えすらしていない。
 動作の速度自体はむしろゆっくりだというのに、まるで士郎がわざと外しているのではないかと思うほど当たらない。
 格が違いすぎる。
 時間にして、僅か十秒が過ぎた頃には、美燕ははっきりとそう確信した。
 確かに士郎も年齢にそぐわない技量を持っているようだ。幼い頃から鍛錬を積んでいる美燕から見ても、感心に値するだけのものだった。
 しかし、武人のそれは次元が違っている。
 どう見ても士郎の動きは完全に読まれ、余裕を持っていなされてしまっていた。
 しかも、美燕にはその余裕がどれほどのものか感じ取ることができない。
 士郎の相手をしている力が、本来の十分の一なのか百分の一なのか、まったく読み取るどころか、予想すらつかないのだ。
 剣士に限らず、武術を嗜む者にとって、相手の技量を読み取る眼力は必要不可欠のものだ。彼我の力量差を読めない相手に対し、勝負に持ち込むなど危険極まりないからだ。
 美燕自身は、いわゆるそういった戦術眼に関しては、僅かながらも自信があったのだが、武人を見ていると、その僅かな自信も徐々に薄れていく。
 極端な話をすれば、相手が自分より強いか弱いかさえ判ればいいのだが、武人の場合、それすら曖昧になってしまう。
 計り知れない実力を伺わせはするものの、なぜか見ているうちに「ひょっとしたら勝てるのでは?」と思ってしまう。強弱すらもはっきりとは判らなくなっていくのだ。
 鬼を斬る剣を持ってしても斬れなかった男。
 以前に、父が武人を評して言った言葉を、美燕は思い出す。
 武の世界において「闘神」とも称されたというその実力の片鱗を肌で感じ、その深淵のような得体の知れなさに美燕は密かに身震いした。
「どうした、もうへばったか?」
 三分ほど経った頃だろうか、嵐のような連撃を続けているせいで目に見えて失速してきた士郎を、武人が笑い混じりで挑発する。
 息も乱さずに吐き出された余裕綽々の言葉に、士郎の顔がかっと紅潮する。
「……このぉっ!」
 下段蹴りの牽制から繰り出した上段蹴りも牽制。
 僅かに仰け反らせた武人の腹めがけて本命の肘打ちが、素早く滑らかな連携で襲う。
 美燕の目には、武人が無造作に左斜め前へ踏み出したように見えた。
 それだけで、士郎は綺麗に空中で一回転すると、背中から床板に叩きつけられた。
 昨日もそうだったが、美燕には武人がなにをしたのかすらほとんど判らない。
「今日はこんなところか」
 乱れてもいない襟元をわざとらしく整えながら、武人は床で仰向けになって呻く士郎を見下ろした。
 一応受け身は取っていたようだが、ほとんど垂直に床へ落ちるというきつい投げだったので、あまり威力を消せなかったのに加え、全力疾走のような攻めのせいで疲労困憊なのだろう、士郎は立ち上がる気配がない。
「美燕くんは、速いな。しかも、さっそく掃除もしてくれたようだ。すまないね」
「い、いいえ、自分で言い出したことですから!」
 諏訪親子の攻防に見とれていた美燕は、急に武人から声をかけられて背筋を伸ばした。
 生真面目に身を固めるその姿に、武人は目もとを緩めた。
「そろそろ、朝飯もできる頃だ。きりの良いところで上がってほしい」
「はい!」
 大きな背中を見せて稽古場を出て行く武人を見送ってから、美燕は士郎へ近づいた。
 士郎はまだ荒い息をつきつつ、床で大の字になったまま天井を見上げていた。
「ちくしょ〜〜……」
 呻きとも呟きともつかない声が、その口から漏れていた。
「大丈夫ですか?」
「……一応ね」
 美燕の声に、ちらりと少しだけ美燕を見た士郎は、むっくりと上体を起こした。
「あんたは朝練か? 強制されてるわけでもないのに、精が出るな」
「私は……習慣のようなものですから」
 士郎の言葉に、わずかな皮肉の匂いを感じて少しムッとしたものの、それを押さえて美燕は言った。
「……士郎さんも、腕が立つのですね」
「腕が立つって?」
 吐き出す口調には、はっきりと自嘲の色が見えた。
「親父を本気にさせることもできないけどね」
「それは……」
「横で見てたら解るだろ? 親父が本気出したら、一瞬も立ってられないだろうさ。後さ……」
 一挙動で立ち上がった士郎は、美燕の方を見ずに吐き捨てた。
「おれは、武術の腕なんか褒められても、嬉しくも何ともないんだよ」
 そのまま、士郎も足早に稽古場を後にする。
 再び一人になった稽古場で、睨むように出口の方を見つめながら、美燕はしばらくそこにたたずんでいた。
 
 今日の朝食当番は静流だ。
 メニューは、トーストにスクランブルエッグ、ポテトサラダに具沢山のワカメスープ。内容だけ見ればいたって普通だが、あきらかに量が多い。
 別に今日が特別なわけではなく、諏訪家ではいつもそうである。
 基本的に諏訪家全員、身体を動かす機会が多いせいか健啖家揃いで、朝食が一日で一番分量が多いのだが、皆胃もたれとは無縁である。
 実家でも似たようなものだったので、美燕は特にそれに関して驚かなかったが、細く見える静流ですら、自分と同じくらい食べるのには多少びっくりした。
「みーーぃーーちゃーーん! がっこーーいこーー!」
 美燕が食後の茶を飲んでいると、まるで小学生のような声が玄関からかかる。
「朝っぱらからテンションの高い……」
 同じく茶を飲んでいた士郎が、顔をしかめつつ立ち上がった。
「おはよー、みーちゃん。よく眠れた?」
 支度を終えて出てきた美燕に向かって、白い半袖のシャツに紺色のプリーツスカートという夏制服姿の葉弥乃が、高々と挙手して挨拶する。
「はい、お陰様で。葉弥乃さんも、朝からお元気ですね」
「あはは、それしか取り柄がないからねー。それと、あたしのことは呼び捨てでいいって言ったでしょ?」
「あ、そうでしたね、すいません」
「んーー、その敬語もどうにかしたいんだけど、ま、今はいいや。それより、みーちゃん、その格好で登校するの?」
「……やはり、おかしいでしょうか」
 美燕の姿は、昨日に引き続き剣士姿。荷物も刀袋だけだった。
「んーん、別におかしくないと思うよ。それだって、制服みたいなもんと言えばそうだし、他の街ならともかく、この街じゃさほど目立たないでしょ。たんに、みーちゃんのスカート姿も見たかったかな、と思ってね」
「制服はまだ注文もしていなくて。前の学校は私服でも良いところでしたので、学生服自体を持っていないのです」
「そろそろ出ねーと遅刻するぞ」
 美燕と葉弥乃が話し込んでいる横で、トレッキングシューズに履き替えた制服姿の士郎が忠告する。
 その言葉に、葉弥乃は意地悪そうにアゴを突き出して言い返した。
「あたしはみーちゃんを迎えに来たんですー。別に待ってないで先行けばいーじゃん」
「そうするよ」
 言い争うのも無駄と思ったか、士郎はあっさりと背を向けてさっさと歩き出す。
「あ、こら! ヘソ曲げんじゃないわよ!」
「あー待って待って、わたしも一緒に出ます!」
 士郎を追って玄関を出た二人に静流も加わり、四人そろって家を出た。
「みーちゃんは、どこか部活とか入るの?」
 のんびりと三人並んで歩きながら、葉弥乃が美燕に訊く。
「部活ですか……考えてなかったですね。前の学校では入っていませんでしたし。葉弥乃さ──」
「葉弥乃!」
「──は、なにか部活をしているのですか?」
「あたし? あたしは新聞部。ちなみに部長よ」
「新聞部?」
「そ。意外?」
「運動部かと思いました。運動神経は良さそうなので」
「まあ、我ながら悪くないと思うけどね。そういうのは見てる方が好きかな、特に武術系は。そうそう、それを言うなら、静流ちゃんの方が凄いんだよ」
「そうなのですか?」
 葉弥乃を挟んで向こうの静流に目を向けると、恥ずかしそうに首を横に振った。
「そんなことないですよ。ちゃんとどこかに所属してるわけじゃないし」
「入学早々、血で血を洗う勧誘合戦が勃発してね。そういや、あの時は新聞のネタに困らなかったなぁ」
 妙に物騒な単語が混じったことにやや怯みながら、美燕は重ねて訊いた。
「勧誘合戦というのは?」
「いや、小学校高学年の頃から、静流ちゃんは色々勇名を馳せていたからねぇ。運動系の部活は軒並み獲得に血眼になったのよ。で、最終的には、どこにも所属しない代わりに、どの部にも助っ人として参加するのを認めるという条約がね」
「なにか政治情勢みたいな話ですね」
「いやー端で見てる分には面白かったけどね。静流ちゃん自身は、家事の手伝いとかがおろそかになるから、部活そのもののをやるつもりがなかったんだけど。この子もお人好しだから」
「ひあっ?」
 笑いながら、葉弥乃がうにっと静流の脇腹を摘むと、脇腹は弱点なのか、静流は妙な悲鳴を上げて身をよじった。
「もう、脇腹はやめて下さいって。……本当は、つっぱねた方が良かったのかもしれませんけど、皆さん凄く熱心だったので。家事に影響が出ない程度ならいいかなって」
「も〜〜、なんて良い子なのなのかしら。……万年帰宅部のくせして進んで家事を手伝うわけでもない、どっかの誰かさんと血が繋がってるなんて信じられないわねぇ」
 静流の腰を抱き寄せつつ、多分に意地の悪い笑みを浮かべ、家を出てからこっち背を向けたまま一人先を行く士郎の背中に言葉を投げる。
 だが、士郎は軽く鼻を鳴らしただけで、振り返りもしなかった。
「あ、気にしないでね。こいつ、単に人見知りが激しい上に愛想が悪いだけで、別に怒ってるわけじゃないから。いつもこんな感じなの」
 なにか含みがあったわけではないが、何の気なしに士郎の背中を見ていた美燕に、葉弥乃が取り繕うように言う。
 ふと興味を覚えて、美燕が尋ねる。
「あの、お二人の付き合いは長いのですが?」
「士郎のこと? 付き合いっていうのもなんだけど、うん。生まれた時から家族ぐるみの付き合いだよ。聞いた話では、お父さんがおじさまの大ファンだったとか。だからってわけじゃないけど、家も近所だし、ちっちゃい頃から半分おじさまンとこの子供みたいなもんだったし、要は腐れ縁?」
「お母さんがいなくなった直後は、葉弥乃さんのご両親にすごくお世話になりました。おばさまにはよくご飯を食べさせてもらいましたし」
「それほど長い間じゃなかったけどね。なんでか士郎とは、ずーーーーっと同じクラスだったし」
 そんな話をしながら歩いていると、やがて家並みの向こうに、古めかしい木造の大きな建物が見えてくる。
 美燕が通うことになる中学校は、今時大変珍しい木造二階建ての校舎だった。
 学校としてはかなり歴史が古いらしく、校庭の隅にある碑には大正の年号が掘られているのが見えた。
 まだ多少門限まで時間があるが、校門に入るとそれなりに多くの生徒が歩いている。
 明らかに違う学年の生徒からもちらほらと挨拶を受け、愛想良く返事を返す葉弥乃を見て、顔が広いものだなと感心しながら歩いていた美燕は、玄関前で葉弥乃達と別れた。
 その足で来客用の窓口に転校生である旨を伝えると、ほどなく職員室に案内された。
「やあ、君が上泉さんの娘さんかい?」
 職員室で待っていた担任だという、肩幅の広く髪の短い四十絡みの教師は、歳に不釣り合いな溌剌とした笑顔で金堂と名乗った。
「懐かしいな。上泉さんがこの街で過ごしていた頃、随分世話になったものだよ」
「あの……父の、清澄(きよすみ)のことでしょうか?」
「ああ、そうだよ。上泉……紛らわしいか。清澄さんは、若い頃この街にいたんだが、聞いてないのかい?」
「……初耳です」
 思わないところで耳にした父の昔話。
 考えて見れば、父にだって若い頃はあったろうし、その時分に色々と見聞を広めていて当然だ。なんとなく、父はずっと父のままだったように思い込んでいたことに、いわく言い難い複雑な感情が浮かんでくる。
「色々と話してみたいんだが、すぐにホームルームだからね。その後は終業式で、すぐに放課だ。一応夏休みの課題も出すが、あまり気張らなくていいから、解る範囲でやれば構わないよ。今日中にまとめておくから、明日以降取りに来てくれるかな」
「お手数おかけしまして、すいません」
「いや、本当は今日中に渡せるはずだったんだがね。面倒臭いだろうが、また足を運んで欲しい。じゃあ、行こうか」
 美燕が頷くと、金堂は出席簿を手に立ち上がった。
 
      弐
 
「随分面白そうなのが来たみてえだなぁ、おい」
 小柄で痩せ気味の身体に、不思議な精力を漲らせた男が、縁側に片あぐらをかいて座っている。片方の何も入っていない袖が、微風に揺れていた。
「面白そうな、ですか?」
 大きな身体で、正座したまま武人が少し首を傾げる。
 大半の襖や障子が開け放たれた屋敷の中を流れる風には、香の香りが混じっていた。
「とぼけんじゃねえよ」
 隻腕の男は雪駄を履いた足をぶらぶらさせながら、熱い番茶をすする。
「あいつの娘、もうきてんだろ?」
「美燕くんのことですか」
「そんな名前か。まだ年端もいかねえ娘っ子だろうに、そこそこ使えるみてえだなぁ」
「もう、お会いに?」
「うんにゃ。昨日、俺のところに伸されたチンピラ餓鬼が転がり込んできてな。そのやり口見てピンときたのよ」
 にやにやと嬉しそうな笑いを浮かべる男とは対照的に、武人は苦笑いを浮かべる。
「真面目そうな娘だったので、そういう話とは無縁かと思ってたのですがね。来た早々にですか」
「血は水よりも濃しっていうしな。あいつの娘だったら当然じゃねえか?」
「まあ、そうかもしれませんが」
「しかしまあ」
 言いつつ、男は中身が半分程になった茶碗を縁側に置き、お茶請けの羊羹を一切れ口に放り込む。
おめえあいつの餓鬼が、もう一端に使うようになりやがったか。時間の流れってのは早ぇもんだな。おめえらに出会ったのなんざ、ほんのつい最近みてえな気がするんだがなぁ」
 ず、とまた茶をすする。
 蝉の声と陽光を含んだ風が吹く。
「あの頃ぁ、楽しかったな。なあ、タケよ?」
「そうですね」
 ほろりと笑みを浮かべて、武人が頷く。
「爪先から毛ぇ一本一本の先まで、パンパンになるくれぇ充実してなよなぁ。……そういや、おめえとは何回やったっけな?」
「三度ほど」
「そんなもんか。いまんとこ、おめえにゃ一度も勝ててねえな」
「楽に勝てたことなど、一度もありませんが」
「あたりめえだ、馬鹿。これでも『蝮』(まむし)の二つ名もらった身だ。楽に勝てたなんて言われたら立場がねえ」
 苦笑い混じりに、ジロリと一つ横目で睨みつけておいて、空になった茶碗を差し出す。
「まあ、あいつはすこぅし毛色が違ってたがな」
「そうでしたね」
 時間という名の埃を随分と被ってしまった思い出を掘り起こし、武人は懐かしそうに笑った。
「剣鬼とは、ああいう者を言ったのでしょうね」
 新しく淹れた熱い番茶を、蝮に差し出す。
「鬼、か……そうだな。異質って意味じゃ当たってたかもな。ちょっとでも腕に覚えのある奴ぁ、軒並みあいつとやんのを嫌がったっけか」
「それは仕方ないでしょう。彼の闘いを一度でもみれば、もし向かい合ってしまったら、後は死闘しかないと解りますから。それを恐れる者は少なかったでしょうが、気軽に交われない相手だと皆思ってたでしょう。覚悟のいる勝負というのは、軽々に行えるものではありませんから」
「ん? なんかどっかの誰かは、わりと簡単に勝負を挑んでたような気がしたがなぁ」
 意地悪く笑みを含んだ蝮の視線に、武人は照れ笑いを浮かべて顎を掻いた。
「そう見えていただけですよ。なにより私も若かったですから。それに、彼を見た瞬間、解ったような気がしたのですよ。彼が何を求めているのか。その望みを……乾きをなんとかするのは自分の役目だと、そう思ったのです。何故、と言われても困りますが」
「と、言われてもな。なんでだよ、としか言いようがねえな」
「その時には、解っていたのかもしれませんね。でも今は……」
 ふと、武人の顔に哀しみの影が横切る。
「もう、それがなんだったのか、今の私には解らなくなってしまいました」
 しばらく、蝮が茶をすする音と蝉の声だけが聞こえた。
「……活人、か」
 唐突に、庭を眺めながら、蝮がボツリと口にする。
「およそ『武』というもんが生まれてから今日まで、連綿とくっついて回る思想っつーか、理想だな。本朝においては、剣豪の祖って言われる剣術者が『害になる人間を切り捨てて、他の人間を生かす』とか言ってたそうだが。殺人・活人ってなれば、理屈は通ってそうだが……なんていうんだかな、感触みてえなもんが違うんだよなぁ。うまく説明できねぇな。……まあ、『武』による活人ってもん自体、俺はただの理想に過ぎねえと、そう思ってたからな。俺自身、それなりに長ぇこと、いろんな奴とやってきた実感としてな」
 トン、と音を立てて茶碗を縁側に置く。
「おめえと会って、おめえとやって、おめえがあいつとやるのを見るまではよ」
 武人が目を向けると、蝮は背中を向けたまま続けた。
「あれから、俺はおめえに克つことだけ考えてきた。俺とて武の道を歩む者よ。おめえに打ち克つことで、もっと先に、先人も辿り着かなかったところに行けるかもしれねえと、そう思ったのよ。無論、今だってそう思ってんだ」
 怒りでも懇願でもない。
 何か強い気持ちが、哀切すら含んだそれは、聞く者の心に染み込むなにかだった。
「──申し訳ありません」
 言い訳もなく、ただ頭を下げる武人に、蝮は、ち、と舌を鳴らした。
「謝んじゃねえ。解ってんだよ、今のおめえにゃ俺が克つべき『何か』が無えってな。今のおめえに克っても意味がねえ。だからこうしておめえが元に戻んのを待ってんじゃねえか。……何年だって待つぜ、俺ぁよ」
 夏特有の爽やかな風が、さあっと吹き抜けた。
「あれは」
 蝉の声が一段落した隙間に、武人が呟き、蝮が振り向く。
 武人の視線は開け放たれた屋敷の奥、仏間の方を見つめていた。
「幸せだったでしょうか」
 蝮は顔をしかめる。
「知るか。オレに訊くんじゃねえよ。おめえがくたばったらあの世で本人に訊け」
 ぶっきらぼうな老人の言い様に、武人は困ったような笑いを浮かべた。
 庭のどこかで、また蝉が鳴き始める。
「時に──てめえらの餓鬼どもの話だがよ」
 蝉の声に耳を傾けていたように見えた蝮が、縁側から庭へ降りながら言う。
「餓鬼のいねえ俺がいうのもなんだがな。おめえらが何を思おうと、何を企もうと、結局はなるようにしかならねえと思うぜ? ま、黙ってみてらんねえってのもわからなくねえがよ」
「もう、お帰りですか?」
 蝮の言葉には応えず、武人は逆に問い返した。
「おう。診療所も開けねえとなんねえからな。ほいじゃごっそさん、またくるぜ」
 あっさりと言って行きかけた蝮が、ふと立ち止まり、肩越しに武人を振り返った。
「そういやぁな」
 茶碗を片付けかけていた武人は手を止め、顔を上げた。
「あの娘は、おめえの話をしてる時が、一番綺麗だったぜ」
 さらりと口にして、さっさと去っていく蝮の背中に、武人は黙って頭を下げた。
 薄く立ち上る線香の煙。その向こうで、写真の女性はただ優しく微笑んでいる。
 
       **********
 
 美燕の通っていた学校も木造だったが、規模がまったく違うし、なにより建物内の気配は桁違いに多い。
 それなりに手入れはされているらしい木造校舎の廊下を、金堂の後ろについて歩きながら、美燕は少し落ち着かない気分を味わっていた。
 別に緊張しているのではないが、どちらかといえば気配に敏感な質なので、大勢の気配に慣れないのだ。
 やがて一番奥まった場所の教室に辿り着く。教室内の賑やかなやりとりが、入り口の戸越に聞こえてくる。
「じゃ、いいかな?」
 声をかけてくる金堂に返事を返すと、金堂は頷いて勢いよく戸を開けた。
「おはよう! ホームルーム始めるぞー」
 金堂の後について教室に入ると、あ、という聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 不審に思って、美燕がそちらに目を向けると、三十以上の机が並ぶ最後列の席に、見覚えのある眼鏡の少女がいた。
「え〜〜、一緒に勉強するのは夏休みが開けてからになるが、転入生の上泉美燕くんだ。休み明けにまた改めて紹介することになるとは思うが」
 金堂が美燕を振り向くと、美燕は頷いて一歩前に出た。
「上泉です。今後ともよろしくお願いします」
 ぴしりと背筋の通った礼をして顔を上げると、葉弥乃が満面の笑みで、中途半端に上げた手をニギニギしていた。
 思わず美燕が笑み溢れると、葉弥乃がニギニギを止めて窓際の方を指さす。
 指先を辿ると、そこにも見知った顔があった。つまらなそうに窓の外を眺めている、窓際最後列の席は士郎だった。
 その無言のやりとりを見た金堂は、興味深そうに葉弥乃へ尋ねた。
「なんだ、一ノ瀬は知り合いか?」
「もうばっちりステディですよ!」
「そういえば、上泉くんは諏訪さんのところに下宿だったな。それならどうせだから、上泉くんの事はお前に任せようか」
「OKで〜〜す」
 頭の上に両手で大きく丸を作る葉弥乃に苦笑いを浮かべ、簡単に連絡事項を伝え終わると、生徒達に体育館へ移動するように指示した金堂は一足先に教室を出て行った。
 椅子を鳴らしてそれぞれに立ち上がるクラスメート達の間をすり抜けて、葉弥乃が軽い足取りで美燕のところまでやってくる。
「やっぱり同じクラスになったね。これって運命って奴?」
「そうかもしれませんね」
 溢れるような笑顔で両手を取ってくる葉弥乃に、美燕も屈託無く笑顔を返す。
「そういえば、今日は終業式だけなんだから、無理に出なくても良かったんじゃ?」
「担任の先生にも言われたのですが、部屋にいてもやることがありませんから……」
「そっか、この街に来たばっかりだもんね。時間潰す場所も知らないか。よし、学校終わったら、いろんな場所案内してあげる! 予定は無いんでしょ?」
「葉弥乃……さえ良ければ、お願いします」
 無意識にさん付けしてしまいそうになったところで軽く睨まれ、咄嗟に言い換える。
 美燕はどこかしら厳格というか、やや近寄りがたい雰囲気はあるものの、凛とした佇まいにはえも言われぬ存在感がある。
 平素であればそれなりに同級生の興味を引いただろうが、生徒のほとんどは目の前に迫った夏休みに気がいってしまっているようで、わざわざ美燕のところまでやってきて話をしようという者はいないようだった。
 やがて、終業式は粛々と行われ、どこの学校にもありがちな校長の薫陶なのか諸注意なのか分かり難い長話が終わると、また簡単なホームルームがあり、放課後になった。
「部活には、顔を出さなくて良いのですか?」
 下校する生徒達で混雑し始めた玄関で、靴を履き替える葉弥乃に美燕が訊いた。
「うん。先週夏休み前の特大号出したばっかりだしね。後は登校日に発行する特別号の準備まで、まだ少し暇があるから。ぼちぼち後輩にも任せていかないとダメだしね」
 開放感に満ちた挨拶を投げていく同級生に、愛想良く返しながら葉弥乃は言った。
「どうも、お待たせしました」
 そこへ、登校時よりもかなり荷物の増えた静流が合流する。
「いやいや、ぐっどたいみんぐよぅ」
 三人で連れ立ち校門を出たところで、美燕は違和感に気付いて立ち止まった。
「あの、そういえば、士郎さんは待たなくていいのですか?」
「士郎? ……ああ、そっか」
 美燕に訊かれて、気がついたわけでは無さそうだが、葉弥乃と静流は顔を見合わせた。
「お兄ちゃんはですね」
「学校が終わると、どっか消えるのよ、あいつ」
「消える?」
「葉弥乃さんの話も合わせると、もう何年も前からみたいなんですけどね。学校が終わるとすぐにいなくなって、どこにいるのかさっぱり判らないんです。学校を出て行くのを見たって話は聞きますし、部活にも入ってないはずですから、少なくとも学校にはいないみたいです。日が暮れる頃には帰ってくるんですが」
「何度か尾行しようとしたんだけどね、いつも撒かれちゃうのよ。別に悪い連中と付き合ってるわけでもなさそうだし、今のところ気にしなくてもいいかな、と思ってるんだけどね」
「び、尾行ですか」
「わたしは、うちに帰ってお父さんにシゴかれるのがイヤなんだと思いますけど」
 妙に怪しげな単語が出てきたことに目を白黒させていると、静流が笑って付け足す。
「ま、あいつのことは、そういうわけだから心配しなくていいよ。それより、お昼ご飯どうする?」
「今朝はわたしが当番だったんで、お昼の仕込みもしておいたんです。葉弥乃さんの分も用意しておきましたよ」
「ほんと? 静流ちゃんの作るご飯、美味しいからねぇ。お邪魔しようかな。じゃあ、ご飯食べたら出かけましょう。みーちゃん、それでいい?」
「はい、お任せします」
「おでかけですか?」
「うん、みーちゃんに街の案内してあげようと思ってね。静流ちゃんも一緒にどう?」
「喜んでご一緒します。最近おでかけしてませんでしたから」
「決定ね。さ、急いで帰って、ご飯にしましょう」
 
