中伝・現在(いま)の剣と昔(かこ)の拳
 
        壱
 
 血と汗と油と、時間によって磨き込まれた床に、鋭い風切り音が反射した。
 早朝の稽古場。東側の格子窓から、白い朝日が差し込んでいる。
 美燕は手にした木刀を横に一振りしてから逆手に持ち替えて壁際に移動し、タオルを拾い上げて汗を拭いた。
 溜息一つ。
 本当ならば、稽古場の掃除だけをして戻るつもりが、この稽古場の持つ不思議な雰囲気に当てられて、つい鍛錬まで始めてしまった。
 武人が言うには、現在門下生らしい門下生はおらず、この稽古場を使っているのは身内ばかりだという。
 だが、綺麗に掃除され、ささくれ一つ無い床板、埃も積もっていない桟などを見れば、日常的に丁寧な手入れをされているのは充分窺い知れた。
 鈍く輝く三十畳はある床、そして建物自体に染みついた匂いが、かつてここで多くの者達が過ごした時間を忍ばせる。
 正面を見上げれば、やはり綺麗に掃除され、青々とした榊と御神酒が供えられた立派な神棚が、厳然と稽古場を見下ろしていた。
 昨夜聞いたところによれば、諏訪家では基本的に朝夕の食事は当番制であるとのこと。
 当然、美燕もそれに組み込まれるわけだが、環境に慣れるまでは、しばらくの間免除ということになるそうだ。
 美燕は、一応家事の類は苦手ではないし、下宿人であるとの立場を考えれば、今日から仕事を振られても構わなかったのだが、武人にやんわりと断られてしまった。
 それならば、ということで美燕が申し出たのが稽古場の掃除だった。
 そんな美燕の生真面目な態度に対し、苦笑いを浮かべながら武人は頷き、ついでにいつでも稽古場を利用してもいいとの許可も与えてくれた。
 しばらく神棚を見上げていた美燕は、自分が落とした汗を拭こうと、道場の隅に置かれたバケツと雑巾に歩み寄る。
 その時、どこかで感じたことのある気配が近づいて来るなと思っていると、大小二つの人影が稽古場に飛び込んできた。
「毎朝毎朝寝込みを襲って来やがって、この偏執狂!」
 小さい方の人影は士郎だった。無地のTシャツに短パン姿で、起き抜けなのか、頭に寝癖がついたままだ。
「毎朝ではないな。ちゃんとお前の食事当番の時は遠慮しているぞ」
 涼しい顔で言ったのは、当然武人。こちらは昨日と変わりない作務衣姿。
「そういう問題じゃねえよっ!」
 額に怒り筋を浮かべて、士郎は闘犬のような勢いで襲いかかった。
 唐突に目の前で始まった闘いに美燕は少し驚いたが、昨日の今日で多少精神的な免疫ができていたか、すぐに冷静になると興味深げに勝負を見つめた。
 一合、二合、三合。
 攻防が繰り広げられてすぐに、美燕の心には感嘆が広がっていった。
 攻めているのはほとんど士郎だが、その蹴り一つ、突きの一つが速度もキレも申し分なく、攻撃の回転もいい。見ていると、一呼吸で三連撃以下の手がない。
 それ以上に凄いのは、もちろん武人。
 無数に繰り出される士郎の攻撃を、何分の一か、それ以下の手数で一つ残らず捌いている。しかも、武人は最初の立ち位置から足を踏み換えすらしていない。
 動作の速度自体はむしろゆっくりだというのに、まるで士郎がわざと外しているのではないかと思うほど当たらない。
 格が違いすぎる。
 時間にして、僅か十秒が過ぎた頃には、美燕ははっきりとそう確信した。
 確かに士郎も年齢にそぐわない技量を持っているようだ。幼い頃から鍛錬を積んでいる美燕から見ても、感心に値するだけのものだった。
 しかし、武人のそれは次元が違っている。
 どう見ても士郎の動きは完全に読まれ、余裕を持っていなされてしまっていた。
 しかも、美燕にはその余裕がどれほどのものか感じ取ることができない。
 士郎の相手をしている力が、本来の十分の一なのか百分の一なのか、まったく読み取るどころか、予想すらつかないのだ。