      **********
 
 ぎりり、と弓を絞るように、筋肉が伸縮する。
 限界までの酷使に握力が耐えきれず、どすんと大きな石が両手からこぼれ落ちる。
 流れ落ちる汗を拭いながらぎこちなく調息すると、ほとんど休みを取らずに次の鍛錬を始める。
 端から見れば、それは拷問じみた鍛錬だった。
 何がそこまでさせるのかは解らないが、そこに悲壮感は無く、ただ強い意志と燠火に似た静かな情熱だけがあった。
 それは、荒い息に滴る汗、地面を踏みしめる音や風切り音に包まれ、ただひたすらに黙々と行われていた。
 
        参
 
 なお。
 特徴ある綺麗な鳴き声に美燕がその主を捜すと、真っ白い日本猫が、すぐ隣に座りこんで、縦に割れた金色の瞳で美燕を見上げていた。
 まるでその姿勢で生まれてきたように、その姿は自然で美しい。なぜか見た瞬間、その猫が雌だと判った。
 美燕達は学校から帰宅し、そろって食事の用意を済ませた後、行方不明の士郎と、所用で留守にすると書き置きがあった武人を除いた三人で食卓を囲んでいるところだった。
 自分が今食べているチーズリゾットが目当てかと美燕は思ったが、その猫の双眸は、はっきりと美燕の顔に注がれていた。
 白描は、美燕の心の奥底まで見通すような、不思議な目で見つめてくる。
 美燕も、その得体の知れない凝視から目をそらせずに、しばしの間見つめ合う。
 ふと白描が目をつむり、食卓を向くとその場にしゃがみ込んだ。
「あ、帰ってきたんだ」
 食卓の右斜め向かい側で、一人と一匹の見つめ合いに気付いた静流が、食卓の下から覗き込んで言う。
「こちらの、猫ですか?」
 思わず、お知り合いですかと訊きそうになりながら美燕が問う。
「はい、蘭(らん)っていうんですよ」
 答えつつ静流は立ち上がり、小走りに台所へ向かった。
「ちょこちょこいなくなるんだよね。ここしばらく見てなかったんだけど。女の子なのにフーテンぽいのよ」
 美燕の左斜め向かいで自分の分の昼食をぱくぱくと口に運んでいた葉弥乃が補足する。
「今後こちらでお世話になる美燕です。よろしくお願いします」
 威風堂々としたその態度に恐れ入ったわけでもないだろうが、美燕は丁寧な言葉で蘭に話しかけた。どうも、そんな気になってしまう妙な威厳のある猫なのだ。
 蘭は閉じた目を少し開いて、返事するように喉の奥で小さく鳴いただけで、またすぐに目を閉じてしまった。
「なんでか知らないけど、士郎に一番懐いてるんだよね」
「お兄ちゃんに拾われたのを覚えてるんじゃないですか?」
 新聞と猫用の器を持った静流が戻ってきた。
 食卓の横に新聞紙を引いて器を置き、戸棚から乾燥食(カリカリ)と猫缶を出して盛りつけ、もう一つの器に水を注いでやる。
 準備が終わってから蘭はゆっくりと立ち上がり、ガツガツとしたところが一切ない悠々とした足取りで食事に近づくと、静かに食べ始めた。
 それは小さいながらも、肉食獣の仕草だった。
「士郎さんが、ですか?」
「意外?」
「はい」
 きっぱりと答える。
「そうかなー? ああいう少しヒネたところのある奴って、案外動物好きが多いと思うよ。まあ、動物好きだからって、良い人とは限らないんだけどね」
 蘭がカリカリを噛み砕く乾いた音が聞こえてくる。
「でも、お兄ちゃんが蘭のこと可愛がってるの、ほとんど見たことありませんよ?」
 そんな調子で談笑しつつ食事を終えた三人は、先に食事を終えて庭先の木陰で一休みしていた蘭に一声かけ、連れだって出掛けた。
 
 まずは、制服を注文しておきたいという美燕の要望に応えて、最初に学校指定の店で採寸を済ませた三人は、駅前から続く通り沿いにあるデパートに足を運んだ。
 駅前からはややというか、かなり離れたそのデパートは、地下階を含めて四フロアあり、高さはないが床面積がかなり広く、意外に規模の大きい店だった。
 地下階は食品テナント中心のフロア。一階は生鮮食品売り場。二階は服や生活雑貨で、三階は電気屋と、趣味色の強いテナントで構成されている。
「欲しいものがあるけど、売ってるところが判らないって時は、ここにくれば大体みつかると思うよ」
 というのは葉弥乃の弁。
「もっとマニアックなものが欲しい時とか、慣れてきたら商店街の方がいいよ。仲良くなったら、ここよりもサービスいいし」
 次に案内されたのは、その商店街。
 デパートのあった通りの隣の通りが昔からの商店街とのことで、行ってみると確かに道は多少狭いものの、雑多な店が多く、活気の溢れる場所がそこにあった。
 その外れには、昨日葉弥乃に案内された喫茶店もある。
「昨日、駅に着いた時にも感じたのですが……」
 商店街の入り口に差しかかり、駅前の通りよりも整然さと開放感はないものの、ずっと活気に溢れた雑多な店々を眺めながら、美燕がどちらにともなく尋ねた。
「この街は、駅前が少し寂しくありませんか?」
 普通は、駅前がそれなりに賑やかなものだと思うが、と美燕が付け加えると、葉弥乃が答えた。
「そりゃあ、こっちの方が歴史があるからじゃないかな」
 葉弥乃の説明によれば、この街は元々城下町で、商店街の通りは城の側まで続く大通りが前身なのだそうだ。
 新しく発展した街ならいざ知らず、それなりに歴史が古い街なので、鉄道が引かれる頃には街が出来上がっていたらしい。
 用地買収や経路の関係で、町外れに駅が建てられたとのこと。
「一応、計画としては駅前通を新しく整備して、商売の中心にしようとしてたらしいけど、この辺は良くも悪くも田舎で、ちょっと閉鎖的だし。結局、慣れた方に落ち着いたってところかな。うまいこと共存できてるみたいだしね」
 地方の城下町は、大体どこも同じじゃない? と付け加える。
 その説明で、商店街通りの古風な印象と、独特の美しさの正体が美燕には解った。
 車など存在しない古くから整えられた街だからこそ、徒歩で歩くことにより、その美しさは引き立つ。
「詳しいですね」
「んー? 小学生の頃、社会の授業で調べたからね」
 まんざらでもなく、葉弥乃は微笑んだ。
「じゃあ、てきとーに冷やかして歩こうか」
 デパートの時とは違い、勝手知ったる何とやらで、葉弥乃は意気揚々と歩き出した。
 どうも葉弥乃は商店街でもかなり知られた顔らしく、店先で仕事をしている老若男女、ほぼ全員がなんらかの好意的反応を見せた。
 それは静流も同じで、葉弥乃のように陽気な返事をしないが、それでも丁寧に会釈を返していた。
「静流さんも、良く知られているようですね?」
「あたしは、お父さんが有名人ですし。葉弥乃さんともよく歩きますから」
 はにかみ混じりの可愛らしい笑顔で、美燕にはそれだけが理由でないことが解る。
 実際、葉弥乃は案内人としてこれ以上はなく有能だった。
 表通りの店は言うに及ばず、支道の隠れた店や裏道の店。果ては露店まで総てを把握しているようだった。
「ここ、ちょっとよっていこう」
 葉弥乃が示した店は、何本目かの支道を入ってすぐのところにあった。
 それほど大きくはない店だが、外から見える商品から察するに、セレクトショップの類のようだ。看板には形容しがたい、丸いというかなんというか表現に困る書体で「ぶらうに〜」と表記されている。
 葉弥乃と静流の後に続いて入店した美燕は、やや商品が多めで雑多な印象はあるものの、掃除と整理の行き届いた清潔感ある店内に好感を持った。
 店は縦長の構造らしく、やや奥まった辺りにカウンター兼レジがあり、その向こうに座っていた長身で華やかな雰囲気の女性が、葉弥乃達を見つけて声をかけてきた。
「おや、葉弥乃ちゃんに静流ちゃん。いらっしゃい、今日は何をお探し?」
「こんちは、ムラさん。今日は賑やかしなの、ごめんね。今度うちのクラスに来た転校生に、このお店紹介したくて。みーちゃん、こちら村雨さん。ここの店長さんだよ」
 そう言って葉弥乃が美燕を示すと、その女性は美燕に目を向け、客商売らしい人好きのする笑顔を見せた。柔らかい香水の匂いがほのかに鼻をくすぐり、うっすらとした化粧に健康的な色気が漂う。
「格好いい子ね。初めまして」
「は、初めまして、上泉です」
 あまりこういう女性然とした人物に知り合いがいない美燕は、緊張気味に頭を下げた。
「なにか買い物することがあったら、よろしくね、ムラさん」
「もちろん。葉弥乃ちゃんがわざわざ紹介するような友達だもの、サービスするわよ」
 ゆっくり見ていってね、という村雨の言葉に甘えて、三人で店内を物色する。
 ぶらうに〜で扱っているのは服だけでなく、小物雑貨の品揃えもそれなりに豊富だった。村雨がニコニコしながら肘をついている硝子張りのカウンターには、アクセサリーの類が陳列されている。
 田舎暮らしが長かった美燕は、しばし物珍しさから意外と熱心に店内を見ていたが、ふと表情を暗くした。
「どうかしたの、みーちゃん?」
 いち早く美燕の変化に気付いた葉弥乃が、気遣いげに声をかける。
 美燕はそれに首を横に振って応え、そろそろ出ませんか、と二人を促した。
 急な美燕の態度の変化を多少いぶかしく感じたものの、葉弥乃達はそれに従って村雨に声をかけ、店を後にした。
 すでにほとんどの案内を終えていた三人は、そのまま商店街通りを外れた一つ隣の通り、川沿いの道を諏訪邸に向かって歩く。
 ガードレールの向こう、道路から一メートル半ほど下を流れる川は、幅が四メートル程度だ。かなり古い時代に整備されたものらしく、苔むした石垣で護岸されていて、昔はよく利用されていたのだろう、川端に降りる石段があちこちにあった。
「普通は」
 黙然と川沿いに歩いていた美燕が、ふと口を開く。
「ん、なに?」
 突然態度が変わった美燕を気にしていたのだろう、前を歩いていた葉弥乃が、少し大げさに振り返った。
「……すいません。なんでも、ありません」
 視線を落としてすぐに謝る美燕に、かく、と葉弥乃の肩がコケる。
「なによう、気になるじゃない〜〜。なによう、なになに?」
「…………その」
 黙り込もうとした美燕だったが、結局は葉弥乃の視線の圧力に耐えかねて、渋々ながらも口にする。
「普通──普通の女の子というのは、ああいう店にいったら喜ぶものなのですよね?」
「は?」
 予想外の質問だったのか、思わず聞き返したが、美燕からはそれ以上の言葉は出てこない。葉弥乃は困ったように人差し指でこめかみを掻く。
「ん〜〜、人による、んじゃないかな。ひょっとして、気に入らなかった?」
「いえ、そういうわけでは……ないんです。すいません」
 もう一度謝ったきり、美燕はぴたりと黙り込んでしまった。
 気に入らなかったわけではない。ただ、あの綺麗な服や装飾品を、自分が身につける可能性のあるものとして、まったく見られない自分に気がついただけだ。
 それがとても、葉弥乃達に対して失礼な気が美燕にはしたのだった。
 ──本当に、自分は変われるのだろうか。
 考えれば考えるほど、どんどん気持ちが重くなっていくのを止められない。
 身体の一部のように持ち歩いている刀袋を握る手に、自然と力がこもる。
 そんな美燕の様子を見た葉弥乃が弱り切った顔で静流に視線を振る。静流も似たような表情をしていたが、取り繕うように笑った。
「お茶してから、帰りましょうか」
 太陽が、ほんの少し赤みを増し始めている。
 
       ********** 
 
「それでは、どうしても立ち会ってはいただけないと?」
「その通りです」
 開け放たれた障子から庭が一望できる客間で、分厚い一枚板の卓を挟んで向き合っていた二人の男、その片方である武人が頷く。
「そうですか……」
 武人の答えに軽く眼を細めたのは、座った状態でも明らかに武人より背が高い偉丈夫だった。そのスーツに包まれた厚みのある身体から発散する気配が、重く、濃い。
 所用を終えて帰宅した武人を待ち構えていた男である。直接顔を合わせなければ相手をしてくれないと知っての待ち伏せだったのだろう。なんの前触れも無しだった。
 武人にとっては日常茶飯事とは言えなくも、初めてではなかったし、多分最後でもないだろう。
 男の年齢は三十前後くらいだろうか。胸板は厚く、顎はがっしりとしていて、半袖から覗く腕が太い。餃子のように潰れた耳は、明らかに寝技のある格闘技を長く続けている証拠だった。
「では、貴方が私との勝負から逃げた、と触れ回っても?」
「御随意に」
 あからさまな挑発にもまったく乗ってこない武人に、男ははっきりと苛立ちを見せた。
「……では、そのようにさせて頂きます。『闘神』の名は名ばかりだったということですね。本当に残念ですよ」
「なんでぇ、客が来てんのか」
 唐突に庭の方から伝法な口調で声がかかり、すぐに大きな魚籠(びく)を下げた隻腕の男が姿を見せたと思うと、すぐに男の姿を見つけて片眉を吊り上げた。
「おう、面白げなのがいるじゃねぇか。どしたい、余所もんのあんちゃん。弟子入りか、道場破りか?」
「老先生」
 話がややこしい方向に行きそうなのを感じた武人が、困った顔で蝮に声をかける。
 だが時既に遅く、男の眉間には不愉快そうな皺がはっきりと刻まれた。
「どちらでもありません。その名前がどれほどのものか、多少なりとも見たかったのですがね。帰ったら『闘神恐れるに足りず』と周りには言わせて頂くことにします」
「ははン、兄ちゃんフられたか。ま、気持ちは解るが、止めておいたほうがいいぜ」
 蝮に鼻で笑われ、男の眉間の皺が一層深まる。
「どうしてです?」
「少しでもこいつを知ってる奴ぁそんな戯言に耳は貸さねえだろうし、なにより俺が面白くねえ」
 にいっ、と蝮はあまり質の良くない笑みを浮かべた。
「手ぶらで帰んのもなんだろうしな。俺が相手してやるよ」
「あんたが? あんたみたいなジジイに勝って、オレになんの得があるんだ?」
 怒りが一線を越えたのだろう、男の口調が粗暴なものに変わった。おそらくこちらの方が本来の性格なのだろう。
「ジジイと言われるほど年寄りじゃねえと思ってんだがな。タケ(こいつ)のこと知ってんなら、蝮って名前に聞き覚えはねえか?」
「知らねえな」
「そうかい。帰ったら年寄りに訊いてみな、誰か知ってんだろ。で、やんのか、やらねえのか」
「…………」
「こんな年寄りが怖えかい、坊主?」
「死んでも知らねえぞ」
「お互い様さ」
 ドスを利かせた男の台詞に、蝮は飄々と肩をすくめた。
 二人のやり取りを横で見ていた武人が、片手で顔を押さえて天井を仰いだ。
「老先生……」
「てことだからよ、ちいと場所借りるぜ。それとこいつは土産だ」
 うきうきとそういいながら、口から笹の葉がはみ出た魚籠を縁側に置くと、意外に重たい音がして、中身がびちびちと跳ねた。
「捕ってきたばっかの鮎だ。終わったら一杯やろうぜ」
「……くれぐれも、お手柔らかにお願いしますよ?」
「解ってる解ってる」
 困り果てた様子の武人に、蝮がいい加減に頷く。
 明らかに自分を軽んじている蝮の態度に、男はなにかを言いたげにしていたが、どうせすぐに解消できると判断したのか、案外大人しく黙って稽古場へとついてくる。
 誰もいない、傾き始めた夏の日差しが差し込む中で、蝮と男は向き合った。
 両者の身長差は大体頭二つ。体重差は目算で倍近いだろう。普通に考えたら、蝮に勝ち目があるようには見えなかった。
「着替えなくて大丈夫かい?」
 やってきたままの黒に近い紺色の作務衣姿で、蝮は男に訊いた。
 男は上着を脱いでネクタイを外し、袖をめくり上げつつ答える。
「必要ねえよ。で、どういうルールにすんだよ?」
「ルール? なんだ、案外眠てえこと言いやがんだな。なんでもいい、どっちかが動けなくなったらでいいだろうがよ。ほれ、いつでもいいからかかってきな」
 棒立ちのまま、ひらひらと手を振る老人に、男の額に血管が浮き出た。
 それでもいきなり殴りかかったりせずに、慎重に間合いを取った男は、両手を目の前に構え、体重をやや前にかけた前傾姿勢。相手が何か攻撃を仕掛けてきたら、すぐさま組み付いて寝技に持ち込もうという構えだった。
 対する蝮は、にやにや笑いを浮かべ棒立ちのまま。構える気配もない。
 いつまでも構えない蝮に最初は警戒していた男だったが、牽制を繰り返しても身動ぎ一つしない老人に焦れたか、思い切って低い体勢から組み付きにいった。
 その巨体にしてはかなり素早い動きだった。
 蝮は顎を引いて受け身はとったものの、無抵抗のままあっさりと仰向けにひっくり返され、みぞおちの上にのし掛かられる。
 マウントポジションとも呼ばれる、男にとって絶対優位な体勢だ。
 さらには男の膝が蝮の片腕の上に乗って反撃の動きを封じており、一見その絶対的な体重差を跳ね返すのは不可能に思われた。
「どうだい爺さん?」
 勝ち誇った男が、組み敷いた蝮に言った。
「どうってのは?」
 蝮のにやにや笑いは微塵も崩れていない。
 そのあまりに余裕な態度に、男は怒りと困惑の混じった複雑な顔をした。
「あんた、この状態から逃げられると思ってんのか?」
「そりゃ、やってみねえとな。少なくとも、俺はこうしてまだぴんぴんしてるぜ」
「死んでも恨むなよ」
 言い捨てた男が、蝮の顔面に拳を振らせようと、小さく速い動作で拳を引いた。
 そこで初めて蝮の顔から笑みが消えた。
「おめえ、この街向きじゃねえよ」
 いつの間にか蝮の手は男の太股へひたりと添えられていた。
 ぶち。
「ぎゃあああぁぁ!?」
 なにかが千切れる小さな音に続いて、男の絶叫が上がり、蝮の上に乗っていた腰が僅かに浮いた。
 その隙間へ、蝮の手がまさしく毒蛇のように滑り込んだ。
「……!?」
 唐突に悲鳴が途切れると、男の目がくるんと裏返り、股間を押さえたままの巨体が音を立てて横倒しになった。
「長えこと、くっつきすぎだ」
 その横で、よっこらしょ、と老人が立ち上がる。
「穏便に、とお願いしたのですが」
 いつの間にか救急箱を持って稽古場の端で立ち合いを見守っていた武人が、盛大に溜息をつきつつ男の様子を見に近づいてきた。
「穏便だろうが。ちゃんとカタタマ残してやったんだからよ」
 手にこびりついた血を男のシャツで拭っていた蝮が、大笑いしながら言う。
 男は寒さに耐えるような姿勢で身体を丸め、痙攣しつつ口の端から泡を吹いていた。
 左の太股が服ごと抉れ、かなり派手に流血している。まるで獣に噛みちぎられたような傷跡だ。
「相変わらず化け物じみた握力ですね」
「おめえに化け物呼ばわりたあ、心外極まるな」
「一応、病院に運びましょう。鮎はとりあえずお預けです」
「なんだと? 救急車なりタクシーなり呼んで、放り込んでおけばいいじゃねえか」
「そういうわけにもいきませんよ」
 ち、と蝮は舌を鳴らした。
「相変わらすお人好しな野郎だな」
「有名人だから、というわけはありませんが、そう邪険にもできないでしょう」
「こいつ、有名人なのか?」
「プロの格闘家ですよ。名刺をもらいました」
「ははあ、どうりで動きにアクがねえわけだ。動きが南米辺りの柔術家くせえのに、えげつなさが足りねえと思ったよ」
「彼には災難でしたね。とにかく、老先生も一緒に来て下さい」
「しょうがねえな、わかったよ」
 
    **********
 
 紅くなり始めた空で、暮れガラスが鳴いている。
「……なんで誰もいないんだ?」
 門を潜った士郎は、そろそろ暗くなり始めるというのに、人の気配がない屋敷を眺めて呟いた。
 にい。
 特徴的な鳴き声がして、なにやら暖かくて柔らかいものが士郎の脛をこする。
「なんだ、帰って来てたのか」
 尻尾をピンと立ててまとわりついてくる蘭を見つめる士郎の表情が柔らかく変わる。
「風呂でも沸かすかな」
 歩き出した士郎の足を、蘭が追いかけていった。
 
**********
 
「諏訪様の稽古場は、なぜ使われていないのですか?」
 昨日も葉弥乃に案内された喫茶店で、一息ついて多少は気が落ち着いたらしい美燕がどちらにともなく尋ねた。今日はアイスコーヒーが美燕の前に置かれている。
「あれだけ立派な稽古場を遊ばせておくのは、勿体ないと思うのですが」
「わたしもそう思うんですけど。お父さん自身には、いまのところ稽古場を再開する気はないみたいです。来年からの入居者に開放するとは言ってます」
 カフェオレの氷をストローで突きながら、静流が答えた。
「再開、ということは、以前は稽古生がいたのですね?」
「はい、その……お母さんがいた頃は」
「……そうですか」
 どうやらなにか複雑な事情がありそうなのを察し、美燕はそれ以上その話題には触れないことにした。
 その時ふと、今朝士郎と交わしたやり取りを思い出す。
「あの、士郎さんのことなのですが」
「ん? みーちゃん、あいつのこと気になるの?」
「はい」
「ん〜〜そうかそうか。まあちょっと無愛想だけど、悪い奴じゃないよ。顔も悪くはないし、ぎりぎりオススメできるかな。あ、一応言っておくけど、あたしとあいつは何もないからね? いっつも一緒にいるからそういう仲だと思ってる人も多いみたいだけど。あいつとはオムツしてる頃からの付き合いだし、異性ってーよりも、姉弟って感じだからね。面倒臭いから、周りにはいちいち説明してないけど。そういうことにしておけば、うるさい虫もあんまり近づいてこないしね」
 突然機関銃のように話し出した葉弥乃に、美燕は目を白黒させたが、すぐに葉弥乃がなにを言わんとしているか察すると、慌てて否定した。
「い、いえ、そういうことではなくてですね!」
 今朝の稽古場でのやり取りを二人に話し、その上で質問する。
「士郎さんは、武術が嫌いなのですか?」
 問われた葉弥乃と静流は、顔を見合わせた。
「……今は嫌いみたいですね」
「今は?」
「ん〜〜、昔はね、武術馬鹿だったんだよ、あれでも」
「それはどういう」
 らしくもなく、性急で強い口調で重ねる美燕。おそらく後継者としての立場を追われた自分と、その逆の環境である士郎を無意識に比べてしまっているのだろう。
「この話は、また今度にしましょうか。そろそろ帰って夕飯の支度もしないといけませんし」
 熱くなりかけた美燕を、静流がやんわりと押しとどめる。
 そこですぐに冷静に戻った美燕は、潔く引き下がる。これからしばらく一つ屋根の下で暮らしていれば、いずれ知ることもあるだろうと思ったからだ。
 そう、時間はあるのだ。
 それこそ飽くほどに。
 胸の奥に生まれたわだかまりも、そのうち消えるだろう、きっと。
 店内から見える日差しは、もう随分赤さを増していた。
 
       四
 
 夏休み初日。
 朝食を済ませた美燕は、担任の金堂に言われた課題を受け取るため、昨日とそう変わらない時間に諏訪邸を出た。
 昨日帰り際に金堂から、できれば顧問をしている部活が始まる前か、終わった後に来てくれると助かると言われていた。練習の開始は平日の授業開始と同じくらいの時間ということだったので、まだ職員室にいるだろう。
 学校に着いた美燕は、スリッパに履き替えて職員室に向かった。
「お、来たね」
 職員室で取り次ぎを頼んでいると、色あせた紺色の剣道着で机に向かっていた金堂が、美燕を見つけて手招いた。
 夏休みに入っても、さほど人が減ったとも見えない職員室の机を抜けて金堂のところまで行くと、大学ノート数冊分ほどの厚みのある、わら半紙の束を差し出された。
「もしやってない範囲があったら、一ノ瀬に訊くといい。あれでも学年トップクラスの成績の持ち主だからね。教科ごとの担任もまだ判らないだろうしね」
 どうしてもできないものはとばして構わないよ、と言いつつ、金堂は腰を上げた。
 昨日のネクタイ姿と違い、剣道着の金堂は長年武道を歩んできた者特有の雰囲気を発散していた。剥き出しになっている肘から手首までが太く、縄がうねるように筋肉が浮き出している。
「せっかく学校まで来たんだから、少しうちの部を見学していくかい?」
 どちらかといえば男臭い顔に、優しげな笑顔を浮かべて尋ねる。
「清澄さんから仕込まれている君から見れば、まだまだ未熟かも知れないが、うちの生徒もそこそこは使えると思っているんだ。もちろん、この後に予定が無ければだけど、どうかな?」
 その申し出に一瞬身を固めた美燕だったが、少し思うところもあって、それを受けることにした。
 承諾を伝えると、金堂は年齢によらない子供のような笑顔を浮かべた。そのまま案内されたプレハブの剣道場は、諏訪家の稽古場に比べると少し手狭だった。
 それでも、柔道部などとの共同使用ではなく、専用の場所らしいので、充分ではあるのだろう。
 すでに二十人以上の部員が準備運動を開始しており、金堂が姿を見せると、皆身を正して気合いの入った挨拶をする。
 美燕は道場の入り口で一礼してから、金堂の後について道場に入り、練習の邪魔にならないように隅の方へするすると進みいり、刀袋を身体の右側に置くと、そこにぴたりと正座する。
 見慣れない転校生の姿に、部員の大半はなにがしかの興味を持ったようだが、すぐに金堂の号令で練習が始まったので、そちらに集中する。
 それから約一時間ほど、美燕はじっとその練習風景を見つめていた。
 金堂が言うだけあって、部員の練度は高かった。気合いの乗りも良いし、厳しい練習にもよくついてきている。顧問である金堂の指導も的確なものだ。
「どうかな、うちの教え子達は?」
 指導していた生徒に反復練習を命じて、金堂が美燕のところにやってきて訊いた。
「はい、よく鍛えられていると思います」
 乱取り稽古の一団を眺めていた美燕は、金堂に視線を移して答える。世辞ではない。
「参加してみるかい? 君にとっては物足りないかもしれないが、うちの教え子には良い勉強になると思うんだが」
 金堂の言葉には皮肉や謙遜など無く、ただ事実を口にしている無造作さがあった。
 どうやら、美燕の立ち居振る舞いから、ある程度その実力に見当がついているらしい。
「……ご迷惑でなければ」
 
 つい先程まで、練習の喧噪に溢れていた道場内に、今はざわめきが流れていた。
 美燕はそれを聞くとも無しに聞きながら、貸してもらった防具を身につけていく。
 実家の鍛錬で防具は使用したことがないが、一応一通りの身につけ方は知っていた。
 淀みのない動作で準備を終えると、これも貸してもらった竹刀を手に立ち上がり、感触を確かめるように数回振る。普段使い慣れている木刀に比べ、長さも重さも違うことにやや違和感を感じるが、それほど問題にはならないだろう。
 美燕の準備が終わるのを確認してから、金堂は手を叩いて部員達の気を引く。
「彼女は私の恩師の娘さんで、古流剣術の使い手でもある。剣道とは少し違うが、実力は折り紙付きだ。誰かやってみないか? 良い勉強になると思うぞ」
 とても嬉しそうな態度で金堂が一同を見回すと、防具姿の部員が一人進み出る。
「先生、わたしが……」
 それは、さきほど美燕が眺めていた乱取りで受け手を勤めていた人物だ。面のせいで顔は見えないが、声からすると女子のようだ。
「お、須藤(すどう)か。上泉くん、須藤は君と同じ三年生で、全国出場経験もある、うち一番の女傑だ。どうだい?」
 もともと選べるほど相手を知らないし、その気も美燕には無い。
「よろしくお願いします」
 美燕が頭を下げると、須藤も礼を返した。
 興味津々な様子の部員達が見守る中、道場の真ん中で美燕と須藤は向き合った。
 ちらほらと、須藤を応援する声が後輩達から上がる。
「始め!」
 審判を務める金堂の声が上がるやいなや、先手必勝とばかりに、須藤がなかなか鋭い踏み込みで前に出る。
「なっ?!」
 須藤が驚きの声を漏らして畳を踏む音と、美燕の竹刀がその小手を打つ軽い音が、ほぼ同時に聞こえた。
 道場内が静まり返り、金堂の片手が上がる。
「小手有り、一本!」
 ざわ、と部員達がざわめく。
 部内屈指の実力者である須藤があっさり負けたことに対する驚きと、今の一瞬に見せた美燕の動きに対する困惑の反応だ。
 美燕の動きはそれほど速かったわけでもないし、特別なことをしたわけでもない。
 須藤が踏み込む動作を見せた瞬間に美燕が踏み込み、須藤が振り上げようとした竹刀を自分の竹刀で押さえただけ。それも、ごく軽い動作に見えた。
 だがそれで完全に拍子とバランスを崩されて死に体になった須藤の小手へ、美燕の竹刀が滑った。その滑っただけに見えた一撃は、小手に触れた瞬間、はっきりと打撃音を響かせる。
 部員達には、それらがいかに異常なことかはっきりと判った。
 そもそもの動きの理屈自体が自分たちと違う、と。
 動きと動きの繋ぎ目にごくあっさりと割り込み、加速する距離がほとんどない状況で打撃力を産みだしたのだ。
 速いというより早い。それはまるで魔法のように部員達には感じられた。
「ほ〜〜……」
 静まり返る道場の中で、金堂だけが面白そうに顎を撫でた。
「いや、まさかここまでとは」
「もう一度、もう一度お願いします!」
 呆然と突っ立っていた須藤は、金堂の声で我に帰ったか、慌てた様子で言った。その声の調子から、今の勝負に納得していないのが感じられる。
「上泉くん、いいかな?」
 美燕が頷く。
 須藤が気を取り直すのを待ち、仕切り直す。
「始め!」
 今度の美燕は速かった。
 まるで音のない雷のような速さで間合いを詰める。先の須藤に比べて、数段速い。
 ばん!
 踏み込みながら独特の下段構えに変化していた美燕の放った片手打ちは、まさに落雷の勢いで須藤の面を上から捕らえる。
 端で見ていた者達には、美燕の竹刀の先が須藤の後頭部を叩いたように錯覚した。それほど速く、強烈な一撃だった。
 須藤は縦に揺れて竹刀を取り落とし、勢いよく尻餅をつく。
 もうざわめきも起こらない。
「面有り、一本!」
 文句のつけようが無かった。
「大丈夫ですか?」
 尻餅をついたまま、またも茫然自失の体になる須藤に、助け起こそうと美燕が手を差し出す。
 差し出された手を見た須藤は驚いて身を竦めたものの、素直にその手を借りて立ち上がる。
 小さな声で「参りました」と言い、足取りもしっかりしているので、尻餅でケガをしたり脳震盪の心配もなさそうだった。
 気持ち背中を丸めて須藤が下がると、さらに金堂が訊いた。
「他に、誰か挑戦者はいないか?」
 誰一人声も上げない。今の一戦で、自分たちが敵う相手では無いと理解したのだろう。
「なんだだらしない。誰も勝てとは言ってないぞ。胸を借りるつもりでやってみろ。水上(みなかみ)。お前どうだ?」
 その言葉に、部員達の視線が一カ所へ集まる。
「え、オレっスか?」
 糸目にツンツン頭の男子が、自分に集まる視線をきょろきょろと見回し、自分を指さして訊いた。中肉中背で、見た目も仕草もどこが茫洋としたものが漂っている。
「この部じゃ、須藤より腕が立つのはお前だけだろ」
「今勝たなくていいって言ったくせに……自信は無いッスよ?」
 と言いながらも、水上はテキパキと防具を身につけていく。
「んじゃ、やりましょうか。みんな、応援よろしくね〜」
 ぐるりと肩を回して進み出る。
 水上なら望みがあると思ったのか、力のこもった声援がかけられた。
「始め!」
 するり、と美燕が踏み込む。
 パン!
 無造作に、しかし鋭く速い美燕の小手打ちを、水上が最小限の動きで受ける。弾かれた美燕の竹刀は、そのまま水上の面へと伸びる。切り返しが速い。
 水上はこれも受ける。
 美燕の動きは、須藤相手の二本目と同じく速いが、水上ははっきりと反応する。
 部員達の間に歓声が上がった。
 美燕と水上は、擦れ違うようにして間合いを取った。
 そして、向き直った水上のピタリと構えられた竹刀に、美燕は感心する。
 水上の構えは、最も基本的な青眼。教科書に載せたくなりそうなほど基本に忠実な構え方だ。ある意味本人の印象通りの、これといった特徴の無い構え。
 難しい相手だな、美燕は思う。
 特徴が無いということは、転じて言えば長所もないが短所もないということ。
 要するに隙がない。攻め手に困る一番厄介な部類の相手だ。
 加えて、美燕は剣道の試合に慣れているとは言えない。それに身につけた技術そのものも、何合も打ち合うことにそれほど向いていないのだ。
 剣道という枠で戦う限り、その枠に慣れている方が有利なのは自明の理でもある。
 慎重に水上の出方をうかがう美燕に対し、剣道経験者としては珍しく、ピタリと剣先を静止したまま摺り足で間を詰めていた水上が動く。
 竹刀が打ち合う音が連続する。
 部員達の歓声が大きくなった。
 水上の打ち込みは、鋭く、速く、力感に溢れている。
 危なげなくそれを捌いた美燕が、水上の踏み込みで詰まった距離を開こうと、するりと身を引いた。
 それを見た水上が、ぐっとさらに前進し、開こうとした距離をやや強引に詰め、竹刀も振れないほど肉薄する。
 美燕は同年代の女子に比べれば多少身長が高いものの、水上と比べれば身長も体重も劣る。そこにつけ込んでの体当たりにきたのだ。
 だが。
「……おっ?」
 面の奥で、水上の糸目が見開かれる。
 衝突音と共に弾かれたのは水上の方だ。
 体格差に加え、美燕は下がっている状態、水上は追う状態だったのにも関わらずだ。
 足腰が強靱なのか、それともなんらかの技術や体捌きなのかは判らないが、美燕の方が一方的に打ち勝ってしまった。
 弾かれた水上は倒れこそしなかったが、すぐにするすると近づいてきた美燕の一撃を躱すほどの余裕は無い。
 美燕の竹刀が水上の面を捕らえ、快音が響く。
「面有り、一本!」 
 息を詰めて勝負を見守っていた部員達の嘆息が漏れ、体勢が崩れたところに一撃をもらった水上は、そのまま後方にごろんと一回転して起き上がった。
 笑みを浮かべて金堂が確認する。
「もう一回やるか、水上?」
「いや、無理ですって。とてもじゃないけど、勝てそうに無いッス」
 妙に軽い調子であっけらかんと手を横に振る水上。
「そうすると、もう相手がいないな。……それでは」
 キラリ、と金堂の目に子供じみた怪しい光が走る。
「先生」
 唐突に美燕から声をかけられ、金堂の目から怪しい光が消える。
「寮の方に、昼までには帰ると言ってありますので……」
「む、そうかね……少し残念だが、まあいいか。またいつなりと来るといいよ。歓迎するからね」
 あからさまに残念そうな金堂と、少し引き気味の部員達にも一礼し、道場の隅まで下がった美燕は、面を外して息をつく。
 面をつけていると、やりにくいな。
 暑い中、防具を着けて二人相手に立ち回ったというのに、ほとんど汗をかいていない美燕は、それだけ思う。
 身繕いを済ませ、一礼を残して道場を出て行く美燕を見送る金堂に話しかけたのは水上だった。
「いやあ、強い娘ッスね。この前来てくれた範士の人に動きが似てたッスけど」
「彼女の流派は、体系的にそういう動きを身につけるものだからな。相当歴史が古いらしいが、確か源流は戦国時代まで遡れるそうだぞ」
「マンガみたいッスね」
「まあ、その実効性というのは今見たとおりだ。……う〜〜ん、もう少し早く転校してきてくれてればな」
「部が全体的にレベルアップできたってことッスか? それはどうでしょうね」
「ん?」
「あれは剣道じゃないッス。あの娘も剣道家じゃないでしょ。あんな異質なものぶち込まれて、いい影響だけとは考えられないッスけど」
 金堂は片眉を吊り上げて水上を見たが、なにかしら心当たりでもあるのか、深々と溜息をついて頷いた。
「そうだな」
「ま、勉強にはなったッスよ、もの凄く。須藤にはなりすぎたみたいッスけど。すげーヘコんでますよ、あいつ」
「最近天狗になりつつあったから、丁度良いといえば丁度いいが……。薬が効きすぎて大会に支障が出ても困るな。水上、お前少しフォローしてやってくれるか?」
「効果なくても怒んないで下さいね」
「期待してるぞ」
「……へーーい」
 
 とぼとぼと重い足取りで、美燕は家路についていた。
 須藤、水上と連破したものの、美燕の心にはこれといった感慨は無かった。
 むしろ、かえって気持ちが重くなってしまった気さえする。
 二人が弱かったからというわけではない。確かに結果としては自分が勝ったが、二人とも質の良い練習を積んでいることは伺えたし、内容の濃い勝負だったと思う。
 少し前なら、充分に満足できていたはずだ。
 金堂の誘いを受けたのは、自分の中で変化している諸々を確認するためだったのだが。
 ──剣を振るのは、こんなにつまらないものだっただろうか。
 また来るといい、と金堂は言ってくれたが、もうあそこに足を運ぶこともないだろう。
 足は鉛のように重く、肩に照りつける日差しにすら重さを感じる。
 無意識に唇を噛む。
 真夏の太陽の下、勝者とは思えない美燕の背中は、ゆっくりと遠ざかっていった。
 
      奥伝・剣の思い出、拳の理由。
 
         壱
 
 葉弥乃が手土産持参で諏訪家にやってきたのは、剣道場の一件から二日後だった。
「やっほ、みーちゃん!」
 活動的なハーフパンツにタンクトップ姿、さらに大きな麦わら帽子という夏全開な姿の葉弥乃が、庭の木陰で読書に興じていた美燕へと声をかけてきた。
 いつもの剣士姿で正座していた美燕は、本から顔を上げて笑顔で迎える。
「おはようございます」
「おっはよ。ほーーらみーちゃん、お土産。水ようかん」
「水ようかんですか?」
 目の前にぶら下げられた包みに目を向けた美燕の喉が動いたのを、葉弥乃は目敏く見つけて笑みを深めた。
「ひょっとして、水ようかん好き?」
 あっさり感情を読まれたことが恥ずかしかったのか、美燕が少し赤面する。
「恥ずかしながら、好物です」
「あはは、そっか。よかったよかった。冷やしてから、みんなで食べようね。ところで、なに読んでるの?」
 美燕のすぐ隣にしゃがみ込んで、その膝に置いた文庫本を手に取る。背表紙には「遠野物語」とあった。
「渋い本読んでるねぇ。恋愛小説よりは似合ってるかもしれないけど」
「武人さんの蔵書から借りてきたのですが」
「みーちゃんなら、剣豪小説とか似合いそうなのに。おじさまのそういうの読むから、あったでしょ?」
「はあ……」
 葉弥乃の言う通り、その手の小説は嫌いではなかったが、なんとなく今は少しでもそういうものから遠ざかっていたいような気がしていたので、返事も曖昧になってしまう。
「そうそう、そういえば聞いたわよ〜〜?」
 言い淀んでいると、葉弥乃の方から話題を変えてきた。ニンマリとチェシャ猫のように曲線だけで構成された含みのある笑顔に、美燕は少し怯んだ。
「な、なんでしょうか」
「剣道部に乗り込んで、トップツーを叩きのめしたとか」
「……なんだかそういう言われ方をすると、とても人聞きが悪い気がするのですが」
 思わず半眼になる美燕に、葉弥乃は首を傾げた。
「違うの?」
「いえ、まあ、概ねはその通りなのですが……」
 苦笑いしつつ、金堂に誘われてからの経緯を葉弥乃に説明する。
「そういうわけで、別にそうしようと思って伺ったわけではないんです」
「ふうん、新聞部の後輩からの又聞きだったからさ、本人に確認しようと思ってね。みーちゃんにしては好戦的だなーとは聞いた時に思ったんだけど」
 一体どんな風に噂されているのやら。美燕はそっと眉間を押さえて溜息をついた。
「でも、須藤ちゃんと水上に勝ったってのは本当なんでしょ?」
「はい」
 結果を誇るでもなく、ただ単に事実を認める。その態度を好ましいと思ったのか、葉弥乃が再度笑み崩れ、芝居がかった仕草で腕を組んで何度も頷く。
「やっぱりみーちゃん強かったんだ。わたしの目に狂いは無かったってことよね。水上はヘラヘラしてるからいまいちそういうイメージ無いけど、須藤ちゃんは県内の中学生では屈指の実力者で、ここらの中学生レベルじゃ敵無しだったらね。なんか、すっごい落ち込んでるみたいよ?」
 言いながら、探るような視線を送ってくる葉弥乃に、美燕は軽く目を閉じて口を開く。
「勝負として向き合った以上、勝者と敗者が別れるのは当然のこと。敗者の立場になる覚悟が無ければ、最初から勝負の場には立たぬこと」
「みーちゃん、クールなのは知ってたけど、ドライだねぇ」
 目を丸くする葉弥乃に、美燕は目を開けて少し寂しげな笑みを浮かべた。
「父が言っていたことです。私自身はまだそこまで割り切れませんね。が、そういう覚悟は必要なのだろうなとは思います」
「厳しいお父さんなんだね。ま、とりあえず、中入ろ。ようかんも冷やしたいし」
「はい」
 
「海にいきましょう、海!」
 静流が用意してくれた麦茶を一気に飲み干した葉弥乃が、いささか唐突に言った。
「海ですか、いいですね」
 そういう葉弥乃の発言には慣れているのか、静流が驚きもせずに麦茶のおかわりを注いでやりながら同意した。
「海水浴ですか?」
「別に美味しい物を食べに行くでもいいけど」
「私は海に行ったことが無いのですが」
「へ?」
 動きを止めた葉弥乃と静流の視線を受けて、美燕は目を瞬いた。
「おかしいでしょうか?」
「いやまあ、そういう人もいるだろうけど。じゃあ、みーちゃん、ひょっとして泳げない人?」
「いえ、実家の側に川があったので一応は泳げます。けして上手くはないですが」
「じゃあ問題ないね。おじさまに頼んでおかなきゃ。士郎の奴は今日いるの?」
「お兄ちゃんなら、裏の縁側で日射病のアザラシみたいに転がってますけど」
「今日は暑いからねぇ。じゃ、ちょっといってくる」
 ひょいと立ち上がった葉弥乃は、そのままスタスタと居間から出て行った。
 その背中を見送り、美燕が静流に訊く。
「葉弥乃はいつもあのような感じなのですね」
「あんな感じです」
 クスクスと親愛の情が滲む笑いを静流は漏らす。
「麦茶のおかわり、どうですか?」
「はい、いただきます」
 
 その頃、静流の言うとおり士郎は裏の縁側で寝転んでいた。
 三人がいた居間の方に比べ、こちらはやや日当たりが悪いが風がほどよく通るので、多少涼しい。
 だらしなく転がる士郎の足下では、少々型の古い扇風機がカタカタいいながら首を振っていて、士郎の隣では蘭が士郎と似たような格好で寝そべっている。双方とも暑さは苦手なのだった。
 ふと、蘭がなにかに気付いたように片耳を振り、大儀そうに立ち上がって廊下の端に移動してまた寝転がった。
 それと同時に、そろりと忍び足で士郎に近づく人影一つ。
 もちろん葉弥乃だが、士郎は気付く気配がない。なかなか堂に入った忍び足だ。
 寝苦しそうに小さく唸り、寝返りを打った士郎がうつぶせになる。
 そこへ葉弥乃が襲いかかった。素早く士郎の右足を両足でロックし、その背中に密着しつつ背後からフェイスロック。プロレスで言う「ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック」という技だ。
「隙有り!」
 完全に技が極まって逃げられない状態にしてから、勝ち誇ったように宣言。かなり意地が悪い。
「あだだだだだだっ!」
 この技は掛けられた方の頬骨に、掛けた人間の腕の骨が思い切り押しつけられるので、頸動脈を絞められるよりかなり痛い。
 上体を反り返されながら、慌てて葉弥乃の腕を叩き降参(タツプ)する士郎。
「修行が足りないよ、士郎」
 技を解いて立ち上がりながら葉弥乃が言う。
「……俺に心休まる場所は無いのか?」
「たったいま休まったでしょうが。感触楽しんだでしょ?」
 身長の割に、意外と発育著しい部分を傲然と突き出してみせる。
 士郎は半眼であぐらをかくと、嫌なものをみたように顔をしかめた。
「んな脂肪の塊押しつけられても、嬉しくないっつーの」
「なんだとう」
「しかも相手お前だし。ついでに大して大きくないし」
「失敬な!」
 顔面めがけて回し蹴り気味に飛んできた爪先蹴りを、士郎は首を傾けるだけで避け、顔のすぐ横に伸びてきた葉弥乃ふくらはぎをそっと押しやった。すると、力を逸らされた葉弥乃はくるりと横に一回転し、正面を向いて止まった。
「で、なんの用だよ」
「うん、海行こうって話」
 何事もなかったように話を切り出す葉弥乃。
「海? いつ?」
「まだ決まってない」
「お前な」
 士郎が呆れた感じで溜息をつくのを見た葉弥乃は、むっとした顔で士郎の額に人差し指を突きつけて、そのままぐりぐりとにじった。
「あ・ん・た・が、いついるかもわかんないから、先に話だけでもしとこうかと思ったんじゃないの。解ってる?」
「そりゃどーもご親切に」
 投げやりに答える士郎から指を離し、葉弥乃は士郎の目の前にしゃがみ込んだ。
「ねえ、士郎。あんた、みーちゃんのこと嫌い?」
「……なんだ突然」
「どう?」
 葉弥乃の妙に真摯な視線に、士郎がたじろく。
「初対面でいきなり斬りつけられたの、まだ根に持ってる?」
「そういうわけじゃねえけど。むしろ、嫌われてんのは俺の方じゃないか?」
「そうなの?」
「確信があるわけじゃないけどな。なんとなく、微妙に避けられてるような気がする」
「なんかしたんじゃないの? お風呂覗いたとか、着替え覗いたとか」
「してねえって」
「ま、それは冗談としてもね。みーちゃんも、あんたと同じで人見知りするタイプみたいだから。それに、こっちへくるのに色々あったっぽいし。それなりに長い付き合いになるんだから、まずは男の方からアクションとるのか礼儀ってもんよ?」
「なんの話だか」
 苦笑いしつつ、士郎はふと何日か前の稽古場でのやり取りを思い出した。
「……俺も少しぶっきらぼうだったかもな」
「だからまあ、心懸けておいてよ。無理にとは言わないけどさ」
 日頃の爆発的な行動力のせいで、あまりそうは見られないが、葉弥乃はこういった細やかな気遣いを見せることがよくある。
 持ち前の観察力と聡明さのおかげなのだろうが、本人はそういう気遣いをしていることを他人に知られるのが恥ずかしいらしいので、彼女と親しいものはわざわざそれに触れることはない。
 だが、士郎は葉弥乃のそういう気遣いに助けられた経験が少なからずあったので、葉弥乃のそういうところを尊敬していたし、助言に対しては素直に従うようにしていた。
「ああ、わかったよ」
「お願いね」
 そう言って、葉弥乃は時折にしか見せない、優しげな笑顔を見せる。
 その姿は、本人が言っていたように本当の姉のようだった。
 
 
 からりと晴れた昼前の諏訪邸。
 美燕達三人は、居間で顔をつきあわせて課題に精を出していた。
「あ〜〜、終わった終わった」
 葉弥乃は座ったまま、ぐーーっと伸びをして、そのままゴロンと後ろに倒れ込む。
「いいですね、三年生は課題が少なくて」
 恨めしげな目で、自分の課題を進めながら静流が言う。葉弥乃は横向きに肘を立てて腕枕すると、顔を起こした。
「終わったって言っても、問題集だけだけどね。それにあたし達三年生は、代わりに受験勉強ってもんがあるんだよ」
「受験勉強って、葉弥乃さん推薦受けるんでしょう? 葉弥乃さんほど成績良ければ、普通に受けたって合格確実でしょうに」
「まあね、あそこは入るのだけはそれほど難しくないから。そういや訊いてなかったけど、みーちゃんもあそこ受けるんでしょ?」
 問題集を解きながら、聞くとも無しに二人の話を聞いていた美燕は、話を振られて顔を問題集から上げた。
「なんでしょう?」
「進路の話」
「進路……ですか。特に決めていないのですが」
「へ? みーちゃん、あそこ受けるために転校してきたんじゃないの?」
「なにぶん急に決まった転校でしたので……。夏休みが明けてから、先生に相談しようと思っていたのです。その……父も進路については触れなかったので」
「と、言うことは、みーちゃん、あの学校のこと知らないの?」
「あの学校?」
 不思議そうに問い返してくる美燕の様子に、葉弥乃と静流は顔を見合わせた。
「どんな学校なのですか?」
 二人の態度を不審に思った美燕は、重ねて尋ねた。
 美燕が本当になにも知らないことを見て取った葉弥乃は、面白そうな笑みを浮かべて起き上がり、秘密めかして言った。
「おもしろい学校」
「おもしろい?」
 さらに不審な表情になる美燕に答えず、葉弥乃は美燕の問題集を覗き込む。
「夏休みが明けたら、先生から直接聞くといいよ。見学にいく機会もあるかも知れないし。みーちゃん頭いいみたいだから、慌てて受験勉強しなくていいでしょ。あそこは一芸入学もあったはずだし。お父さんも、まだ言う必要も無いと思ったんじゃない?」
「はい……」
 進路。
 これ以上は無いほどに現実的な話。
 だが、今の美燕には現実感の伴わない話だった。
 自分の進む道。
 私は、どこに向かって進めばいいのだろう。
「みーちゃん、そういえば海行くの明日だけど、準備は大丈夫?」
 その言葉に、美燕ははっと顔を上げた。
「そう、そうでした。そのことでも相談しようと思っていたのです」
「みーちゃんから相談事? なになに?」
 嬉しそうに身を乗り出す葉弥乃。
「私、水着を持っていないのです」
「水着を持っていないって。この前、泳げるって言ってなかったっけ?」
「川遊びをしていたのは十才くらいまででしたし、鍛錬の後はよく泳いでいましたが、いつも胴衣を脱いでそのまま飛び込んでましたので」
「そのままって……下着で?」
「下着というか、鍛錬の時にはサラシと下帯でした」
「下帯って、六尺ですか?」
「そうとも言います」
 思わず、もやもやとその姿を脳裏に浮かべてしまう葉弥乃と静流。
「……渋い上に、格好良いじゃない……」
「……ですねぇ……」
 なにやら難しい顔で想像を逞しくしている二人に苦笑いして、美燕は話を続ける。
「そういうわけで、水着を買いにいきたいのです。葉弥乃なら良い店を知っているかと思ったので」
「ん。任せてちょうだい。ぶらうに〜で水着も扱ってるから、お昼ご飯食べたらいきましょうか」
「今日は外食でいいですか? お父さんもお兄ちゃんもいないんで」
「おっけーおっけー。じゃあ、二人の課題が一段落したら出掛けましょ。麦茶のおかわり持ってくるね」
 葉弥乃は機嫌良く立ち上がり、三人分のグラスをお盆にのせて、台所へ向かった。
 
**********
 
「やっぱり、ここにいたか」
「なんだ、珍しいな。なんか用か?」
「お前のトコに女剣士が来ただろ?」
「唐突だな。いるけど、それがどうかしたか?」
「聞いてないのか?」
「なにを?」
「この前の一件だよ」
「ああ、手酷くやられたって話か?」
「そうそう。でだ、あの女剣士、上泉さんだっけ? 紹介してくれよ」
「藪から棒だな。お前彼女いただろ」
「言っておくけど、お前が思ってるような理由じゃないからな」
「じゃあ、なんで?」
「ま、いろいろさ。解るだろ?」
「大体予想はつくけどな」
「そういうわけなんで、早速明日にでも」
「明日は無理」
「なんで?」
「海に行くことになってる」
「日帰りか?」
「多分な」
「俺も連れてってくれ。このままいくと、今年も部活だけで夏が終わりそうなんだよ」
「そういうことは、うちのイベント部長に頼め。彼女はいいのか?」
「ただいまズンドコに落ち込み中だ。しばらく放っておくさ」
「薄情な奴だな」
「そんなこと言ってもなぁ。フォローはするだけしたからな。後は本人次第だろ。どうにもできんさ。しっかし、あいつと顔合わせるのヤだなぁ、絶対馬鹿にされるし」
「自業自得って言葉知ってるか?」
「やかましいわ。で、いつものごとく、お前んちにいるのか?」
「いるんじゃないのか、多分」
「しかし、昔から思ってたけど、お前ら仲良いよな」
「……お前、姉妹いなかったよな?」
「正真正銘一人っ子だが」
「だったら、言ってもわからんだろ」
「なんだそりゃ?」
「なんでもない。それより、行くんなら早いところ行った方がいいぞ。最近うちの妹も合わせて三人で出掛けてること多いし」
「捕まんなかったら、電話掛けてみるさ。じゃ、またな」
「おう」
 
**********
 
 そして、海水浴当日早朝。
 きらめく朝日が踊り、空気が眩しく輝いている。
 諏訪邸正門前に横付けにされているステップワゴンの後部で、武人と士郎がのんびりと荷物を積み込んでいる。この車は一ノ瀬家から借りたものだ。
 諏訪家にも車はあるが、五人乗りの乗用車にサイドカー付きのバイクは、今日のような荷物ありの遠出に向かないため、以前から小旅行の時には、こうして一ノ瀬家から車を借りていた。
 葉弥乃の父・要(かなめ)は、仕事の都合で海外にいることが多く、たまにエンジンをかけてやらないと調子が悪くなるので、むしろ武人が車を使ってくれるのは歓迎している。
 自分の荷物を持って玄関から出た美燕は、見覚えのある人物が、荷物の積み込みを手伝っているのに気がついた。
 その人物は美燕の視線を感じて振り返り、へらりと笑って頭を下げる。
「あれ? 水上さん」
 美燕の後から玄関を出てきた静流が、その糸目の人物に目を止めて言った。
「お知り合いですか?」
「お兄ちゃんの友達ですよ。葉弥乃さんとも知り合いですし」
「おはよーっす! いやあ、晴れて良かったね。こりゃ絶好の海水浴日和だわ」
 キュロットの裾から、太すぎず細すぎずの健康的にすらりとした足を伸ばし、Tシャツ姿の葉弥乃が相も変わらず元気に挨拶した。
「おはようございます。水上さん呼んだのって、葉弥乃さんですか?」
「ああ、あいつね。別にあたしが呼んだわけじゃないけど、なんか彼女が遊んでくれないから暇らしくてね。枯れ木も山の賑わいとか言うし」
 思い切り聞こえるような声で言う葉弥乃に、水上の顔が引きつる。
「士郎の数少ない友達だから、あんまり邪険にするのもなんだしね」
 士郎の顔も引きつった。
「葉弥乃くんも来たことだし、出発するかね?」
 武人がうながし、全員車に乗り込む。
 至近の海水浴場までは、街からそれほど遠くない。大体三十分も車を走らせれば海岸線が見えるのだが、今日はその海水浴場ではなく、さらに北に車を走らせる。
 しばらく海岸線にそって車を走らせていると、やがてちらほらと岩場が見えてくる。そこからさらに少し進むと、岩場と砂浜が入り交じった入り江の海水浴場に辿り着いた。
 ここは県内の人間にもあまり知られていない穴場で、砂浜だけの海水浴場に比べて、岩場がある分遊び場が多いし、入り江の出口には小さいが、木が茂った小さな島もある。
 夏休みに入っているし、天気もいいのでやや人が多いが、充分に遊べる程度には空いている。
「ほんじゃ、また後でね」
 女の子一行は先に海の家の更衣室で着替えてもらうことにして、男衆は海岸の場所取りにいくことになった。
「では、いくか」
 ビーチパラソルと、大きなクーラーボックスを肩にかけた武人がいつもの作務衣姿で言った。
「ちょっと待て」
「なんだ?」
「一旦帰るんじゃないのか?」
「誰が?」
「親父が」
「なぜ帰らねばならんのだ。未成年だけで放っておくわけにもいくまい。保護者として同伴するのが当然だと思うが。それに、親子間のコミュニケーションというものをな」
「あ、逃げた」
 武人の言葉が終わる前に、士郎は脱兎の勢いで逃げ出していた。すでにその背中は小さくなっている。
「……いい逃げっぷりっスね」
「まあよかろう。水上君、荷物を運ぶのを手伝ってもらえるかな?」
「どうせ、逃げられやせん」
 武人は、とても嬉しそうに、にやりと笑った。
 それを見た水上は、相変わらず大変そうだなアイツ、とだけ思った。
 同情はあまりしなかったが。
 
 美燕は、母親が嫌いだった。
 いつからかは覚えていないが、少なくとも物心ついた頃には、すでにあまり良い感情を持っていなかった気がする。
 母のことを思い出そうとすると、まずその日陰に咲いた花のように儚げな佇まいを思い出す。いつも父の後ろへ隠れるように控えていて、美燕が知る限り、母がなにか我を張ったり、自らの意見を主張するところを見たことがない。
 人によっては美点ととるだろうが、美燕は母のそういうところが堪らなく嫌いだった。
 幼い頃から父に叩き込まれた剣士としての心構えと、おそらく同性であることが拍車をかけているのだろうが、母を見ていると歯がゆくて仕方がないのだ。
 だからというわけではないだろうが、愛情をかけられたという実感も無い。
 母は病弱なため、寝たり起きたりを常に繰り返していた。そのせいで一緒に過ごした時間が絶対的に少なかったし、実家での家事一切はお手伝いのタキが仕切っていたので、なおのこと家族的な役割としての母親という印象が薄い。
 お腹を痛めて産んだ子供なのだから、もちろんそれなりに愛情を持ってはいるのだろうが、母はそれすら表だって表すことが無かった。
 屋敷の中で顔を合わせても、どこかおどおどと曖昧な笑みを浮かべるだけで、話しかけても近づいてもこない。美燕は一時期、ひょっとしたら母は精神に障害があるのではないかと疑っていたことすらあった。
 今回、美燕が一人で家を出ることになっても、母はなにも言ってこなかった。病院に入院したままとはいえ、その話を聞いていないはずがない。伝言なり手紙なり、方法はいくらでもあったはずだ。
 だが結局いつも通り、母はなにもしなかった。別になにかを期待してたわけでもないのだが。
 それに加えて、母が弟を産まなければ自分は以前と変わらず過ごせていた、という思いがある。それをもって母を恨むのはお門違いであると重々承知しているし、生まれてきた弟を恨むつもりもまったくない。
 しかし、だからといって納得できるというものでもなかった。
「上泉さんは、泳がないんスか?」
 灰色のバミューダパンツの水上が、ビーチパラソルの下で正座して海を眺めつつ考え事に耽っていた美燕に声を掛けた。
 その手には、いつも美燕が持ち歩いている刀袋に似た濃緑色の袋を持っている。袋の上から見る限り、長さは三尺超。太さは美燕の木刀と同じくらいか。木刀と違って、明らかに反りが無く真っ直ぐな形をしている。
「きちんとした自己紹介がまだだったッスね。三年C組の水上涼児(みなかみ りようじ)っス」
 もともと細い糸目をさらに細めて、ニカッと笑う。
「隣、いいスか?」
 美燕が頷くと、水上はその隣にストンと垂直にあぐらをかいて座った。無造作な割に雑な仕草では無かった。
「水上さんこそ、あちらに混ざらないのですか?」
「くぅぅるうぅぅぅなああぁぁぁ!」
「ぅうわははははははははは!」
 ドップラー効果を引きずって、追いかけっこ──少なくともそうとしか見えない行動をとっている士郎と武人が、信じられない速度で二人の目の前を横切っていった。
 凄まじい勢いで砂を蹴立てる士郎に対し、仁王のような体躯の武人は、ほとんど砂を巻き上げずに士郎の後ろをぴったりとくっついていく。まるで幽霊のような走法だが、やけに嬉しそうな笑顔と相まって大変気持ちが悪い。
 それなりに人が多い浜辺が、二人の進行方向に向かって二つに割れている。
「あれに混ざる度胸はちょっと無いッスね。色々な意味で」
 強ばった顔で二人を見送った水上が、波打ち際に顔を向けた。
「どうせ混じるなら、あっちの方がいいっス」
 そちらでは、黄色と黒のツートンカラーのセパレートを着込んだ葉弥乃と、白地に可愛らしい花柄のワンピース姿の静流がビーチボールで遊んでいる。
 ちなみに、美燕が着ているのは、紺色基調で肩紐のない、後ろから見るとセパレートタイプに見えるワンピースの水着だ。今はその上からヨットパーカーを羽織っていた。
 どちらも葉弥乃に見立てて貰ったものだ。
 本当はもっと派手な水着を勧められたのだが、さすがにあまり布の面積が少ない水着は抵抗があったので、今のものに落ち着いたのである。
「水上さんは、剣道が本分ではないですね?」
 不意に美燕が言った。
「剣道場で手を合わせた時にも思ったのですが、なにか古い武術をおやりでは?」
「なんでッスか?」
 面白がっている口調で、水上は問い返す。
「さきほどの座り方を初めとして、立ち居振る舞い全般に、そういう匂いがします。それに……」
 ちらり、と水上が肩に立てかけた刀袋に目をやる。
「それが木刀の類でないことは、見れば判ります」
「ははは、それもそうッスね」
「なにか、私に用があるのではないですか?」
 ずばり、と前振り無しで美燕が切り込んだ。
 その質問が聞こえなかったような態度で、水上は笑いを消して濃緑の刀袋を片手で持ち上げた。
「これ、なんだと思うッスか?」
「杖、もしくは仕込みの長柄物と見受けられますが」
 すらすらと答えると、水上が嬉しそうに笑った。
「……やりあえば、なんだか判るッスよ」
 不思議と挑戦的な響きの無い声で水上は言った。
 そういうことか。
 水上の用がなんなのか見当のついた美燕は、視線を膝に落としてそっと溜息をついた。
 それを見た水上は、取り繕うように付け足す。
「別に意趣返しってわけじゃないッスよ。元はと言えば、剣道やってたのは、こっちの方に少しでも役立つかと思ってのことなんで、負けても大してショックでもないですし。まあそりゃ多少は悔しいッスけどね。そんなことは関係なく、オレはこっちで上泉さんとやってみたいんスよ」
 視線を逸らしたままの美燕に膝を向けて、水上は熱のこもった口調で続ける。
「上泉さんなら解るでしょう? 解るはずッス。立ち会った瞬間に、自分は上泉さんに同じ匂いを感じたんスよ。同じ種類の人間だって。お願いです、この通り」
「こぉらっ!」
 身を正して両手をつこうとした水上の頭に、目付きの悪いペンギンがプリントされたビーチボールが命中。中のビーズがジャラリと音を立てる。
「な〜〜にみーちゃんに良い寄ってんのよ、彼女にタレ込むわよ!」
 驚いた水上が振り返ると、眉を逆立てた葉弥乃がこちらを睨んでいた。慌てて弁解しようとする水上を牽制しておいて、葉弥乃は美燕をちょいちょいと手招きした。
「みーちゃん、こっちおいで。一緒に遊ぼうよ。そんなエロ糸目の側にいると、なにされるかわかったもんじゃないからね」
「エ、エロ糸目……」
 なにやら衝撃を受けている水上を尻目に、美燕はパーカーを脱いで丁寧に畳んで置くと立ち上がる。
「水上さん」
「はい?」
「申し訳ありませんが、貴方の期待には添えません」
 水上の視線を避けるように、小さく、しかしはっきりと美燕は言った。目に見えて水上の表情が曇る。
「そッスか。ま、しょうがないッス。無理強いはできないッスから」
「水上さん、貴方は」
「はい?」
「どうして……」
 口にしかけた言葉は、口から出る寸前にほんの少し形を変える。
「武の道を歩むことを選ばれたのですか?」
「どうして、ッスか」
 水上は少し考え込むように間を置いて、腕を組んだ。
「大した話じゃないッスよ。まあ、また今度ということで」
 にやりと笑って、葉弥乃達の方を目で示す。
「あんまり待たせると後が怖いッスから、主にオレが」
「……そうですね」
 美燕は水上に一礼し、落ちているビーチボールを拾って葉弥乃達のところへ向かった。
 それを見送った水上は盛大に溜息をついて、苦笑いを浮かべる。
「やれやれ、フラれちゃったか」
 呟くと同時に、どこからか聞き覚えのある悲鳴が聞こえた。
「あ、捕まってる」
 悲鳴が聞こえた方を見ると、士郎が波打ち際で武人に捕まっていた。海水浴場の端までいって折り返してきたらしい。
 二人はしばらくもみ合っていたが、武人が士郎を担ぎ上げたかと思うと、槍投げのようなフォームで助走して、笑いながら海に向かって力一杯投擲した。
 士郎は悲鳴の尾を引きつつ、綺麗な放物線を描いて驚く程遠くまで飛び、盛大な水しぶきを上げて着水。そのまま土左衛門になってもおかしくなさそうだったが、すぐに士郎らしき頭がぷかりと浮かび上がり、猛烈な勢いで沖の小島に向けて泳ぎ出す。
 それを確認した武人も海に入り、波の立たない不思議な泳法で、これまたかなりの速度で士郎を追った。
 一部始終を眺めていた水上は、ぼそっと呟いた。
「トラウマものだよなぁ、あれって」
 
「次はお祭りね!」
 海の家で昼食を摂っている最中、またしても葉弥乃が言い出した。
「また出たよ……」
 散々武人に追い回されたせいか、あまり食欲が無い様子でモソモソと握り飯を食べていた士郎が、疲れ果てた声で言う。
 武人は士郎を追い回したことで満足したのか、早々に食事を済ませバスタオルを腹に掛けて寝息を立てている。見た目に反してイビキもかかない妙に静かな寝姿で、なにも知らないで見たら、死んでいると勘違いしそうな感じだった。
「なんか言った?」
 半眼で士郎を睨む葉弥乃が食べているのは、弁当もあるというのにわざわざ出店で買ってきた焼きそばだ。
 不審そうな美燕に、半分は雰囲気を食べているんだ、と説明していたが、どうもあまり美味いわけではないらしい。
「あ、オレは無理ッスよ。先約があるんで」
「誰もアンタにゃ訊いてないわよ」
「……ヒドイッスね」
 無下に扱われた水上が泣き真似をするが、その間もしっかり貝の串焼きや魚の浜焼きを手元にキープしつつ、図々しいほどの勢いで消費している。彼も弁当持参だったが、今は手持ちの食料と出店で買い出したものがすべてテーブルの上に広げられ、それをみんなでつついていた。
「というわけでぇ、みーちゃん浴衣は?」
「……あの、また、おつきあい願えますか?」
 尋ねられた美燕は食事の手を休め、気持ち上目遣いで恥ずかしそうに葉弥乃を見る。
 美燕の視線を受けて、葉弥乃はこれ以上はないほど嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「いいわよぉ。いくらでも付き合っちゃうよ〜〜」
 そのやり取りと見ていた水上が、士郎にそっと耳打ちした。
「……一ノ瀬って、そっちの趣味があんの?」
「いや、知らんけど。もしそうなら、うちの妹が真っ先に毒牙にかかってそうな気が」
 無言で水平に振り抜かれた葉弥乃の足を、士郎と水上は揃って頭を下げて避けた。
 その後、武人が寝たままなので身の危険がない士郎と、士郎が加わったので気兼ねが無くなった水上を含めた五人で夕方まで存分に遊び、帰りの車の中では武人を除いた全員が眠りこけることになったのだった。
 車が諏訪邸に着いた頃には陽が沈みきり、辺りはもう暗くなっていた。
 水上は丁寧に礼を述べて、諏訪邸には寄らずそのまま帰る旨を述べた。葉弥乃はいつものように夕飯を食べていくようだ。
「それじゃ、オレは先に失礼させてもらうッス」
「気をつけて帰るようにね」
 武人の言葉に頭を下げた水上は、美燕にも頭を下げて家路につく。
「水上さん」
 武人達が家に入っていった後、しばらくその背中を見送っていた美燕が、水上を呼び止める。大きくは無いが、よく通るその声に水上が立ち止まって振り返る。
 訝しげな顔の水上に歩み寄り、美燕は深々と頭を下げた。
「本当に、すいません」
 誠意が滲む謝罪に面食らった様子の水上だったが、すぐに苦笑いして頭を掻く。
「いやあ、気にしなくてもいいっスよ。無理にお願いするつもりも無かったッスから。そのつもりなら、最初からなにも言わずに仕掛けた方がてっとり早いでしょ?」
 平然と物騒なことを言う水上だが、美燕も眉一つ動かさない。
「そうしても良かったのかも知れないッスけど、それじゃあ面白く無さそうですし。ま、もしも気が変わったら、お願いします。オレの方はいつでもおーけーッスから」
「……はい」
 少し気まずい沈黙の後、唐突に水上が言った。
「偶然、師匠の鍛錬を見たんス」
「え?」
 きょとんとする美燕に、笑みを見せながら続ける。
「昼間の話の続きッス。自分で言うのもなんスけど、オレって小さい頃から小器用で、なんでもそこそこにこなせたんス。そのせいなんでしょうけど、ハナタレのくせにノラクラしてて、その上ヒネたところがあって、いまいち真面目になれなかったんスね。自分でもそういうところが嫌だったんスけど、ある時、偶然師匠の鍛錬を見たんス」
 水上の目が思い出に飛ぶ。その視線には、深い憧憬が込められていた。
「いやぁ、格好良かったッスよ。綺麗で、疾(はや)くて、鋭くて……そしてなにより、真っ直ぐだったんス。オレは、なによりその真っ直ぐなとこに惹かれたんスよ。もお、その場で土下座してお願いッス『オレにも教えて下さい』って。そこからがまあ、また大変だったんスけど、今は置いておきましょう。あともう一つ理由があります。士郎ッスね」
「士郎さん?」
 意外な名前が出てきて、美燕は目を瞬いた。
「そッス。あいつとは、幼稚園の頃から知り合いなんスけどね。オレは師匠に会うまで武術の武の字も知らなかったんスけど、あいつはその頃からもう親父さんに仕込まれてましてね。で、一緒に遊んでると、よくそういう話をしてました。こんなことを教えてもらったとか、あんなことができるようになったとか。そんな話をしてる時のあいつは、今よりずっとガキだった目で見てもイイ顔してて、それがスゲェ羨ましかったんスね。師匠と会って、脊椎反射みたいに弟子入り志願したのは、士郎の影響は確実にあるでしょうね」
 照れ臭そうに、水上は鼻の頭を掻く。
 葉弥乃にも聞いていたものの、士郎が以前は武術馬鹿だったというのは本当のことのようだ。今の士郎を見る限り、美燕にはどうも腑に落ちなくはあるが。
「オレがこんなこと言ってたなんて、士郎には言わないで下さいね。恥ずかしいんで」
 水上はそう言って悪戯っぽく笑い、糸目のせいで分かり難いウインクをしつつ、口の前で人差し指を立てた。
「ここまで喋っておいてなんですが、まあ後付けの理由かもしれないですね。ホントのところはオレにもよくわかりません。なんだかんだで、オレの性格が治ったわけでも無いですし」
「……」
「別にいいんじゃないですかね、今はわからなくても。師匠の言葉を借りれば『歩み続けるからこその道=xだそうですから。誰に言われるまでもなく続けてるってことは、多分自分にとって必要だと感じてるからなんだと思いますし」
 その言葉に、どうとも形容のしがたい表情をする美燕の耳に、美燕を呼ぶ葉弥乃の声が届いた。
「ほら、一ノ瀬が呼んでるッスよ。長々と喋っちゃってすんませんッス。じゃ、また」
「あ」
 踵を返して歩み去る水上が塀の角に消えるまで見送り、美燕は溜息を一つ吐いた。
「自分にとって必要、ですか……」
 
 
 お盆も間近に迫り、平穏な日々がしばらく続いていた。
 ぱしっ! ぱぱぱんっ! どしっ!
 手首の返しが効いた左の突きから手技の連打、そして綺麗に腰の入った下段蹴り。すべてが正確に、武人が構えた二つのミットと足の防具に吸い込まれていく。
 諏訪家の鍛錬場の片隅で正座した美燕が、ほう、と感心の声を漏らす。
 今、美燕の目前で武人に向かって突きや蹴りを打ち込んでいるのは静流だった。
 兄の影響なのか、武人の教育方針か、それとも本人の意志なのかは知らないが、普段の立ち居振る舞いから多少は使えるのだろうと見当をつけていた美燕だったが、その意外な練度の高さに驚いていた。
 さすがに葉弥乃と比べても一回り小さい体格ゆえの重量不足はともかく、その攻撃速度と足運びの見事は瞠目に値する。
 武人の巧みな誘導で無理なく動かされているのは確かだが、基礎的な体捌きや体重の使い方はしっかり身についているようだ。
 この練度で身体を使えるなら、どんな運動でもある程度の勘の良ささえあればこなせるだろうな、と美燕は思う。
 ふと、美燕の脳裏に「血統」という言葉がよぎる。
 美燕自身は、向き不向きはあるとしても、その差は意志と修練で埋められると考えているので、そういう生まれながらに持っているものの多寡に対しては、あまり良い感情を持っていない。
 しかし、自分の目で士郎や静流を見ると、そういう差というものは確かにあるのかもしれない、と認めたくなってくる。
 今までさほど気にしたことが無かったが、父も自分の子供を後継者にすることに拘っていたような節があったので、無視できないほどのものなのかも知れない、と思う。
 静流の小気味の良い動きを見ながら美燕がつらつらと考えていると、その手元で時計のアラームが鳴った。
「それまでです!」
 美燕が声をかけると同時に、静流はぱっと間合いをとり、大きく息をついた。二分ほどだったが、運動量が多かったのですっかり息が上がっている。
「それでは、申し訳ありません。昼食の支度がありますので、お先に失礼します」
「すまんな美燕くん、手伝ってもらって」
「いえ、できることがあればいつでも」
 早くも呼吸が整いつつある静流に整理体操を指示し、自分は掃除の準備を始める武人に一礼して、美燕はその場を辞する。
 寮での生活にも慣れてきたということで、美燕も台所を任せてもらえるようになった。することもなく、ぼんやりと読書などで時を過ごすよりも有意義なので、美燕としては有り難いことだった。
「みーちゃん、お盆はずっとこっち?」
 お昼時、三日ぶりに現れた葉弥乃は、モギュモギュと白米を口に詰め込みながら美燕に尋ねた。
 夏休みなど長期休暇中の葉弥乃は諏訪家で食事をいただくことが多いので、来る場合ではなく、来ない場合に連絡を寄越してくる。今回間が空いたのは、新聞部の夏合宿に顔を出していたからだそうだ。
 一応食べているだけでなく、たまに料理の腕を振るったりもするが、なにかしらのお土産を持ってくることの方が圧倒的に多い。あまり料理は得意でないらしい。
「とりあえず、学校を卒業するまで里帰りの予定はありません」
 鰺の開きを綺麗な箸使いで骨と身に分けつつ、美燕が答える。
 そのやりとりを聞いていた武人が口を挟んだ。
「そうなのかね? では、うちの墓参りでよければ一緒にどうかな?」
「え? あの、はい、ご迷惑でなければ」
「うむ。賑やかな方が、あれも喜ぶだろうからな」
 大きな身体に似合わず、武人の箸使いも美燕に劣らず上手い。
「みーちゃんのお味噌汁、美味しいねぇ」
 なにを食べる時もそうだが、特に大勢で食事する時の葉弥乃はとても幸せそうだ。
「そうですねぇ」
 静流も同じくらい幸せそうに同意する。
 士郎は今日もいない。
 
 輝く白さが抜け、暖かみのある赤が混じり始めた日の光が照りつけている。
 諏訪家の墓は、安?寺(あんりやくじ)という寺にあった。
 寺の歴史は古いらしく、本道を見る限り築百年では足りなさそうだ。
 武人達は本堂前で手桶に水を汲み、本堂裏手の墓地に向かった。結構な広さのある墓地は砂地で石畳などは敷かれておらず、少し歩きにくい。
 お盆初日なのだが、まだ陽が高いせいか綺麗に掃除された墓地にはほとんど人影が見えず、香の匂いもまだそれほど濃くない。
「早い時間に来て良かったねぇ、おじさま」
 お供えの花束を抱え直して葉弥乃が言った。
 両親がほとんどの期間海外にいて帰国が不定期な一ノ瀬家では、お盆の墓参りという習慣が無い。一ノ瀬家と諏訪家は古い付き合いであるし、個人的に知っている人物が葬られていることもあり、葉弥乃は毎年諏訪家の墓参りに同行している。
「うむ、去年は車が多くて往生したからね」
 本堂の横を抜けたところでふと見ると、林立する墓石の間を縫うように歩きながら、所々で足を止めて経を上げている老僧の姿があった。
 禿頭に真っ白い立派な髭を蓄えたその老僧は、武人に目をとめて、柔和な表情で手を合わせつつ頭を下げた。
 武人も、ゆるゆると歩み寄ってくる老僧に礼を返す。
 目の前までやってきた老僧は改めて礼をして、諏訪家一行をぐるりと眺めた。
「ご無沙汰しています、住職」
 山羊のような見かけの住職は、笑みを返しつつ頷く。
「うん、この前掃除に来られた時には、会えなくて残念だったよ。そちらのお嬢さんは初めてだね?」
 細い体格ながらも渋味と張りのある声で、住職は美燕に尋ねた。
「はい、初めまして。上泉と申します」
「また、うちの寮を再開することになりまして。その最初の店子です」
「ほ、そうかえ。お嬢さん初めまして、わしはこの寺の住職をしとる応胤(おういん)というものだ。時に、上泉という名は?」
「住職のご想像通りです」
 問いかけの内容を察した武人が答えると、応胤は嬉しそうに破顔した。
「そうかえ、そうかえ。あの屋敷もまた賑やかになるの。ほんに、よいことだ」
 何度も頷いてから葉弥乃や静流にも一声掛けると、ひとつ手を合わせ、応胤はまた墓石の間へと戻っていった。
 何気なくその後ろ姿を眺めていた美燕は、応胤の足下が、砂地の上だというのに、石畳の上を歩いているように安定していることに気がついた。
「さすがに目敏いね、みーちゃん」
 美燕が応胤の歩き方に目を取られていると、その様子に気がついた葉弥乃が声を掛けてくる。
「あのご住職様、槍の達人だよ。もう随分前に引退したそうだけど」
 なるほど、と納得した美燕は、先に歩き出していた武人の後を追った。
 郊外にあるせいか、安?寺の墓地はかなり広い。その敷地の奥に、諏訪家の墓はあった。墓地全体に管理が行き届いており、諏訪家の墓の周りも綺麗に掃除されていた。
 二つ並んだ御影石の墓は、片方が諏訪性で、もう片方は荒木性。
 武人が言うには、荒木という人は屋敷の元持ち主で、武人にとっては義理の叔父に当たる人なのだそうだ。
 砂地に根を張った黒松が枝を伸ばし、僅かな日陰を石の上に落としていた。
 少し前まで誰かがいたのか、二つの墓前には花が供えられ、短くなった線香が白く細い煙を青空に伸ばしている。
 武人達はそれぞれに持ってきた雪洞(ぼんぼり)や花などの供え物をし、線香と水を上げてひとしきり手を合わせた。
「家内は健康だけが取り柄だ、というのが口癖でね」
 合わせていた手を解いて、墓を見つめながら呟くように武人が言った。
 それが自分に向かって言われていることが解った美燕が、居住まいを正す。
「出産の時以外は病院にかかったこともなく、逆にいつも怪我ばかりしている私の心配ばかりしていた。だからなのだろうか、知らないうちに無理を重ねていたのだろうね。あっけないものだった。せっかちなとこともあったからね、私のことも待たずに、簡単にいってしまったのだよ」
 武人は静かに、すうっと立ち上がり、美燕を振り向いた。やや武骨な造りの顔に、優しく大きな笑顔が浮かんでいた。
「家内は賑やかなのが好きでね。美燕くんが来てくれたことも、きっと喜んでいると思うよ」
 どういう顔をすればいいのか解らない美燕は、ただ黙って頭を下げた。
 その後、帰り支度を済ませて本堂まで戻ってきたところで、武人は住職と少し話をしていくと言って本堂に向かい、美燕達三人は本堂横の集会所でそれを待つことになった。
 しばらくそうしていると、住職の奥さんらしい老婦人が冷たいお茶とお菓子を持ってきてくれたので、三人は腰を落ち着けることにする。
「好きなだけ飲んで構わないからね。足りなければ、新しいものを持ってくるから」
「ありがとうございます」
 愛想のいい老婦人から、山盛りの菓子とピッチャーごと出された茶を受け取り、美燕達は礼を言って頭を下げた。
「暑さ寒さも彼岸まで、とかいうけど、お盆になったばっかりじゃまだまだ暑いね」
 冷茶をそれぞれのコップに注ぎなから、葉弥乃は言った。どうやら水出しらしい緑茶からは、爽やかな香りが漂っていた。
「彼岸って、秋分の日のことでしたっけ?」
「春分の日と秋分の日の、前後一週間のことだそうですが」
「物知りだねぇ、みーちゃん」
 ここしばらく、何度となく繰り返されている他愛ないやりとりが少し続き、不意にふつりと会話が途切れた。
 それを良い頃合いと見たのだろう、美燕が単刀直入に切り出した。
「あまり立ち入ったことを訊くのも失礼とは思うのですが……。なぜ、士郎さんは、来られなかったのですか?」
 美燕の表情は静かだったが、声の調子にほんの少し怒りの色が混じっている。
 いつかのように、葉弥乃と静流が顔を見合わせた。
「出発する時に、誰も探そうとしませんでした。初めてではないのですね? 士郎さんが来られないのは」
「うん、そうだけど」
 美燕が苛立っている理由に見当がつかないのか、葉弥乃が不審そうに答える。
「士郎さんは、お母様とも折り合いが悪かったのですか?」
「んーん、そんなことないよ。あたしもちっちゃいころ可愛がってもらったけど、覚えてる限り凄く優しい人だったし。士郎がおばさまを嫌う理由なんかないはずだけど」
 きゅっと美燕の眉根が寄る。
「ならば、どうして来ないのですか。故人に対して礼を欠いていると思うのですが。武人さんは立派な方だというのに、そのご子息であるところの……」
「あの」
 棘のある口調で言い募ろうとした美燕を、静流の小さな声が遮った。
「お兄ちゃんは、お母さんのお墓参りに来たくないわけじゃないんです」
 向けられる美燕の視線を受けながら、困った顔で静流は続ける。
「さっきお墓に、お花とお線香が供えられてましたよね? あれ、多分お兄ちゃんです。お兄ちゃんがお母さんを粗雑に扱うなんてこと、絶対にありませんよ。……お兄ちゃんは、お父さんと一緒にくるのが嫌なんです」
「武人さんと?」
「お兄ちゃん、お父さんとあまりうまくいってませんから……。お父さんの方は、お兄ちゃんが可愛くてしょうがないみたいですけど」
 美燕の眉間の皺が深くなる。
「……なにが不満なのですか?」
「え?」
「士郎さんは、なにが不満なのですか? 武人さんからは後継者として望まれ、故人とはいえ優しいお母様がおられて、とてもいい方々に囲まれて。一体、なにがそんなに不満なのですか?」
 語気が荒くなる。
 目の前にいる葉弥乃や静流が悪いわけでもないのに、苛つきが口をつく。
「私には理解できません……!」
 美燕の吐き捨てるような口調に、静流が傷ついたような、怯えを含んだ顔になる。
「みーちゃん?」
 取り立てて大きな声では無いが、はっきりと咎める響きのある葉弥乃の問い掛け。
 はっ、と我に帰った美燕は、子供を叱る母親の目をした葉弥乃と目が合う。
「どうしたの? ちょっと、らしくないんじゃない?」
 そう言われて、初めて萎縮した様子の静流に気付き、美燕は罪悪感に駆られる。
「……すいません、言葉が過ぎました。でも、やはり、納得できません」
 気まずい沈黙が降りる。
 だが、それからすぐに武人が戻ってきたので、その話題はそのまま済し崩しに終わったのだった。
 
      **********
 
 一般的には北国に属するこの地方では、お盆に入ると早くも暑さの質が変わってくる。
 どこがどうというわけではないが、日差しの中にほんの少しづつ秋の匂いが混じってくるのだ。
 しかし、たとえ暑さの質が変わろうとも、暑いことには変わりがない。
 例によって暑さが苦手な士郎は、稽古場の床にへばりつくようにして俯せになり、暑さをしのいでいた。
 稽古場は風通しがよく造られていて、窓を全部開け放つと随分涼しくなる。その上で床に寝転ぶと冷たくて気持ちいいのだった。
 同じく士郎の隣では、蘭が溶けたように平たくなっている。
「たのもー」
 気の抜けた声が、稽古場の入り口からかかる。
 士郎が首をねじって声の方を見ると、コンビニの袋と刀袋を下げた水上が、よっ、と片手を上げて挨拶してきた。
「相変わらずダレてるなぁ」
 サンダルを脱いで稽古場に上がってきた水上は、士郎のすぐ隣であぐらをかくと、コンビニの袋を開いた。
「ガリガリ君とホームランバー、どっちかいい?」
「バニラバー」
「家の人たちの分は冷蔵庫に入れておいたからな」
「ひとんちに勝手に上がるな」
「そういうことは、ちゃんと戸締まりするうちの人間が言うことだと思うけどな。なんか盗りに入ったどころか、お土産置いてきたんだし」
「冗談だよ」
 士郎は億劫そうに起き上がり、のろのろとアイスの包み紙を剥がし始めた。
「他の人たちは墓参りか?」
「多分そうだろ」
「いい加減だな。家の人間がなにしてるか知らないのか?」
「あんまり、家にいないんでね」
 蘭がガサガサと音を立てて、アイスの冷気が残っているビニール袋に頭を突っ込む。
「そういや訊いてなかったけど、どうなったんだ?」
「なにが?」
「うちの店子と」
 四角く青いアイスの角をかじりとり、ああ、と水上は頷いた。
「空振り、かな」
「ふうん。どうでもいいけど、お前も酔狂な奴だよな」
「ん?」
「好きこのんで、相手を探す必要もないだろうに」
「お前にも、わかんないかね。真剣勝負、したことないのか?」
「週に最低四回は親父とドツキ合ってるけどな。少なくとも、俺はいつも本気だぞ。親父はどうだか知らんけど」
「そうじゃない、仕合さ」
「試合?」
「仕合」
「なんか違うのか?」
「意味が違う。一度でも、そう言える勝負をしたことがあるなら、解るさ。そうだな、ちょっとやってみるか? 一度、お前とはやってみたかったからな」
 軽い口調だが、明らかに本気がこもっている。
 糸目の瞳が僅かに色を変え、左手が刀袋に伸びていた。
 それに気付いていないわけではないだろうが、士郎はつまらなそうに目を細めた。
「やめろよ。前にも言ったろ、俺は拳(これ)に一生を捧げるつもりなんか無いんだ。目的を達したら、すぐにでもやめるつもりだってな。……俺は、お前らみたいにはならないし、なれないよ」
 複雑な感情の動きがこもった士郎の言葉に、水上は雰囲気を和らげ苦笑いする。
「つまらん奴だな。お前の目的ってのを訊いたこと無いけど、色々な人間とやるのはその目的とやらにも役に立つと思うんだけどな。ま、お前にはお前の考えがあるんだろうけどさ」
「悪いな」
「悪いと思うなら、少しはつきあえよ」
 唇を尖らせる水上に、ひとしきり笑い声を上げると、士郎はふと振り返った。
「どうした?」
「親父達、帰って来たみたいだな。葉弥乃んちの車の音がする」
「お前耳良いな」
 首を傾げながら耳を澄ませていた水上は呆れたように言って、じゃれつく蘭からビニール袋を取り返し、アイスのゴミを入れて立ち上がった。
「帰るのか?」
「ああ、近くまで来たから寄っただけだしな。上泉さんはあんまりオレと顔合わせたくないだろうし。お盆に長居するのも悪いだろ。また改めて寄らせてもらうよ」
 じゃあな、と立ち去る水上を見送り、士郎はまた横になった。
「もう一眠りするか……」
 
     **********
 
「士郎さん、少しよろしいですか?」
 うつらうつらと舟を漕いでいた士郎は、その棘を感じる声に起こされた。
「……ん?」
 士郎は寝ぼけ眼をしばしばさせながら上体を起こす。床に押しつけていた顔に、くっきりと床の継ぎ目がついていた。
 窓からの日差しが落とす影の位置があまり動いてないところを見ると、二度寝してからそれほど時間が経っていないようだ。
「あんたか、なんか用かい?」
 眠たそうな表情であぐらをかく士郎を厳しい目付きで見下ろし、美燕は口を開く。
「お話があります」
「はなし? ……なに?」
 妙な雰囲気を察したのか、士郎の顔が警戒を滲ませる。
「なぜ、皆と一緒にいかないのですか?」
「は?」
「お母様のお墓参りのことです」
 眉間に皺を刻んだ美燕が鋭く厳しい口調で問い正す。
 士郎にとってあまり嬉しくない話題な上、妙に喧嘩腰なのも士郎の気に障った。
「あんたには関係ないだろ」
 返す士郎の声と口調にも不機嫌さが隠せない。そのぶっきらぼうな物言いに、美燕の表情もさらに険しくなる。
「確かに直接の関係はありません。ですが、だからと言って目前で行われている不義理と見逃すことはできません。一体なにが不満なのです。ご自分がいかに恵まれているのか、解っておられないのですか!」
 後半はほとんど怒鳴るように口調が荒くなる。
 完全に眠気の去った士郎は激昂しかけたようだが、すぐにそれを押し殺した士郎は黙って立ち上がった。
「どこにいかれるのですか? まだ話は終わっていません!」
 美燕の追求には答えようとせず、士郎はすれ違いざまに、無理矢理押さえ込んだ怒気に溢れた言葉を吐き捨てた。
「なにも知らないくせに勝手な事言うんじゃねえよ、お嬢様がっ……!」
「っ?!」
 一触即発の気配が膨らむが、士郎はそのまま振り向かずに稽古場を後にした。
 後には、火の出るような目でそれを見送る美燕と、お互いの腹の底に沈んだゴロゴロと角張った怒りだけが残った。
 
 
 また幾日が過ぎ、夏休みも終わりに近づいてきた頃、町に祭りの日がやってきた。
 この町には年間に何回かの祭りがあるが、この辺りの一の宮、諏訪神社で行われるこの夏祭りが一番盛大で、地元の人間は皆この祭りを楽しみにしていた。
 そして、そういうイベントが好きな人間がここにも一人。
「さあさあさあ! 登り台輪も見たし、今日からは遊ぶわよ〜〜!」
 不必要に力強いガッツポーズで葉弥乃が吠える。
 祭り初日の早朝、まだ静謐な空気が残っている人通りの少ない路地を、諏訪家一行は家路についていた。
 神社の境内に大きな台輪が集う登り台輪を見物した帰りである。
 大きく派手な台輪に関わらず、静かな行列はどこか厳かな雰囲気を持っていて、初めてそれを見た美燕は、なかなか興味深く眺めることが出来、それなりに満足していた。
「だからなんでそんなに元気なんだよ、お前は……」
 今にも倒れ込んで寝てしまいそうな様子の士郎が、目をしばしばさせつつ呻くように言った。どうも、朝は苦手なようだ。
「人生にかける気合いが違うのよ、気合いが。ね、みーちゃん?」
「え、あ、はい、そうですね」
 突然話を振られた美燕は、ちらり、と一度士郎の方へ振った視線をすぐに戻し、曖昧に頷いた。
 少し前の一件から、もともと仲がいいわけでは無かった士郎との関係は、より一層ぎくしゃくしたものになっている。
 葉弥乃なり静流なりはそれを感じているのだろうが、原因が判らない二人にはどう触れていいものか判断がつかないようで、手を出しあぐねている様子だ。
 幸い、士郎と二人きりになったりする機会もないし、今のところは進退窮まっているようなわけでもないので、そのままずるずると来ている。
「で、どうする? お昼から見て回ろうか。それとも夕方からにする?」
「そうですね……せっかく葉弥乃に見立てていただいた浴衣がありますので、夕方からの方がいいかと」
「静流ちゃんは?」
「わたしもそれで良いと思います」
「んじゃ、そうしよう。五時頃迎えにいくから、それでいい?」
 葉弥乃の言葉に美燕と静流が頷くと、士郎がぽつりと訊いた。
「俺には訊かんのか?」
「あんたはどーせ起きたら型抜きでしょうが。訊くだけ無駄よ」
「……祭り小遣いくらい稼いだ方がいいだろが」
「祭り小遣いはやっただろう。足りんのか?」
 一行の最後尾で、子供達のやりとりを微笑ましく眺めていた武人が、士郎の言葉に不思議そうに首を傾げる。
 一瞬言葉に詰まった士郎は、ふい、とそっぽを向いて、素っ気なく言った。
「指先使うのが好きなだけだよ」
「葉弥乃、型抜きとはなんですか?」
「みーちゃん見たことない? 祭りに出るちょっとしたゲームみたいなもんよ。出店回る時に、ちょっと寄ってみようか。見た方が早いし」
 他愛のない会話を交わしながら、一行はのんびりと歩いて行く。
 朝日は色を濃くしていく。
 今日は良い天気になりそうだった。
 
「さ! まずはざっと見て回りましょうか!」
 神社前の大通りにずらりと並んだ出店を前に、葉弥乃が溌剌とした声を上げる。
 なんだか本当に嬉しそうな様子で、今時小学生でもこれほどテンションを上げないだろうと思うほどだ。
 いい加減そういう彼女のノリに慣れてきてはいるものの、なんとなく苦笑いを浮かべつつ、境内に足を運ぶ葉弥乃と静流の後を美燕は追った。
 広い境内にはそれぞれの町内が保有する台輪が何台もずらりと並び、なかなかに壮観な眺めだった。オレンジ色の光に照らされた神社の鳥居内にも多くの出店が並び、よく賑わっている。
 本殿に賽銭をあげてお参りを済ませた葉弥乃一行は、夜店を片端から見ていくことに決めて歩き出した。
 夜店巡りの面子は、葉弥乃、美燕、静流の三人。もちろん浴衣着用だ。
 ちなみに士郎は帰宅後二度寝したかと思うと、昼頃起きてきてふらりといなくなってしまい、武人は町内会の飲み会に呼ばれているとのことで、今日は帰りが遅くなるそうである。
「なにか軽く食べようか?」
 大通りの夜店に比べて飲食系が多い境内を見回す葉弥乃の浴衣は、薄紅色基調に朝顔の模様があしらわれたもので、赤い帯は雲雀(ひばり)に結ばれている。腰に当てた手からは、桃色の巾着が揺れていた。
「甘い物の方がいいです」
 おでんや焼きそばなどの、しょっぱい物中心の夜店を覗きつつ、静流が答える。こちらは白地に金魚柄の浴衣で、グラデーションのかかった帯は、蝶々の羽のような四つ葉。
「みーちゃんは?」
「私は、よくわからないのでお任せします」
 美燕の浴衣は葉弥乃と同意匠で、薄い水色基調の涼しげなものだ。帯は鮮やかな青。美燕は浪人結びしか知らなかったので、例によって葉弥乃とのすったもんだが少々あったのだが、今は葉弥乃と同じく雲雀に結んでいた。
 着慣れていない、というか慣れない帯に違和感があるのか、どこかぎこちなさが残っていて少々浮いた感じを受ける。水着の時にも身の回りから離さなかった刀袋がそれに拍車をかけているのは確かだが。
「んじゃ、適当に見て回りながら、美味しそうなのがあったらつまむってことで」
 沈みかけた太陽が空を赤く染め、そろそろ人が増え始める時間になりつつある。
 やはりというかなんというか、三人の夜店巡りは食べ物中心となった。それはもう、食い倒れるつもりかと思うほどの喰いっぷりだった。
 最初が甘い物だっただけで、その後は、お好み焼き、明石焼き、おでん、焼きそば、フランクフルト、シシカバブ、ホットドッグ、伸しイカ、ラムネ、フラッペにアメリカンアイス。さらにはリンゴ飴やアンズ飴、べっこう飴のの定番からチョコバナナ、ローカルな蒸気パンなどに至るまで。一人一つずつ食べたわけではないものの、見ている人間が少し引いてしまうほどに手当たり次第だ。
「あれ? 一ノ瀬じゃないッスか」
 聞き覚えのある声に三人が振り向くと、紺の浴衣姿の見覚えがある糸目が近づいてくるところだった。
「おお、今日は三人とも浴衣なんスね。可愛いッスよ」
 すいすいと人混みを避けてきつつ如才なく褒め言葉を口にする水上の後ろから、少しキツめの目元が特徴の、赤い浴衣に緑色の帯という出で立ちの少女が、水上の背中に不機嫌そうな視線をぶつけながらついてきた。
 ポニーテールを揺らしたその少女が、美燕に気付くとなにやら複雑な顔をしたのに美燕は気がついたものの、美燕の方は少女に見覚えが無い。
「この間はどうも」
 その少女は美燕の前まで来ると、美燕の顔色を窺いつつ頭を下げた。
 その声に聞き覚えがあるような気がするものの、まだ訝しげな表情を浮かべる美燕を見た水上が、少女を肘で軽く小突いた。
「誰だかわかってないみたいッスよ。確か、上泉さんに顔見せてなかったっスよね?」
 言われて、少女が慌てて自己紹介する。
「ご、ごめんなさい。わたし、須藤旭子(すどうあきこ)です」
「須藤? ああ、あの時の」
「その節は、その、勉強させていただきました」
 改めて頭を下げる須藤。
「いえ、こちらこそ……」
 美燕の語尾が曖昧に揺れる。
 妙な間が空きそうになったところで、葉弥乃が思い出したように訊いた。
「そういえば水上、あの馬鹿見なかった?」
「士郎っスか? 昼間は神社横の型抜き屋にいたっスけど、会わなかったスか?」
「覗いてみたけどいなかったよ。もう帰ったかな」
「ハシゴしてるんじゃないっスか? あいつ稼ぎすぎてよく追い出されてるっスから」
「ふうん、ま、いいわ。じゃ、あたし達もういくから。あんた達も楽しんでね」
「うっス」
 別れ際に美燕へ一つ会釈をして、水上達は神社の方へ歩いて行った。
 夜店周りを再開した葉弥乃達は、その後もそれなりに知った顔と行き会ったが、美燕に見覚えがあったのは最初にあった二人だけだった。
 葉弥乃が言うには何人かクラスメイトもいたそうだが、美燕にはさっぱり判らなかった。ほんの何時間くらいしか教室にいなかったし、会話もろくに交わさなかったのだから、仕方がないと言えば仕方がないが。
 そして夜店の列が途切れる商店街の終わりにつく頃には、随分遅い時間になっていた。真っ直ぐくればそれほどの距離ではないが、一つ一つの夜店を覗いてきたので、少し時間が掛かったのだ。
「どうする? お城の方まで足伸ばしてみようか?」
 変身ヒーローのお面を斜めに被り、黒い出目金の入ったビニール巾着と水風船を下げた、これでもかというお祭りルックの葉弥乃が、二人に訊く。
「そうですね。飲み物でも買って、少し休みにいきましょう。美燕さんもそれで?」
「はい」
 葉弥乃と大差のない様相の静流に、美燕が頷く。美燕は生き物系や玩具系には手を出さずに見てるだけだったので、ほとんど荷物は増えていない。
 祭りの喧噪からやや離れてしばらく歩くと、公園のように開けた場所に出た。
 広く大きなお堀と、歴史を刻む城壁に残った物見櫓が、控えめな照明の中に浮かび上がっている。この町にある城は、すでにその本体を失っており、堀に正門、物見櫓の一つだけが完全な形で残っていた。正確には城ではなく、城跡と呼ぶべきだろう。
 お堀周りの遊歩道には桜の木がずらりと並んでいて、その枝振りから春にはさぞ見応えがあるだろうと思われた。
 ちらほらと人影が見えるが、休憩には神社近くの公園の方が向いているせいか、それほど多くはない。
 物見櫓までは自由に出入りできるのだ、と葉弥乃に説明されながら、遊歩道にある石造りのベンチに並んで腰を掛ける。
「結局全部見てしまいましたね」
 ライトを反射するお堀内の噴水を眺めて、美燕が息をついた。
「うん。でも、お祭りの間、少しだけど夜店の内容も変わるし、昼間にはイベントもあるから」
 冷たいお茶の缶を開けながら、ご機嫌な葉弥乃が答える。
「葉弥乃、それに静流さん」
 改まった美燕の声に、二人は茶を飲む手を止めて顔を向けた。
 美燕は立ち上がると、二人に向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
 不意に示された感謝の言葉に、葉弥乃と静流は顔を見合わせた。
「知り合って間もないというのに、お二人には本当に良くしていただいています。こんな言葉だけでは、全然足りないとは思いますが……」
「なに言ってんのよぅ、みーちゃん」
 ほのかな外灯の光に、葉弥乃の優しい笑顔が照らされる。
「最初にお世話になったのはこっちだもの。そんなの恩返しにもならないよ。だってこっちもみーちゃんと一緒にいるのは楽しいもの。ねえ?」
 葉弥乃に話を振られた静流も笑顔で頷く。
 表情にも、言葉にも、真情と優しさが溢れていた。
 じわり、と美燕の胸の内が暖かくなる。
「……ほんとうに、ありがとうございます」
 もう一度ゆっくりと、美燕は頭を下げた。
 長い年月そこに佇んでいた物見櫓は、ささやかな灯りに照らされ、それを見下ろしていた。
 
     **********
 
 士郎が歩く度に、アーミーパンツのポケットがジャラジャラと鳴る。
 昼前から繰り出してハシゴを繰り返したので、祭りの間充分遊んでいられる小銭が稼げてしまった。
 食べきったアンズ飴の串を咥えたまま、ふらふらと夜店を冷やかして歩く。
 葉弥乃達とどこかで擦れ違うかと思っていたが、行き違ったらしく見かけなかった。
 ふと伸しイカの匂いが鼻をくすぐり、蘭に買っていってやろうかと一瞬思ったが、すぐに猫はイカが食べられないことを思い出す。
 立ち止まって見回すと、何人かが並んでいる蒸気パンの屋台が目に入った。
「土産でも買っていくか」
 蘭には後でコンビニから猫缶でも買っていってやろうと思いつつ、士郎は列の最後尾に並んだ。
 
     **********
 
 祭り中日の夕方。
「あれ?」
 今日は文化会館で行われるイベントを見に行く為、諏訪邸へ迎えに来た葉弥乃が、玄関から出てきた美燕を見て、思わず口にした。
「いつものやつ、どうしたの?」
 昨日と同じ浴衣姿の美燕の手には、いつも携えている刀袋が無い。
 問われた美燕は、少しぎこちなく笑った。
「もう、必要のないものですから」
「ふうん?」
 いまいち納得のいかない顔ながら、葉弥乃はそれ以上訊ねなかった。
 
 落ち着かなさげに左手を握り、開く。ぶらぶらと振って、帯の辺りを意味もなく触る。
 イベントの行われる文化会館は、商店街通りの中程で大きな十字路を曲がったところにある。商店街通りは今日も人通りが多いものの、多少離れて歩いたところではぐれてしまうほど混雑もしていない。
 美燕は、並んで歩く葉弥乃と静流から、一歩下がって歩いていた。
 左手の軽さに、そこはかとない不安を感じる。
 今までも持ち歩かない日はあったはずなのに、言いようのない感覚がずっとついて回っていた。
 仕方ないと言えばそうなのだろうが。
 きっと、そのうち慣れるだろう。慣れなければいけない。そう美燕は自分に言い聞かせる。
「どしたの? みーちゃん」
 いつの間にか、二人との距離が離れていた。美燕は、なんでもありません、と首を振って、足を速めた。
 今日文化会館で行われるイベントは浴衣美人コンテストだ。かなり時間的な余裕を見て家を出たはずなのだが、葉弥乃達が会場に着いた頃には席が全部埋まっており、立ち見になってしまった。
 大盛況の会場は美人コンテストということで男性客が大半だが、女性客も意外に多い。
 やがてコンテストが開始されると、充分空調が効いているはずの館内がぐっと熱気に包まれ、プログラムが進むごとにボルテージもどんどん上がっていく。
「な、なんだか凄いですね」
 大量の人間というものにもとから慣れていない上に、大がかりなイベントというのが初めての美燕は、気圧されながら呟く。
「あはは、この町の人って、お祭り好きが多いからね」
 お祭り好きの筆頭が、美燕の反応に笑いながら答える。
 ふと、ステージ上の一際華やかな女性が、壁際で立ち見をしている美燕達に気付いて、小さく手を振ってきた。
「?」
 見覚えが無い相手に首を傾げていると、葉弥乃と静流が女性に手を振り返す。
「お知り合いですか?」
「『ぶらうにー』の店長だよ」
「え?」
 慌ててステージ上の女性を見直す美燕。確かに、いつもと化粧の仕方が違うのでパッと見には分かり難いが、確かにあの洒脱な女店長のようだ。
「本当ですね」
 感心が溜息のように口から漏れる。
「あの店長もお祭り好きだから。こういうイベントがあると必ずいるのよね」
 葉弥乃のその言葉に、美燕は首を傾げて訊いた。
「葉弥乃もお祭りが好きなのでしょう? どうして出場しなかったのですか?」
「あたし? あははは、柄じゃないって。それにこのコンテスト、参加資格が高校生以上なのよ。あ、そうだ、みーちゃんのことエントリーしておけばよかったかな。みーちゃんなら高校生で通っただろうし、書類審査なんていい加減なもんだしね」
「そんな、私なんて……」
「みーちゃん」
 じっと自分を見つめる葉弥乃の目に、美燕は言葉を途切れさせた。
「『私なんて』とかって言葉、使わない方がいいよ。それは悲しい言葉だから。ね?」
 小さな子供に言い聞かせるような優しい声色に、美燕はちょっと赤面しながらステージに目を戻した。
 ふと、ほんの一月前この町に着たばかりの時、駅前の観光案内所で、このコンテストのポスターを見たことを思い出す。
 あの時は想像すら出来なかった浴衣姿。他人にどう見えているかはともかく、自分はその姿で今ここにいる。
 このまま変わっていければいい、そう思った。
 
 突然、木材が叩きつけられる音と、ガラスの割れる音が通りに響く。
 コンテストを見終えた美燕達が、喫茶店前の長椅子でかき氷を食べていた時だ。
 騒音の元は少し離れた駐車場に設けられた露店の飲み屋で、三人が駆けつけた時には、すでに人だかりができていた。
 葉弥乃が野次馬の一人をつかまえて、何事か尋ねる。
「おう、葉弥乃ちゃんか。なに、酔っ払いの喧嘩だよ」
 顔見知りだったのか、痩せぎすの中年男は愛想良く答えた。
「けんかぁ? 珍しいねえ」
「ああ、余所もんみてぇだな」
「じろじろ見てんじゃねえぞ、コラァ!」
 葉弥乃と中年男のやりとりが、酔っ払いの下品な怒鳴り声で遮られる。
 その品というものが感じられない声に、美燕の眉がぴくりと小さく動いた。
「なんかあったんスか?」
 意外なほど近くで聞こえた声に、美燕が驚いて振り向くと、刀袋を肩に担ぎ持った浴衣姿の水上が片手を上げて挨拶してきた。
「ういっス。よく会いますね」
 見慣れてきた糸目が、笑みの形に変わる。
「あれ? 今日はお一人ですか?」
 静流の問い掛けに、水上は愛想良く答える。
「旭子を家まで送ってきた帰りっス。それより喧嘩っスか? まだ誰も止めに入ってないみたいっスね」
 きらん、と糸目が光る。
 引き続き別の野次馬の一人と会話を交わしていた葉弥乃が、水上を目にとめて言った。
「あ、水上。ちょうど良かった。なんか、止められる人間が出はからってるみたいなの。頼める?」
「OKっス。ほんじゃ邪魔が入らないうち……もとい、怪我人が出ないうちにオレが止めてきましょう」
 嬉しそうな笑顔を浮かべて刀袋の口紐を解きつつ、水上は現場に足を向ける。
 美燕は慌ててその背中に声を掛けた。
「水上さん、私も」
「駄目っス」
 助太刀します、と口にしかけた美燕の言葉を、水上は即座に斬って捨てた。
「深くは訊かないッスけど、上泉さんは手を出さない方がいいんじゃないっスか?」
 肩越しに言われた水上の言葉に、美燕は今の自分が無手だということに気付く。
「大丈夫です、無手でも多少の心得は」
「そうじゃないっス」
 またも全部を言わせずに被せる。
「上泉さんは、手を出しちゃ駄目っス。決めたんじゃないっスか?」
 静かな声に、美燕ははっと胸を押さえた。
 水上は、ほんの少し寂しそうな笑いを見せる。
「ま、ここはオレ一人で充分っスよ」
 言うが早いか、水上の背中は野次馬の向こうに消えた。
「任せておいて大丈夫よ。みーちゃんほどじゃないけど、あいつだって強いんだし」
 葉弥乃の声が、遠くから聞こえたような気がした。
 その時美燕の心を支配していたのは、なぜか自分が置き去りにされたような、深い寂寥と孤独だった。
 そしてこの騒動は、水上が割って入ったことであっけなく解決した。
 
         五
 
 美燕は一人、人混みに逆らって歩いていた。
 夜の駅前通りは、三日続いた祭りの締めである帰り台輪を見に来た観客で溢れかえっていて、その人混みをかき分けるように美燕は城方面に向かっていた。
 諏訪家の面々と帰り台輪を見に来たのだが、 商店街通りから駅前通りに出た辺りで、気がついたらはぐれてしまっていた。
 昨日から注意散漫になっていたことに加え、観客のあまりの多さに、はぐれたことに気付くのが遅れてしまった。慌てて一行を捜して歩き回ったものの、周りは観客でごった返しているし、運も悪いのかまったく見つからない。
 しばらく商店街通りの辻で一行が通らないか待っていたが、その気配もなかった。
 一応諏訪家の電話と葉弥乃の携帯の番号を知っているので、いざとなればそちらに連絡すればいいと思い直し、丁度一人になりたかったこともあり、美燕は雑踏に一人歩み入った。
 まだ帰り台輪が始まるまでには時間があるので、人が多い割には流れが滞っていないが、流れに逆らって歩くのはそれなりに骨が折れた。それでもなんとか人混みを抜けて城まで出た美燕は、大きく深く息をつく。
 皆、帰り台輪を見るために通りの方に行っているのだろう、城周辺は昨日に増して人気が無い。開け放たれた城門が目に入った美燕は、なにかに誘われるように門を潜って中に入った。
 城内は外と同じく人気が無い。申し訳程度の照明が、物見櫓の入り口までを照らしている。
 櫓と入っても小さい城のような造りで、古ぼけた階段をきしませつつ上に上がると、八畳程度の広さの物見部屋も無人。
 高さもせいぜいビルの三・四階程度しかなく、見下ろすというより横に眺めるような感じだ。祭りや通りの灯りは見えるが、それも灯り程度しか見えなかった。
 自分以外には誰もいない。
 それが随分久し振りだということに美燕は気付く。
 諏訪邸に来てからというもの、常に誰かしらが側にいたので、それに慣れていた。
 それはけして不快なことではなく、煩わしくもない。むしろ、そのおかげでどれだけ救われているかわからない。そう、葉弥乃や静流には感謝している。嘘ではない。
 だが、それでも。
 美燕は自分の左手を見下ろす。
 そこには、昨日は手にしていなかった紫の刀袋が握られていた。
 持ってこようと意識したわけではない。物思いに耽っていたために、無意識に持ってきてしまったのだ。
 長年の習慣は、一朝一夕には無くならない。
 刀袋越しの堅い感触に、慣れ親しんだ安心感が広がる。たった一日手放していただけなのに、自分がどれだけ不安を感じていたのかを自覚する。
 首を回して、美燕は物見窓を見た。
 当然ガラス戸など無く、板戸が開けっ放しの窓だ。
 微かにお囃子の音がそこから入ってくる。帰り台輪が始まったらしい。
 黒ずんだ木の手すりに手を掛けて窓から通りの方を眺めると、神社の方から灯りがゆるゆると伸びていくのが見えた。
 その暖かな光は、美燕の中から一つの記憶を呼び覚ました。
 それは、古い、古い記憶。
 その日も、遠くに祭りの灯を見ていた。
 
 美燕が物心ついたばかりの頃。
 最初で最後、父が遊びに連れていってくれた時の事。
 近隣の村々が共同で行う大きな祭りの中、生まれて初めての人波とそれが生み出す雰囲気に酔った少女は、気がつくと人混みの中で一人になっていた。
 一人になった少女の興奮は、簡単に恐怖へすり替わった。
 父を呼びながら、その姿を探す。
 少女に対して手を差し伸べようとする者もいたが、怯えた少女の目に、見知らぬ人の手は恐ろしいものにしかうつらなかった。
 泣きながら父を捜し、見知らぬ手から逃げ、走り続けた少女は、いつの間にか祭りから離れた石段の上で立ち尽くしていた。
 辺りは暗く人気もない。
 ただ遠くを流れる河のような祭りの灯が見えるだけだ。
 孤独と恐怖から抜け出そうとした少女は、さらに深みへはまったことを知った。
 暗闇と空腹が少女の内へ染みいってくる。
 少女はうずくまって啜り泣き始めた。
 大きな声で泣くほどの体力は残っていなかったし、自分の声が暗闇から何かを呼び寄せてしまうような気がしたから。
 どれだけの間そうしていただろう。不意に闇の中からかけられた声に、少女は涙と鼻水でグシャグシャになった顔を上げた。
 目の前に父がいた。
 とても、怖い顔をしていた。
 怒られる、と思った少女は、父が手を伸ばすのを見て、目を閉じて身を竦めた。
 しかし、父は少女をぶつわけでも叱るわけでもなく、ただ何も言わずにその手をとり、ゆっくり石段を下り始めた。
 父の顔にどんな表情が浮かんでいるのか、少女からは見えない。
 安堵から、少女はまたしゃくり上げ始める。
 父はやはり何も言わず、ただほんの少し強い力で少女の手を握っていた。
 それは、どんな言葉よりも頼もしく、確かな感覚で。
 その手は、とても暖かかった。
 
 捨てられるわけがない。
 握り続けた剣は、あの日の父の手だった。
 辛い鍛錬に耐えてこられたのも、それを手放すことで、また孤独の中に落とされるのが怖かったからだ。
 剣を握り続けること、強くなり続けることで、孤独から逃げ続けてきたのだ。
 そうして過ごした日々は、美燕の一部、血となり肉となった。
 剣を捨てるということは自らの身体を引き裂くことと同意であり、何よりそれは、あの日の温もりをも捨て去らなければいけないことを意味していた。
 それらは、父と共にあった日々の中では考える必要のなかったことであり、無意識に考えないようにしていたことでもあった。
 我知らず、美燕は紫色の刀袋を抱きしめていた。
 いつの間にか、布越しの故郷の香りは薄れている。
 胸の痛みは、薄れてなどいなかった。
 あの日のように、鬼灯(ほおずき)色の河が闇の中を流れている。
 だが、差し伸べられるはずの手が、そこには無かった。
 
     **********
 
「もう三日だよね。みーちゃん、どうしたんだろう」
 諏訪家の居間で、扇風機の前に寝転がる蘭の耳の後ろを掻いてやりながら、葉弥乃が静流に呟いた。
 美燕はここ数日、必要がない限りは自室に閉じこもっている。食事の時なども上の空で、話しかけても会話にならないのだ。
 静流は麦茶の用意をしながら答えた。
「上り台輪を見に行った時にはぐれてからですよね、美燕さんの様子がおかしくなったのって」
「……うん。ねえ、静流ちゃん」
「なんです?」
「悩みとか哀しみとかって、自分で乗り越えないと意味ないとかいうじゃない? じゃあ、周りの人がその人の為にできることって何もないのかな?」
 喉を鳴らす蘭の顔をぼんやりと眺めながら、葉弥乃は続ける。
「もしそうなら、それって凄く寂しいよね。だって、周のやることが全部余計なことになるってことだもん」
 珍しく弱音のようなものを吐いている葉弥乃に、静流はとっさに言葉が出ない。
「……ごめんね、静流ちゃん。何言ってるんだろうね、あたし」
 疲れたように言って、溶け崩れるように蘭の横へ寝転がる葉弥乃。
「誰かの役に立つなんて、無理なことなのかな」
「葉弥乃さん」
 静流は知っている。
 多分、兄も気付いているだろう。葉弥乃の世話焼きを、一見嫌そうにしながらも受け入れているのだから。
 葉弥乃がしつこいくらいにお節介な理由。
 もちろん本人がそう言ったわけではないし、おそらく昔から家族同然に過ごしてきた静流達にしか判らないだろう。
 葉弥乃は現在、叔母にあたる女性と二人暮らしである。
 仕事柄、海外各地を転々とすることが多い両親は、時には危険な地域にいくこともある自分たちと一緒に、彼女を連れて歩くかどうか悩んだことがある。
 色々と紆余曲折があったものの、葉弥乃の叔母が同居を申し出、武人も保護者になると承知し、さらに幼い葉弥乃が両親に負担をかけまいと日本に残ることを主張したため、安心とはいえないまでも、娘とその周辺を信用して両親は海外へと出ている。
 葉弥乃の両親は善良な人柄である。浅薄な人間でもない。
 だが、見えてないものがある。娘の人格を尊重するあまり見えなくなっているものが。
 いくら聡く賢くとも、葉弥乃はまだ子供だったのだ。自分の望みと、周りの望みとの間で折り合いをつけるには、経験が絶対的に足りなかった。
 その齟齬により沈殿した心の澱は、寂しさという形をとって、葉弥乃の中に根付いている。
 本来の葉弥乃は、誰よりも寂しがりやなのだ。
 だから、誰よりも明るく振る舞うし、常に誰かの側にいようとする。
 美燕に対して初対面から親身だったのも、自分に相通じるものを感じていたのかも知れない。端から見ても、思い入れが強いのがわかった。
 どこまでが献身で、どこからが代償行為なのかは、静流達はもとより、本人にすら解っていないだろうが。
「わたし、難しいことは解らないですけど」
 葉弥乃の方へコップを押し出しながら、静流は静かに微笑んで言った。
「どんなことでも、それが本当の気持ちなら、無駄にならないですよ、絶対」
「そうかな?」
「そうですよ」
 葉弥乃はごろりと寝返りを打ってから起き上がって目の前の麦茶を一気に飲み干し、全身で思い切り息を吐き出した。
「うん、そうだよね。そうだといいね。ありがと、静流ちゃん」
 そう言って笑った葉弥乃は、いつもの葉弥乃だった。
 
          六
 
       **********
 
『お父さんは、なんでもできるんじゃなかったのかよ!』
 違う。
 父は、そんなことを一度も口にしたことは無かった。
 その強さに憧れた少年が、勝手にそう思い込んでいただけだ。
 だが、父は何も言い返してこなかった。
 ただ何も言わず、もの言わぬ伴侶の顔を呆然と見つめていた。
『なんできづかなかったんだよ?! なんで助けられなかったんだよ?!』
 言葉というものが、どれだけ人を傷つけることができるかを知らないゆえの、苛烈な言葉。そこに理屈はなく、深慮もなく、それゆえに純粋なまでの感情が溢れていた。
 少年はまだ知らない。
 言葉がどれだけ強い力で人を縛るのかを。
 言葉が自らに返ってくるものだということを。
 泣き疲れて眠っていた妹が兄の声に目を覚まし、火がついたようにまた泣き出す。
 まるで、泥のように澱んだ時間の中に、彼らはいた。
 
       **********
 
 目を開けると、障子の隙間から朝日が部屋に差し込んでいた。
 むくりと上体を起こすと、かけていたタオルケットが膝の上に落ちる。
 ボリボリと頭を掻き、妙な違和感を感じながら士郎は寝床から抜け出した。
 居間に行くと、他の面子は食事を終えたらしく、ちゃぶ台の上に一人分だけが小さな蚊帳を被せて置いてあった。その横には静流の書き置きがあり、今日は夕方まで学校の友人と出かけるとの旨が、綺麗な字で書いてある。
 時計を見ると、八時を回ったところだ。
 のろのろとジャーから飯を盛りつけたところで、士郎は違和感の正体に気がついた。
 今日は士郎の当番でないにも関わらず、武人の襲撃が無かったのだ。
 得体のしれない気味の悪さを感じながらおかずの蚊帳を開ける。
「?」
 おかずと一緒に、古めかしく左前に閉じられた手紙が置かれていた。
 表には墨字で「士郎様」と書かれている。見覚えのない字だ。開いて中を見ると、二つ折りの紙に短く「朝食後、稽古場までこられたし」とだけ書かれていた。
 なんだか猛烈に嫌な予感を覚えながら、とりあえず士郎は朝食に手を付ける。
 武人でもなく、葉弥乃でもなく、静流が書いたものでもないなら、残りは一人だ。
 無視しようかとも思ったが、ただでさえ険悪になっている関係をさらに悪化させるのもどうかと思ったので、嫌々ではあるが士郎は道場に向かうことにした。
 まさか果たし合いということもないだろうと思いながら。
 士郎は左前に閉じられた手紙の意味を知らなかった。
 もしも知っていたなら、この時点で逃亡を企てただろうが。
 
 食後の茶まで堪能してから自室に戻って着替え、士郎は稽古場へ向かった。
 特に時間の指定もなかったし、遅れていったところで文句を言われる筋合いもない。
「おう、遅かったな」
 身についた習慣で、一礼してから稽古場へ入った士郎に声を掛けてきたのは、隻腕の男・蝮だった。
 思いもかけない人物がいたことに士郎は少し驚いたが、すぐ蝮に会釈する。
 蝮と士郎は顔見知りで、たまに尋ねてきた時に会えば言葉を交わすし、機会は多くないが、怪我をしたりした時には世話になることもある。その伝法な雰囲気も士郎は嫌いではなかった。
 蝮は大きな革の鞄を携えて、稽古場の神棚の下であぐらをかいていた。
 その隣にはやはりというか、武人が立っている。
「待っていたぞ。美燕くん、いいかね?」
「はい」
 道場の真ん中で神棚に向かって正座していた美燕が立ち上がり、くるりと士郎の方を向いた。
 美燕の姿はいつもの剣士姿で、見ると金属板を貼り付けた鉢巻きを着け、手には木刀がある。袴の帯には刀袋から取り外した鉄片が下げられ、身にまとった雰囲気も慣れたものとは明らかに違っている。
 士郎の嫌な予感は最高潮に達した。
「おい」
 士郎は半眼で武人を睨みつける。
「どういうことか説明してもらえるんだよな?」
 士郎の視線を涼しげに受け流し、武人が言う。
「言わんでもわかると思うが、お前には美燕くんと立ち合って……」
「なんで?!」
 皆まで言わせずに言葉を遮ってくる士郎に、武人は怪訝な顔をする。
「お前、茶の間に手紙を見てきたのではないのか?」
「そうだけど」
「左前の手紙は果たし状だぞ、知らんのか?」
「は?!」
「最近のガキはモノを知らねえな」
 顎が落ちそうになっている士郎を見て、蝮が面白そうに笑う。
「なるほどな。お前のことだから逃げ出すと思っていたのに、馬鹿正直にやってくるから変だとは思ったのだ」
 一人納得の体で頷く武人に、士郎がさらに噛みつく。
「大体、立ち合う理由がないだろうが、理由が?!」
「理由か? 美燕くんの方にはあるのだがな」
 身動き一つせずこちらのやりとりを見守っている美燕をちらりと見てから、武人は士郎に目を戻す。そして、至極真面目な顔で言った。
「ならば、理由を作ろう。もしもお前が美燕くんに勝てたら、お前を無理に跡継ぎにするのはやめよう」
「なっ……?!」
「もちろん、お前が嫌がってる修練もやらなくていいし、朝の襲撃も止めてやろう。どうだ?」
「あ、あのなぁ!」
 なにか反論しようとした士郎の首筋を、冷たいなにかが撫でた気がした。
 士郎が弾かれたように仰け反る。
 一瞬前まで士郎の首があった空間を、何かが空気を切り裂きながら走り抜けた。
「いつまで、無駄なおしゃべりをしているおつもりですか」
 慇懃にして冷徹な声。
 いつの間に間合いを詰めてきたのか、士郎には判らなかった。
 美燕は刀の間合いのぎりぎり外で構えている。その姿からは、直前に何をしたのかまったく感じ取れなかった。
「貴方の相手はこちらです。勘違いなされぬよう」
 烈風のような一撃を放ったはずの美燕を見た士郎は、美燕が徒手であることに驚いた。
 否、違う。
 軽く落とされた美燕の腰には、右手が添えられた木刀の柄が見えている。刀身の方は背後に隠されているため、士郎からは一瞬徒手のように見えたのだ。
「今の一撃は避けさせました」
 空気を凍てつかせる声。
 その視線は焦点を結んでおらず、どこか虚ろにも見えたが、それにも関わらず士郎は「観られている」ことを全身で感じた。
「次は、斬り(あて)ます」
 殺気を伴った、手触りすら感じられそうな威圧感が士郎の背筋にねじ込まれる。
 跳ねるように鼓動を早める心臓とは逆に、血の気が引いていく頭で士郎は確信した。
 逃げられない。
 目の前の相手は、明確な打倒と不屈の意志を漲らせ、それを自分に向けている。
 それは、士郎が生まれて初めて対峙する、本物の「敵」の姿だった。
 
      秘伝・剣の帰趨、拳の明日。
 
         壱
 
 士郎が道場で美燕と対峙する前日の夜。
 自室で読書をしていた武人へ、庭に面する障子の向こうから声が掛かった。
「失礼します。武人さん、起きていらっしゃいますか?」
 文机に向かっていた武人は本を閉じ、顔だけ障子の方へ向けて、突然の訪問に驚いた様子もなく答を返す。
「美燕くんか、どうぞ、入りたまえ」
「失礼します」
 すらりと障子戸を開けて部屋に入った美燕は、閉じた障子を背に正座する。ここ数日でどこかやつれたような印象の顔に、今はある種の決意が満ちていた。
「お願いがあり、参りました」
 真っ直ぐ見つめてくる美燕に、武人は黙って頷き先を促す。
「……私と、立ち合っていただけないでしょうか」
「それは、稽古をつけて欲しい、ということかね?」
 武人の問いに、美燕は首を横に振った。
「本気で、お願いしたいのです」
「理由を聞いて良いかな?」
 真っ直ぐだった美燕の視線が、再度の問いに彷徨う。少しの間を置いて、躊躇いの見える口調で言った。
「……私は、剣を捨てなければいけません。ご迷惑なお願いをしているとは、解っています。ですが、一人ではどうにもならないのです。きっかけが……必要なのです。ご協力、いただけないでしょうか。この通り、お願い致します」
 美燕は両手をつき、畳に額を押しつけるようにして頭を下げる。
 それが、数日考えに考えて出した結論だった。
 例えそれが自らの半身を引き裂くことであっても、自分は剣を捨てなければいけない。
 いくら焦がれようと、もうあの場所に、すべてがあったあの場所に戻ることはできないのだから。
 全力を尽くして敗北すれば、剣を握る者としては一つの契機になる。
 それですべての問題が解決するわけもないが、ただ黙って剣を置くには、美燕は剣士であり過ぎた。
 武人の実力はいまだ見切れてないが、父が勝てなかったと言っていた相手だ。まさか美燕より腕が劣るということはないだろう。
 武人に、剣士としての懊悩、自分を縛り付ける思い出を、粉々に打ち砕いて欲しかった。剣にかけた誇りも、それに重ねていた想いも、根こそぎ無くなってしまえば、そこからまた始められる。
 武人には、美燕のそんな気持ちが見えているのか。複雑な色が浮かぶその目からは、判別がつかない。
 染みいるような沈黙の後、溜息と一緒に武人は言葉を吐き出した。
「すまないね、美燕くん。私では、君の期待に応えることはできないだろう」
「何故、ですか?」
 顔を上げた美燕の口調に責める調子はない。ただ、途方にくれた表情が、その顔に浮かんでいるだけだ。
 噛んで含めるように、ゆっくりと武人は言う。
「私には、その資格がない。亡くしてしまったのだよ。──自らの拳を持たない者に、他人へしてやれることなど何もないのだ」
 美燕にその言葉の意味を酌みきることはできなかったが、ようやく思いついた道もこれで絶たれたということだけは解った。
「代わりと言ってはなんだが」
 悄然と肩を落としていた美燕は、武人の声に顔を上げた。
「士郎とやってみないかね?」
「士郎さんと?」
 思いがけない申し出に、一瞬美燕は目を丸くする。
 それと同時に、腹の底でなにかがゴロリと蠢いた。
「……それは、私の腕が、士郎さんに劣ると、そういうことですか?」
「さて……それはやってみれば判ることと想うが」
 美燕の両拳が、強く握られる。
「士郎さんに勝てば、私と立ち合っていただけますか?」
 不思議な間が空く。
 その間、美燕は武人から目を逸らさず、武人もそれを受けて微動だにしない。
「──解った。承知しよう」
 長い間の後、武人はそう答えた。
 丁度良い。
 腹の底の塊がさらに転がり、じわりと暗いなにかがそこから滲み出してくる。
 そうだ、士郎には以前から含むところがあったのだ。叩き潰してやれば、さぞ溜飲が下がることだろう。
 武人も、大事な跡継ぎが叩きのめされれば、少しは本気を出してくれるに違いない。
 美燕は自分から士郎に伝える旨を武人に申し出て、その場を辞した。
 雨戸を閉め切った暗い廊下を歩く美燕の顔には、暗い酷薄な笑みが張り付いていた。
 
     **********
 
「ふん。さすがにあの野郎の娘だな、よく似てやがる」
 蝮が鼻を鳴らし、その言葉に武人が頷いた。
「そう思われますか」
「おう。いいところも、悪いところもな」
 美燕の先制で、勝負は済し崩しに始まった。
 そして数分。
 爪先をにじるように間合いを詰める美燕に対し、士郎は似た足運びで間合いを外す。
 大きな動作で逃げればその瞬間につけ込まれる。それはこの数分間の間に、士郎は身体で理解した。
 心の中に嵐が吹き荒れる。
 心臓は跳ね馬のように暴れ、脂汗が吹き出る。
 手足が自分のものとは信じられないほどに震え、呼吸すら上手くいかない。そこにすらつけ込まれると解っているのに、どうにもならない。
 絶妙な間で踏み出される足と同時に、美燕の腰から再び木刀が疾(はし)る。
 美燕の木刀は、手から先の部分が士郎から見えないせいで攻撃範囲が読みにくく、しかも微妙に距離を変えてくるので見切りも何もなく全力で避けているのに、完全には避けきれない。
 木刀の切っ先が士郎の皮膚を微かに擦る。
 滑るような動きにも関わらず、ぞっとする速度の踏み込みからさらに一閃。
 士郎はこれもなんとか躱し、やや遠目の間合いにやっとの思いで下がった。
 油断しないようにそっと息を整える士郎の、顔と言わず腕と言わず無数のみみず腫れが出来ていたが、今のところ出血だけはない。
 逃げるだけで精一杯だが、僅かずつだが間合いと拍子も読めてきた。
 逃げられず。やらなければやられるのなら、やるだけだ。
 乾いた唾を苦労して飲み込み、士郎は拳を握った。
 
「おっはよ〜〜う!」
 いつもの元気な挨拶が、無人の屋敷にこだました。
「あら?」
 土産の入ったビニール袋を下げたまま、葉弥乃は諏訪家の玄関で首を傾げた。
 静流が朝からいないのは聞いていたが、美燕と武人は在宅のはずだ。少し早めの時間なので、士郎もいるかもしれない。なのに、邸内には人の気配がない。
 その時、微かに稽古場の方から人の気配がした。
 朝練かしら? と思いながら、葉弥乃はビニール袋を上がり段に置いて、稽古場の方へと向かった。
 
 一見一方的に美燕の方が攻めているように見えるが、実際のところ美燕にそれほど余裕があるわけではなかった。
 本来美燕が得意とするのは、居合いや抜刀術である。
 そう何合も打ち合わせることは前提でなく、また技の性質としても必殺性の高いものを多く身につけている。
 抜いたら終わり。
 それは理想の一つであり、美燕自身はいまだ未熟であり、その境地にほど遠いという自覚もあるが、常に心懸けていることだ。
 だが、布石の一撃が避けられるのはともかく、必殺を期して繰り出す斬?すら紙一重で避けられているのはどういうことか。
 美燕は苛ついていた。
 この一ヶ月と少し、軽い鍛錬だけで怠けさせていた身体が、思ったよりも言うことを聞かない。それは、本当に微妙な遅延だったが、それがなければ士郎を捕らえられていた場面はいくつかあった。
 対戦を受けた時にも、少し鍛錬不足の懸念はあったのだが、それでも士郎相手ならば充分だとたかをくくっていたのだ。
 要するに舐めていた。
 しかし、事ここに至っては、美燕は認めなくてはいけなかった。
 自分が思っていたよりも、遙かに士郎は強い。
 反射速度も、身体能力も頭抜けている。
 少し萎縮して見えるのは場数を踏んでいないせいだろうが、それを補ってあまりある基礎能力の高さだ。
 だからこそ、美燕は苛ついている。
 武の道に生きる覚悟があるわけでもなく、思い入れもない士郎がそこまでの物をもっていることが納得できない。
 ただ男に生まれたというだけで、すべてを用意されている士郎が、それを己の我が儘で拒み続けている士郎が気に入らない。
 その気持ちが僅かな力みを生み、切っ先をさらに鈍らせていることに、美燕本人は気がついていない。
「ちょおっ……! なにやってんの?!」
 稽古場の入り口で、場内の異様な空気に葉弥乃が悲鳴じみた声を上げた。
 美燕は一瞬その声に気を取られた。
 士郎はその一瞬を見逃さなかった。
 爆発的な瞬発力で自分の間合いまで踏み込んだ士郎は、木刀を握った美燕の右手を、自らの右手で制しながら、踏み込みの勢いのまま肩で体当たりにいった。
 士郎は、美燕と水上の試合を見ていない。
 どんっ。
「お……っ?!」
 水上と同じく、士郎が瞬時に腰を落とした美燕に弾き返される。
 水上の時は違い、美燕もほんの少し体勢を崩したものの、たたらを踏んで下がる士郎よりも立ち直りが早い。
「待ちなさい!」
 追撃に入ろうとした美燕と、体勢を整えようとした士郎の間に、思い切りよく葉弥乃が割り込んだのはその時だ。
 かなり危ういタイミングだったが、美燕は瞬時に出足を止めて間合いを取り、士郎は驚きの表情でそのまま尻餅をついた。
「なによ、なにがあったの、みーちゃん?」
 座り込んだ士郎を背中に庇いつつ、心持ち青ざめた顔で葉弥乃は美燕に訊いた。咄嗟に士郎を庇ったのは、明らかに士郎の方がやられていたからだ。
「退いて下さい、葉弥乃」
 感情を含まない、冷たい美燕の言葉に葉弥乃が言葉を失う。
「危ないから、下がっていたまえ」
 いつの間にか歩み寄っていた武人が、まるで猫を掴むように葉弥乃の首根っこを捕らえて、ひょいと肩に担ぎ上げた。
「ちょおっとぉ!? おじさまっ?!」
 活きの良い魚のように暴れる葉弥乃を苦もなく捕らえたまま、武人は元の場所まで戻り、蝮の横に葉弥乃を座らせると、腕組みをして士郎と美燕の方を向いた。
「おじさま?!」
 怒った葉弥乃が武人を見上げると、隣の蝮が笑いを含んだ声で言う。
「まあまあ、葉弥乃嬢ちゃん。悪いようにゃしねえから、黙って見てろや」
「老先生?」
「必要なことだよ」
 ぼそりと呟く武人に、葉弥乃は座ったまま武人の顔を見上げた。
 何に、誰に、と武人は言わなかった。尋ねても答えてくれないのだろう。
 武人と蝮に挟まれて、飛び出そうとしてもまず確実に二人に捕まる。葉弥乃は諦めてその場に正座する。
 少なくともこの二人がいるということは、重大な結果にはならないだろうと信じて。
 ふらりと現れた蘭が、すたすたと葉弥乃の隣まできて座り込んだ。
 
 美燕は倒れている士郎から広く間合いを取り、木刀からも手を離し、瞑目して士郎が立ち上がるのを待っていた。
 葉弥乃が自分と士郎の間に割って入り、自分と正対した瞬間。
 気がついた。いや、本当はもっと前に気付いていたのだ。
 ──自分は、士郎は羨ましい。
 自分が持っていないものを総て持っている士郎に嫉妬している。
 だから士郎を恨んでいた。それは単なる八つ当たりでしかない。
 美燕にとっては認めがたい、あまりに利己的な感情だ。
 曖昧な形しか持っていなかったその気持ちは、今はっきりと形を取っていた。
 だが、不思議なことにそれを認めた瞬間、美燕の肩からはふっと力が抜ける。
 士郎は強いという事実。
 自分が士郎に嫉妬しているという事実。
 総てが自然に胃の腑に落ちた。
 そして、浮かび上がってきたのは、純粋で透き通った「克ちたい」という気持ち。
 己の弱さに、与えられた環境に、目の前の強敵に。
 迷いも、怒りも、恨みも、哀しみも無い。
 鍛錬が充分でなかったことを悔いても仕方がない。
 今、ここにある、ここにある状況での全力を尽くす。
 それだけだった。
 
 葉弥乃が武人に回収された後、すぐに襲いかかってくるかと思われた美燕が大きく間合いを取ったことを訝しく思いながら、警戒しつつ士郎は立ち上がった。
 ──強い。
 この数分間で嫌というほど思い知らされた。
 こちらに向かって構えられただけで身が竦む。
 武人程の実力差がないせいか、逆にその威圧感は圧倒的な現実味を帯びていた。
 恐怖で、手が、足が、震える。
 逃げたい。
 逃げてしまいたい。
 だが、逃げられない。
 一瞬を積み重ねた剣と拳の交錯で、士郎は一つ悟った。
 自分は、この場から逃げてはいけない。
 今この場から逃げてしまえば、自分はこの「場」に立つ資格を永遠に失う。
 そして士郎にとって、それは古い「約束」を果たす資格をも失うということだった。
 負けるか。
 負けられない。
 恐怖に、目の前に立ちはだかる強敵に。
 相手が自分を打倒する為に、その全精力と全存在をかけてきているのが解る。
 その相手に対し、自らも全精力、全存在をかけて打ち克つことこそが、この「場」n立つ者の使命であり、責任であり、なにより「約束」を果たすための資格なのだと士郎は確信した。
 奥歯を食いしばり、恐怖を下っ腹に叩き込む。
 すると、震えが止まり、性根が据わった。
 いつか、その「約束」に辿り着くため。
 湧き上がってくるのは闘志。
 強い相手に「克ちたい」という闘う意志。
 それは不思議な充実感を伴っていた。
 
「……士郎さん、次で、終わりにしましょう」
 立ち上がった士郎へ美燕がかけた言葉は、ただひたすらに静謐だった。
 士郎は黙って頷き、ゆっくりと構えをとる。
 その構えにも、その瞳にも戸惑いはなく。ただ強い意志だけがある。
 そうこなくては。
 美燕もまた、静かに構えた。
 ごくり、と葉弥乃の喉が鳴る。
 武術の心得がない葉弥乃でも、二人の間に静かで濃密な緊張感が満ちていくのが解ったからだ。
 距離を詰めるお互いの運足は、始めは大きく、近づくごとに小さくなっていく。
 そして。
 士郎の爪先が美燕の攻撃圏に触れようとした刹那。
 士郎が無造作にその一線を踏み越えた。
「ぇえいっ!!」
 裂帛(れつぱく)の気合いと共に美燕の一撃が疾(はし)る。
 それを読んでいた士郎はさらに半歩を踏み込んでいる。それでも拳を届かせるには足りないが、木刀の柄本で受けることにより威力を殺し、反撃に転じるつもりだった。
「……ぐっ?!」
 しかし、飛んできたのは弧を描く刀身ではなく、真っ直ぐ突き出された柄頭。それは鈍い音を立てて士郎の脇腹に吸い込まれる。
 美燕は木刀の峰に左手を添え、怯んだ士郎の胸に刀身を押しつけて自らは回転しながら士郎を自分の間合いへ弾き飛ばす。
 瞬間、妙に軽い手応えに美燕は違和感を覚えたが、構わず遠心力の乗った強力な一撃を叩きつける。
 木刀が空を切った。
 美燕が回転する、ほんの僅かな一瞬に士郎の姿が消えていた。
 一撃を振り切りつつ、美燕は士郎がどこにいるか見つけている。
 下。
 士郎は腹に一撃を喰らいながらも続く突き飛ばしの威力を殺し、その場に伏せていた。
 一撃を繰り出した直後の美燕は、続く士郎の伸び上がるような体当たりを避ける余裕が無い。
 美燕は先程のようにそれを弾き返そうと、重心を落とした。
「あ……っ」
 予想に反し、来たのは衝撃ではなかった。
 士郎の肩が柔らかくふわりと美燕に密着する。
 しまった、と美燕が思った時には、重心の下に入られる。
 体重と落とした重心共に、包み込込まれるように受け止められた。
 瞬転。どん、と士郎の足が生み出した衝撃が空気を震わせ、拍子と重心を狂わされて死に体になっていた美燕の重心が宙に浮く。
「ぉおうっ!!」
 士郎が吠え、その拳が真っ直ぐに突き出される。
 その一撃は、体勢を崩しながらも防御しようとした美燕の腕を弾き、その胸の中心へ吸い込まれた。
「がふっ……!」
 短い悲鳴を上げて美燕が吹き飛び、床で一度小さく跳ね、横向きに倒れる。
 美燕の手を離れた木刀が、乾いた音を立てて床板の上を転がり、止まった。
 
「そこまで!」
「みーちゃん!」
 武人の声と葉弥乃の悲鳴は、ほとんど同時に上がった。
 一撃を繰り出したまま放心状態で荒い息をついていた士郎は、その声で我に帰った。
 蝮が素早く倒れ伏した美燕に駆け寄り、葉弥乃も慌ててそれを追う。
 士郎も美燕に駆け寄ろうとしたが、武人に止められる。
「どうした士郎」
「あ……」
「お前の勝ちだ。ここにいる理由もあるまい?」
 武人の言葉に士郎の表情が歪む。
 美燕の顔は、士郎からは見えない。
 少し躊躇いを見せたが、士郎はそのまま黙って背を向け、稽古場を飛び出していった。
「士郎!」
 それを見ていた葉弥乃は一瞬士郎を追おうとしたが、倒れ伏した美燕が気になってしばらく逡巡していたものの、結局そのまま美燕の傍に残った。
「どれ」
 蝮は手慣れた動作で横向きに倒れた美燕を仰向かせると、胴着の合わせを広げ、鞄から取り出した鋏でサラシを切り開いた。
 美燕の汗ばんだ滑らかな肌と、緩やかな膨らみがあらわになるが、そこに残された打撃痕を見て、葉弥乃は口にしかけた抗議の声を飲み込んだ。
「ふむ……」
 軽く患部周辺を指で押さえて美燕の反応を見ていた蝮は、タオルでその汗を拭き取り、用意していた軟膏の瓶を器用に片手で開けて患部に擦り込んだ。
「どうですか?」
 武人が蝮に声をかける。
「おう、さすがによく鍛え込んであらぁな。骨は折れてねぇ。ヒビくれぇ入ってっかもしれねえが、心配いらねえよ。活入れなくてもすぐ目ぇ覚ますだろ」
 それを聞いた葉弥乃が安堵の息を漏らす。
「そういうわけだからな、葉弥乃嬢ちゃん。こっちは任せて、追っかけてやんな」
「え?」
「誰でも初めてはあらあな。まあ、放っておいて大丈夫だと思うが、気になんだろ?」
 士郎のことを言っているのはすぐに解った。
 葉弥乃は武人をキッと睨んだ。
「後で、ちゃんと説明してもらいますからね!」
 そう言って念を押すと、葉弥乃も足早に稽古場を出て行った。
「ははは、おっかねえ嬢ちゃんだな」
 蝮は快活に笑いながら、武人に瓶ごと軟膏を放った。
「日に二・三回、患部に擦り込ませろ。後で少し血を吐くかもしれねえが、多量じゃなけりゃ心配いらねえ。あんまり痛がるようなら、俺んとこによこしな」
 瓶を受け取って武人が頷くと、老人は荷物をまとめて立ち上がった。
「いや、久々にいいもん見させて貰ったぜ。こいつらも来年は高校だっけか? 楽しくなりそうだな、おい」
 蝮は物騒な笑みを浮かべて稽古場を後にした。
 武人もその背中に頭を下げて見送ると、気絶したままの美燕を抱え上げて稽古場を出て行き、いつの間にか蘭の姿も消えていた稽古場は誰もいなくなった。
 
         弐
 
 美燕は蝉の声で目を覚ました。
 陽の香りがする布団の上で顔を横に向けると、縁側の向こうに陽光溢れる庭が見えた。
 足下では扇風機が首を振りつつ穏やかな風を送ってきている。
 上体を起こそうとした美燕は、胸に走った痛みに呻いた。
 起き上がれなくも無さそうだが、そのまま横になる。
 髪は解かれ、着ているものも見覚えのない寝間着に替えられている。しまいこまれていたもののようで、少し強めに樟脳(しようのう)の香りがした。その香りに混じって、薬の香りもする。
 天井を見上げると古めかしい造りの天井が見えた。
 見るとも無しに天井を眺めながら、自分がここで寝ている理由をボンヤリと考えた。
 そうだ。
 確か自分は稽古場で士郎と立ち合っていたはずだ。
 そして……。
「目が覚めたかね」
 廊下から、洗面器を持った武人が現れた。
「あ……」
 美燕が慌てて起き上がろうとして、痛みに顔をしかめる。
「無理せずに横になっていなさい」
 武人はそう言ったものの、美燕は胸を庇いつつ起き上がり、髪を左肩から胸に下ろすと、寝間着の裾を直して布団の上に正座した。
「すまないね。悪いとは思ったが、汗に濡れたまま放っておくわけにもいかなくてね」
 勝手に着替えさせたことを武人は謝罪した。女手があればそちらに任せただろうが、諏訪家の女手は生憎と出はからっている。静流はでかけているし、葉弥乃は士郎を追いかけて出て行ったまま、お昼を過ぎた今も戻ってきていない。
 胸を庇いながらの少しぎこちない仕草で、美燕は武人に頭を下げた。
「お手を煩わせたようで、申し訳ありませんでした」
「いや、もともと士郎と手を合わせることを持ちかけたのは、私だからね」
 洗面器を美燕の枕元に置いて、武人も腰を下ろす。
 美燕はしばらく俯いたまま黙っていたかと思うと、不意にぽつりと訊いた。
「私は、負けた、のですね?」
 確認するように、途切れ途切れな美燕の質問に、武人は少しの間を置いて言った。
「うむ」
 長い間があった。
 ぽつん、と一つ、美燕の膝に染みができた。
 染みは、二つ、三つ、次々に増えていく。
 押し殺しきれない嗚咽が、喉の奥から漏れる。
 おかしいではないか。
 全力を尽くせば、納得できると思ったのに。
 全力を尽くして、その上で負けたのに。
 想いを断ち切れると思ったのに。
 握りしめた指の隙間から砂が溢れるように、堪えれば堪えるほど、染みの数は増えていく。
 砕かれてしまったのは想いではなく、今まで我慢し続けてきた心の壁だ。
 剥き出しになった心は白日の下に晒され、悲鳴を上げた。
 震える美燕の手がゆっくりと上がり、寝間着の合わせを強く握りしめる。
 ぎゅっと強く目を閉じた拍子に、ぽたたたっと滴が落ちる。
「痛むかね?」
 その様子をじっと見ていた武人が、優しい声をかけてくる。
 美燕は黙ってかぶりを振る。
 痛むのは士郎に打たれた箇所ではなく、もっとずっと奥の方だった。
「…………悔しい、です……」
 か細く震え、濡れた声で途切れ途切れに続ける。
「……私は……私が、父様と過ごした時間は……私が父様から受けたものは……こんなものだったのでしょうか……?」
 ずっ、と洟を啜る。
 情けない。
 きっと今の自分はみっともない顔をしているだろう。
 情けなく、恥ずかしい。
 人のいる目の前で涙を流すなど。
 でも、止められない。
「……確かに、士郎さんは強かったです……。でも……でも、……武の道を愛しているわけでもなく、それに生きる覚悟もない……。そんな相手に負けてしまうような、……その程度の、ものだったのでしょうか……?」
 武人は一言も発することなく、黙って美燕の言葉を聞いていた。
「……そんなだから、その程度だから……、私は父様に捨てられ……」
「美燕くん」
 美燕が口にしようとした言葉を包み込むように、武人が口を開いた。
 はっ、と涙と洟でグシャグシャになった顔を上げた美燕は武人を見る。
「君に、剣が捨てられるかね?」
 その質問に、美燕は頬を叩かれたような表情で、再び俯いた。
「捨てられ……ない、です……」
 噛み締めた歯の隙間から、細く頼り無く、美燕は小さく答えた。
「……でも、だからといって、……どうしたら良いのですか……。進む道も判らず、戻ることもできないのに、どうしたら……」
「捨てられなければ、捨てなければ良いのではないかね?」
 そっと武人が言った。
 美燕は弱々しく首を横に振る。
「……私の剣は、父様と共にありました……。父様のもとにいられなくなった以上、剣を取り続けることは、出来……ません……」
 つかえつつも答える。
 蝉の声と、庭の梢をさわめかせる風の音だけがする。
「言わずにおこうと思っていたのだがね」
 想い沈黙の後、武人が口を開いた。
「君がここに来る少し前のことになるが、君の話をするために彼がここに訪ねてきた時のことだ」
 俯いたままの美燕の身体が、僅かに緊張した。
「彼はね、私に頭を下げたよ。娘を頼む、とね。彼との付き合いはもう二十年近くになるが、彼が誰かに頭を下げるのを見たのは初めてだったよ」
 武人はそこで一度言葉を切り、さらに続けた。
「彼自身、古い剣を伝える旧家に生まれて、余人には解らない苦労をしてきたのだろうがね。この町で私と出会った頃は、形のないなにかに取り憑かれ、それに振り回されていた。もちろん、今はそんなものからは解き放たれているのだろうし、本人もそのつもりでいたのだろうが……。性分、というのは少し違うかも知れない。業、というのが近いのかも知れないね。今の彼は、その頃の自分に対して嫌悪すら抱いているようだ。それにも関わらず、その頃の自分を作った行いと同じ行いを自らの子供に施していることに気がついて愕然としたそうだ。二人目の子供が生まれて、初めて気がつかされたとね。──だからといって、それからどうすれば良いのか、彼には判らなかったそうだ。どうすればいいのか苦悩したまま、苛烈な訓練を止めようとしない君の姿を見るのは、辛かったとも言っていたよ」
 黙って武人の話を聞く美燕の両手は、膝の上できつく握りしめられている。
「親としては恥ずべき事だが、自分ではどうすればいいのか判らない。できるのは、なんとか君の選択肢を増やしてやることだけだ、とね。もし、たとえ剣が捨てられなくとも、自分が道を見つけられたこの町ならば、きっと何かを見つけられるだろうと」
 そこまで話し、ふぅ、と武人は大きく息を吐いた。
 美燕の頭の中では、たった今聞いた話がぐるぐると回っていた。
 それでは、自分は捨てられたわけではないのか。
 自分は必要ないと断じられたわけではないのか。
 ならば、すべては自分の勘違いだったというのか。
 でも、それならば何故、そう言ってくれなかったのか……。
「彼の事だ。言葉が足らず、君を苦しめてしまったのは否めないだろう。彼の選んだ手段も、最良ではなかったのかもしれん。しかし……ね」
 武人は、様々な感情が複雑に絡み合った微笑みを浮かべた。
「子を思わぬ親などいないよ。そうだね……そう、ほんの少し、その方法が判らないだけだけなのだと思う。それを理解してくれとは言わない。ただ、覚えていて欲しい。彼も、ましてや私も、未だ道の途中なのだということを。決して、達してなどいないのだということを」
 その言葉が耳に届いているのかどうか、美燕は黙ったまま何も言わない。
「……それと、もう一つ。士郎のことだ。士郎には、思い入れも、覚悟もない。先程君はそう言ったね。本当に、そう思うかね?」
 ぴくりと美燕の肩が震える。すぐに反駁できなかった。
「士郎はね、誰にも隠れて、いつも一人で鍛錬しているのだよ。目の届かないところにいる時は、大抵そうなのだろう。士郎は怠けてなどいないし、美燕くんと渡り合えたのも、士郎がそれだけのものを弛まず積み重ねてきているからだ。そしてそれは、強い覚悟無しに続けてこれるほど簡単なことではないはずだ」
 士郎の積み重ねてきたもの。
 剣を交わした美燕には、誰よりも肌で解っていた。
 あの柔らかさは、弛まぬ鍛錬でしか身につかないものだ。美燕にはまだ体現できない。
 心身ともに強さを持った者は、皆身につけている柔らかさだ。
 だが、まだ心に引っかかった僅かな反感が、それを認めることに抵抗を示していた。
 あさましい、と美燕は奥歯を噛む。
 この期に及んで、自己の正当性を失うのが怖いのだろうか。
 自らが積み重ねてきた感覚すら否定するなど、恥知らずにも程がある。
 そうだ、あの最後の一合、最後の一撃。
 納得するには充分ではないか。
「本人から聞いたわけではないが、どうやら士郎の目的は私に克つことらしい」
 自嘲めいた笑いが、武人の顔を過ぎる。
「士郎が私を嫌っているのは美燕くんも知っていると思うが、どうもそれが直接の理由ではないようだ。むしろそうすることによって、なにかに区切りをつけようとしているように感じるが……。だがそれがどんなことであっても、士郎自身が考え、決めたことなら、親としてはできるだけのことをしてやりたいと思う。私が士郎にちょっかいをかけ続けるのも、その過程で少しでも『勘』のようなものを身につけて貰おうと思っているからだ。もっとも、それもただの自己満足で、あいつに取っては迷惑以外の何物でもないのかも知れんが」
 美燕が少し視線を上げると、武人の目は庭を見つめていた。
「親というのは愚かなものでね。似て欲しくないところばかり似ていく子供が、愛おしくてたまらんのだよ。きっと、彼もそうなのだろう。君が剣の才を発揮すればするほど、喜びは深くなっていったのだと思うよ。だからこそ、気付くのに遅れたのではないかな……なんとなく、解るよ。私も同じく、愚かな親の一人だからね」
 すっと庭を向いていた視線が美燕に向き、ほんの僅かな間視線が絡んだ。
「美燕くん。捨てられなければ捨てなくてもいい。急に変われないのなら、少しづつゆっくり変わっていけばいいのだと思うよ。ただ、ありのまま知り、自分で考え、そして見定めて欲しい。私は、ここが君たち若者にとって、それができる場所になればいいと思っているのだ。すでに人を教え導く資格のない私には、傲慢な考えかも知れんがね」
「そんなことは……」
「武の道もまた、人の道だ。人が擦れ違い、共に歩み、自らの足で歩くからこその道だ。想いも、技も、受け止めてくれる相手がいるからこそ、そこにあることができる。一人だけがゆく場所を、道とは呼ばない。哀しみや憎しみすら、一人であるなら意味を持たないのだ。……私は、そんな簡単なことすら、受け止めてくれる、いや、届けるべき相手を永遠に失うまで気がつかなかった」
 武人の視線が、仏間の方へと漂った。
「君たち若者に、同じ轍を踏ませたくない。もちろん、それは私の我が儘で、年寄りの泣き言なのかも知れない。だが、どうか忘れないで欲しい。片方の掌だけで鳴る音などないのだということを」
 そう言って、武人は美燕に頭を下げた。
 美燕は慌てて何かを言おうとしたが、何も思いつかずに俯いた。
「……少し、私に考える時間を下さい……」
 武人が部屋を出て行った後も、美燕は正座したまま自らの膝を見下ろしていた。
 やがて、寝間着の上に一つ、染みが増える。
 その染みは、他の染みとほんの少しだけ色が違った。
 開け放たれた障子の向こう、広い庭は輝く陽光に浮かび上がっている。
 
        参
 
    **********
 
「士郎……。士郎……?」
 荒い呼吸の下、途切れ途切れの呼びかけに、士郎は目を覚ました。
 いつの間に寝入っていたのか。ずっと寝ないで看ているつもりだったのに。
 暗い部屋の中で、士郎は慌てて毛布を跳ね上げると、いつの間にか寝かされていた長椅子から飛び降り、ベッドに駆け寄った。
 白い清潔なベッドとそれを取り巻く機械類が、とてつもなく不吉なもののような気がして、士郎はそれらを見る度に心臓を掴まれる感覚を味わう。
 その不吉な機械達に囚われているように、母はベッドに横たわっていた。
 部屋の中に、士郎と母以外に人はいない。
 妹は一ノ瀬夫妻が連れて帰った。本当は士郎も連れて行かれそうになったのだが、士郎が頑として拒み、根負けした夫妻が残ることを承知したのだ。
「お母さん?」
 ベッドの上を背伸びして覗き込む士郎に、酸素マスクをしたままの母は優しい瞳を向け、弱々しくだが笑みを見せた。
「……ゴメンね、士郎。……あの人が帰ってくるまでは、頑張るつもりだったんだけど、ちょっと無理みたい……」
 母が突然倒れた時、武人は海外にいた。ろくに連絡のとれないところにいたらしいが、折良く日本に帰ってきていた一ノ瀬夫妻の尽力でなんとか連絡がとれ、数日の間には日本に戻ってくるはずだった。
「だから……、士郎。貴方に頼んでおきたいの。聞いてくれる……?」
「え?」
「……あのね、あの人に伝えて欲しいの。……わたしは、幸せでしたって。……お願いね、士郎。貴方にしか頼めないの……。約束、よ……?」
 そこまで言って、母は顔を歪めて苦鳴を漏らした。
「お母さん?!」
 母の様子に士郎は顔色を変える。
 しばしの間耐えていた母は、苦痛の波が過ぎると潤んだ瞳を士郎に向けた。
「ゴメンね、士郎……。もっと、もっと貴方たちと一緒にいたかったけど……。貴方と、静流を残していくことを許してね……。せめて、貴方たち三人は、仲良く、幸せにね……。お願いよ……。……ほんとうに、ごめんなさい……」
「お母さん?! お母さん!!」
 母が瞼を閉じるのと共に周囲が慌ただしくなり始めた。急変を知った医者達が騒ぎ始めたのだろう。
 そして、母はそのまま二度と目を覚ますことはなかった。
 
       **********
 
 沈みかけた太陽は、暖かな茜色に染まっている。
 士郎は刻々と色彩を変える空を、梢の間から眺めていた。
 ふと、ずっと握りしめたままだった自分の拳を見下ろす。
 あの日、母から託された約束は、まだ果たされてはいない。
 最初は、父に対する反感からだった。
 だが時が過ぎ、何度も何度もそれについて考えるうちに思うようになった。
 いつか父より強くなることができたら、その時母からの言葉を伝えよう、と。
 それは士郎自身の心のけじめであり、あの日、父にぶつけてしまった言葉に対する、自らに課した罰でもあった。
 そしてなによりそうすることが、父の心を本当に楽にしてやれるのだろうと、そんな確信が士郎の内にはあった。
 理屈ではなく、感覚。
 他人が聞けば、何を馬鹿なと笑うかもしれない。
 あるいは、子供っぽい感傷なのかもしれなかった。
 だが、士郎は自分で悩み、考え、自分なりの結論を出し、それを成すためにけして短くない時間、努力を積み重ねてきたのだ。
 それは士郎自身の真実だった。
 それが、あの日から始まった、士郎の拳の意味だった。
 拳を開いて、掌を見つめる。
 だが今日、それは違う目的で振るわれた。
 全力を尽くして向かってくる相手に、全力で答えるために。
 水上が言っていた「仕合」。
 その意味が少し解ったような気がする。
 ただ腕力を競うのではなく、技を試すのでもなく、己の総てを比べ合う。
 あれはそういうものだった。
 思い出すだけで、身体の芯に震えが走る。
 強敵であったという実感と、それに打ち克った充足感。
 そして、責任。
「士郎」
 突然かけられた声に驚いて、士郎はそちらに顔を向けた。
「葉弥乃?」
 手近の木に手をかけて士郎を見ていた葉弥乃はにっかりと笑い、少し乱れていた呼吸を整えてから、眼鏡を拭いてかけ直し、周りを見回した。
「そっか、放課後とかどこに消えてるのかと思ったら、こんなところにいたんだ」
 そこは、美燕がこの町に着たばかりの時に駅前から眺めた山の中腹、古い神社裏の林だった。諏訪邸からは、ゆっくり歩いて一時間くらいの距離だろうか。
 元々そこは地元の人間すらほとんど知らない神社で、手入れは最低限しかされていないし、普段はまったくと言っていいほど人が寄りつかない場所でもあった。
「なんでここが?」
「わかったかって? あっちこっち駆けずり回った挙げ句に、水上なら知ってるかと思って吊し上げたら、あっさり吐いたわよ。ここにいるかどうかはわからないとは言ってたけど」
「あいつは〜〜……」
 半眼で呻く士郎を無視して葉弥乃は言う。
「蚊取り線香まで用意してるんだ。準備いいわねぇ」
 士郎の足下で煙を上げる線香を見て、それから士郎を見つめて続けた。
「みーちゃんの怪我ね、大したことないって老先生が言ってたよ」
「そっか」
 罪悪感はないが、それが少し気がかりだったのだ。
 士郎に安堵の表情が浮かぶのを見てから、葉弥乃は改めて辺りを見回した。
 周辺では一際大きな木の洞にかかった青いビニールシートから、使い込まれたサンドバッグが顔を覗かせていた。
 葉弥乃はそれに近づいて、半ばはだけていたシートをめくる。
 サンドバッグと共に現れたのは、サンドバッグと同じが、それ以上に使い込まれた手製の鍛錬道具の数々だった。中には、文字通り血の滲んでいるものもあった。
「嫌いになったわけじゃ、なかったんだね」
 優しい笑顔を浮かべて、士郎を振り向く。
 士郎はその視線を避けて、そっぽを向き言った。
「嫌いだよ」
 すぐに嘘だと判る。本当の答は、使い込まれた道具達がなにより雄弁に語っていた。
「あのさ、士郎」
 サンドバッグに手をかけて、それを見るともなく見つめながら、少し改まった口調で葉弥乃は口を開いた。
「あたしね、あんたや、静流ちゃんや、みーちゃんにはね、出来る限りのことをしてあげたいとね、思ってるの」
 葉弥乃は、いつも相手の目を真っ直ぐに見て話す。しかし、今は士郎と目を会わすのを避けているように、サンドバッグに視線を落としたままだった。
「もちろんね、あたしのできることなんて多寡が知れてるし、してあげるなんてのも何様だって言われてもしょうがないけどさ。それでもね、そう思うの」
「…………」
「あたしがどんなに頑張ったってさ、おばさまや、みーちゃんのお父さんの代わりにはなれないけど……なにかしたいの。黙って見てられないのよ。何も出来ないかもしれないけど、なにか辛いことがあったりさ、悩んでる事があったら……話してよ。黙って見てるの、あたし、辛いよ。だってさ、あたしは、みんなのこと大好きだし、その、家族だと思ってるから、さ」
 訥々と話していた葉弥乃はそこで言葉に詰まり、ぐしっ、と洟を啜ると背を向けた。
「……ゴメン、今の無し。忘れて。駄目だな、あたし。ついこの間、静流ちゃんに愚痴っちゃったばっかりなのに。……先、帰るね。ここの事は誰にも言わないから安心して。それじゃ……」
「葉弥乃」
 踵を返して立ち去ろうとした葉弥乃の足が止まる。
「俺は、お前に凄く助けられてるよ。静流も、……多分彼女も、それは同じだと思う。ありがとうな、葉弥乃」
 瞬間、何かを耐えるように、葉弥乃の全身が強ばる。
 そして、葉弥乃は乱暴に眼鏡を外し、乱暴にゴシゴシと腕で目元を擦り、深呼吸して振り向いた。
「……ったくぅ、な〜〜に言ってんのよぅ! そんなことでお礼言ってたら、あんた一生あたしにお礼言ってなきゃいけないよ?」
「そうかもな」
 葉弥乃の顔を見ないように気をつけながら、士郎は少し笑った。
「もうすぐご飯なんだし、静流ちゃんだって帰ってくるんだから、あんたも早く帰って来なさいよ!」
 顔を隠すそぶりを見せながら、葉弥乃は足早に立ち去った。
 なおぅ。
 葉弥乃の背中を見送っていた士郎のすぐ傍で聞こえた、馴染み深い声は蘭だった。
 どこで嗅ぎ付けて来たかは知らないが、士郎がこの場所に通うようになってから、たまに姿を見せるようになった。
 猫は家の外では主人を判別できなくなると言われているが、蘭は士郎がどこにいてもふらりと現れるし、士郎を士郎とはっきり認識している様子だ。
 蘭がここに現れる時は、特に擦り寄ってくるでもなく、少し離れたところで士郎をじっと見つめていることが多い。
 しかし、今日は珍しく眼を細めて盛んに頭を擦りつけてくると、腰を下ろした士郎の膝上に乗り、丸くなって喉を鳴らし始めた。
 士郎はいつにない蘭の態度に少し驚きながら、その背中を撫でてやりつつ、再度傾いた太陽を眺めた。
 もうすぐ、それぞれの静かな夜が来る。
 一日が、もうすぐ終わる。
 
     皆伝・剣の行く末、拳の想い。
 
 士郎と美燕の仕合から数日が過ぎ、今日から九月になる。
 月が変わっただけなのに、どこか秋の足音を感じるような気が武人にはしていた。
 美燕はこの数日、大事をとって安静にしている。本当は次の日から起き上がってきて家事をしようとしたのだが、武人が説き伏せてそうさせた。
 静流は自分がいない間に、なにか重要なことがあったのは感じているようだが、特になにも訊かずに家事をこなしている。
 葉弥乃はいつものように毎日やってきて、変わらぬ笑顔を振りまいていた。
 士郎も、行動はいつもの通りだったが、何か思い悩むというか、深く考え込んでいる様子だった。
 意図的になのか、それともなんとなくなのかは判らないが、士郎と美燕はどちらともなく食事の時間をずらしたりして、なるべく顔を合わせないようにしているようだ。
 気になると言えば気になるが、以前のような悪い意味での緊張感は綺麗さっぱり無くなっているので、後は時間に任せるしかないと武人は思っている。
 早朝。
 まだ誰も起きていない、眩しい朝日が差し込む時間。
 なんとなく物寂しさを感じながら、日課の鍛錬をしに稽古場へ足を運んだ武人は、神棚に向かって正座する背中を見つけた。
「ここでなにをしている、士郎?」
 武人の問いかけを受けて、士郎がゆっくり正座したまま振り向いた。
 ほう。
 その顔を見て、ほんの少し武人は感心した。
 少し引き締まったな、と思う。
 肉体的なことより、精神的なものだろう。美燕くんとの仕合は、意味あるものになったようだ、と内心嬉しく感じる。
 自然と頬が弛みそうになりながら、重ねて訊いた。
「もう鍛錬はしなくていいと、言ったはずだが?」
 やや詰問口調の武人に怯むことなく、士郎は胸を張っていった。
「俺を、鍛えて欲しい」
「……どういう心境の変化だ? もともと嫌がっていたのはお前だろう」
 我ながら意地の悪い質問だな、と武人は思う。
 士郎は言葉を選ぶようにしばし黙り込んでから、意を決した様子で口を開く。
「責任を果たしたいんだ」
 短く言う。
 この数日考えていたこと。
 美燕が、交えた拳から士郎の過ごした時間を感じ取ったように、士郎もまた交えた剣から美燕の過ごした時間を感じ取っていた。
 最後の一合。
 あれと同じだけの一撃を、もっと早くに出されていたら、床に伏せていたのは自分だっただろう。
 はっきり言って、自分が克ったことは奇跡に近いと思う。
 だが、克った。
 克ってしまった。
 それが事実。
 美燕がその剣にどれだけの時間を費やし、どれほどの気持ちを込めていたのか。
 あの短く濃密な時間の中、おぼろげながらそれを感じ、それに敬意すら抱いた。
 だから、強くならなくてはいけないと思った。
 強い気持ちを持って挑んで来た相手を退けた者の、それが最大の礼儀だと思うから。
 きっと美燕はもっと強くなるだろう。
 だから、自分ももっと強くならなければいけないと思う。
 美燕に克ったことを誇れるように。
 美燕が、自分と剣を交えたことを誇れるように。
「そのためには、多分、親父に鍛えて貰うのが一番いいと思う。頼む」
 そう言って、士郎は両手を床について頭を下げた。
 しばらく、じっとそれを見ていた武人は、頭を下げたままの士郎を見て、太く笑った。
「そうか」
 それ以上、武人は問い質さなかった。
「では、早速やるか。こい」
「おう!」
 正座から一挙動で立ち上がった士郎は、そのまま武人に挑みかかった。
 
 とんとん、と靴の爪先で軽く地面を叩く。
 士郎の腕や顔には真新しい痣や、絆創膏がいくつもあった。
 まだ時間的には余裕があるが、学校指定の夏服に着替えた士郎は玄関を出た。
 今更美燕に対して含みはないが、漠然とした気まずさというか、どんな顔をして会えばいいのか判らず、結果的に避けている形になっている。
 美燕のほうもどうやら似たようなものらしく、お互いに妙な牽制をしあっていた。
 今日から新学期なのだが、ぼうっとしてると葉弥乃が迎えにきてしまうので、なんとなく逃げをうつ気持ちで、溜息をつきながら門をくぐった。
「士郎さん」
 くぐったところで、不意に横合いから声をかけられて、驚きに飛び上がる。
 驚いて振り向く士郎の目に、門の向こうからは死角で見えなかった、制服姿の少女が飛びこんできた。
 士郎は一瞬それが誰か判らなかった。
「え? あ〜〜……」
 反射的に少し飛び退いた後で、士郎は口ごもる。
 どう呼んだらいいのか迷った。
 名前で呼ぶほど親しくはない気がするし、名字で呼ぶのもよそよそしい感じがし過ぎる気もする。
 思考停止状態で硬直している士郎に、少女は居住まいを正し、深々と頭を下げた。
「今まで数々の無礼、どうかお許し下さい」
 制服姿の少女──美燕の肩を黒髪が滑り、顔の横に流れ落ちる。
「ゆ、許すって……なにを?」
 相手から行動を起こしてくれたことに内心感謝しながら、士郎は尋ねた。
「考えが足りないばかりに暴言を吐き続けました。許していただけますか?」
「いや、その、許すも何も。何も間違ったことは言われてないし……俺の方が悪いこと言ったんじゃないかと思ったくらいで」
 しどろもどろに士郎が答えると、美燕が顔を上げた。
「それでは?」
「う、うん。気にしてないよ、全然」
「良かった。ありがとうございます」
 ほっとした顔の美燕から、士郎はなんとなく目を逸らす。
「登校するのでしょう? ご一緒してよろしいでしょうか」
 士郎は、不意打ちで謝罪を受けたせいでかなり動揺していたが、曖昧に頷いた。
「それでは」
 二人は微妙な距離を保ちつつ、並んで歩き出す。
 そのまま黙って歩きつつ、士郎は横目で美燕を伺った。
 ほんの何日か見ない間に、美燕の雰囲気は一変していた。
 手にした刀袋と馬鹿丁寧さは変わらないが、浴衣を着ていた時のような、どこか場違いな堅さが綺麗さっぱり抜け落ちている。
 堅く美しいが、壊れ易いガラスじみた雰囲気が、しなやかさを強靱さを兼ね備えたものに取って代わっている。
 結び上げていた髪を下ろし、首の辺りで簡単にまとめた美燕の横顔が、士郎にはほんの一時とても綺麗に見えた。
 その視線に気がついたか、美燕が不思議そうに顔を士郎に向ける。
 士郎は不必要に慌てて、取り繕う。
「あ、あのさ、怪我の方は」
「はい、戴いた薬が良かったのでしょう。何日かすれば鍛錬も再開できそうです」
 ごめん、と士郎は反射的に口にしそうになったが、寸前で堪える。
 それを口にするのは、美燕に対する最低の侮辱である気がした。
「あれは……」
 前を向いたまま、美燕が口を開く。
「よい仕合だったと、思います」
「うん」
 士郎自身が驚く程、自然に同意の言葉が口をついた。
 またしばらく、無言のまま並んで歩く。
「私は、弱いですね」
 ぽつん、と美燕が言う。
 強くなるために厳しい鍛錬を積んできたというのに、迷子になり暗がりで泣いていたあの頃から、なにも変わっていなかった。
 今回のことで骨身に染みて思い知った。今までの己の所行を振り返れば、恥ずかしさで身が竦みそうになる。
 結局は父の真意を説いて聞かされるまで、そんなことを考える余裕すら無くしていた。
 ただ悲しむばかりで、父の真意も、士郎や葉弥乃達の気持ちを考える事もせず、自分の事だけで精一杯だった。
 だから、認めよう。
「私は、弱いです」
 そう、自分は弱い。
 弱いから、ただ生きていくだけでも支えがいる。
 剣を握り続けるための理由がいる。
「だから」
 いつか、父が言っていた。
 剣士はただ剣のみを握っているわけではない、と。
 自分は父との絆を、剣と共に握っていた。
 士郎は、強く、疾く、真っ直ぐな拳に、何を握りしめているのだろう。
 いつかそれを知り、そしていつか、その拳に克ちたいと思う。
 少しづつでも、受け入れて。
 僅かずつでも、強くなって。
 だから、その日までは、剣を握り続けていようと思う。
 自分は、そしておそらく士郎も、不器用な人間だから。
 剣で、拳で、語るより他に仕方を知らないから。
 立ち止まった美燕は身体ごと士郎に向き直り、強く優しい微笑みを浮かべて言った。
「また、仕合いましょう。いつか、もっと強くなったら」
 士郎もまた立ち止まり、少し俯き加減に呟く。
「いつか、もっと強くなったら……か」
 その頃には、今は知らないなにかを知ることが出来ているだろうか。
「うん」
 今は見えない先が。
 越えるべき背中が、少しは見えているだろうか。
 頬が自然に綻びた。
「そうだな」
 士郎の答えに、美燕の笑顔が屈託のないものに変わる。
 ふと士郎は、美燕が家に来てから、美燕の笑顔を見るのも、美燕に笑顔を見せるのも、今が初めてだということに、今更ながら気がつく。
「おっはよーーーーーーぅ!!」
「はうっ?!」
 ドップラー効果を引きずって、まるで体当たりのような勢いで走ってきた葉弥乃が、そのままの勢いで力一杯美燕に抱きついた。
「いたたた……」
 さすがに怪我に響いたか、美燕が胸を押さえてやや顔をしかめた。
「ああっ! ご、ごめんね、みーちゃん、つい」
「……いえ、大丈夫です」
 慌てて顔を覗き込んでくる葉弥乃に、美燕は笑顔を返す。
 そう、別に士郎をうらやむ必要などなかったのだ。
 少なくとも、この強くて優しい、そのくせ繊細で魅力溢れる少女の好意は、会った時から自分にも注がれていたのだから。
 そんなことにさえ、自分は気がつかなかった。
 本当に自分は未熟なのだと思う。
 だがそれを自覚できるなら、より良い方向へ進むことも、きっと出来るはずだ。
「それはそれとして、二人とも薄情なんだから。待っててくれてもいいじゃない」
「悪い」
「すいません」
 まったく同時に謝罪の言葉を口にした士郎と美燕が、顔を見合わせて少し笑う。
 頬を膨らませていた葉弥乃は、一瞬その二人の様子にきょとんとしたが、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべて、二人を両手に抱え込んだ。
「お、おい?」
「葉弥乃、どうしたんですか?」
 訝しげな二人に取り合わず、葉弥乃はさらに両手に力を込めた。
「あ〜〜、なんかいいな〜〜……」
 士郎が家を出たのに気がついて追いかけてきた静流が、道端で一塊になっている三人を見て、羨ましそうに言った。
「なに言ってんの静流ちゃん。ほら、静流ちゃんも混ざんなさい、ほらほら!」
 葉弥乃が誘うと、静流は途端に笑顔で士郎達の後ろに回り、葉弥乃と一緒に二人を挟み込むように抱きついた。
 困惑の体を深める二人に、葉弥乃は屈託なく笑った。
「やっぱりさ、みんな仲良しなのがいいよね。そうでしょ?」
 澄みきった青空に、楽しそうな笑い声が溶けていく。
 しばらくはいい天気が続きそうな、そんな空だった。
 
                                     了
 
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