 剣士に限らず、武術を嗜む者にとって、相手の技量を読み取る眼力は必要不可欠のものだ。彼我の力量差を読めない相手に対し、勝負に持ち込むなど危険極まりないからだ。
 美燕自身は、いわゆるそういった戦術眼に関しては、僅かながらも自信があったのだが、武人を見ていると、その僅かな自信も徐々に薄れていく。
 極端な話をすれば、相手が自分より強いか弱いかさえ判ればいいのだが、武人の場合、それすら曖昧になってしまう。
 計り知れない実力を伺わせはするものの、なぜか見ているうちに「ひょっとしたら勝てるのでは?」と思ってしまう。強弱すらもはっきりとは判らなくなっていくのだ。
 鬼を斬る剣を持ってしても斬れなかった男。
 以前に、父が武人を評して言った言葉を、美燕は思い出す。
 武の世界において「闘神」とも称されたというその実力の片鱗を肌で感じ、その深淵のような得体の知れなさに美燕は密かに身震いした。
「どうした、もうへばったか?」
 三分ほど経った頃だろうか、嵐のような連撃を続けているせいで目に見えて失速してきた士郎を、武人が笑い混じりで挑発する。
 息も乱さずに吐き出された余裕綽々の言葉に、士郎の顔がかっと紅潮する。
「……このぉっ!」
 下段蹴りの牽制から繰り出した上段蹴りも牽制。
 僅かに仰け反らせた武人の腹めがけて本命の肘打ちが、素早く滑らかな連携で襲う。
 美燕の目には、武人が無造作に左斜め前へ踏み出したように見えた。
 それだけで、士郎は綺麗に空中で一回転すると、背中から床板に叩きつけられた。
 昨日もそうだったが、美燕には武人がなにをしたのかすらほとんど判らない。
「今日はこんなところか」
 乱れてもいない襟元をわざとらしく整えながら、武人は床で仰向けになって呻く士郎を見下ろした。
 一応受け身は取っていたようだが、ほとんど垂直に床へ落ちるというきつい投げだったので、あまり威力を消せなかったのに加え、全力疾走のような攻めのせいで疲労困憊なのだろう、士郎は立ち上がる気配がない。
「美燕くんは、速いな。しかも、さっそく掃除もしてくれたようだ。すまないね」
「い、いいえ、自分で言い出したことですから!」
 諏訪親子の攻防に見とれていた美燕は、急に武人から声をかけられて背筋を伸ばした。
 生真面目に身を固めるその姿に、武人は目もとを緩めた。
「そろそろ、朝飯もできる頃だ。きりの良いところで上がってほしい」
「はい!」
 大きな背中を見せて稽古場を出て行く武人を見送ってから、美燕は士郎へ近づいた。
 士郎はまだ荒い息をつきつつ、床で大の字になったまま天井を見上げていた。
「ちくしょ〜〜……」
 呻きとも呟きともつかない声が、その口から漏れていた。
「大丈夫ですか?」
「……一応ね」
 美燕の声に、ちらりと少しだけ美燕を見た士郎は、むっくりと上体を起こした。
「あんたは朝練か? 強制されてるわけでもないのに、精が出るな」
「私は……習慣のようなものですから」
 士郎の言葉に、わずかな皮肉の匂いを感じて少しムッとしたものの、それを押さえて美燕は言った。
「……士郎さんも、腕が立つのですね」
「腕が立つって?」
 吐き出す口調には、はっきりと自嘲の色が見えた。
「親父を本気にさせることもできないけどね」
「それは……」
「横で見てたら解るだろ? 親父が本気出したら、一瞬も立ってられないだろうさ。後さ……」
 一挙動で立ち上がった士郎は、美燕の方を見ずに吐き捨てた。
「おれは、武術の腕なんか褒められても、嬉しくも何ともないんだよ」
 そのまま、士郎も足早に稽古場を後にする。
 再び一人になった稽古場で、睨むように出口の方を見つめながら、美燕はしばらくそこにたたずんでいた。
 
 今日の朝食当番は静流だ。
 メニューは、トーストにスクランブルエッグ、ポテトサラダに具沢山のワカメスープ。内容だけ見ればいたって普通だが、あきらかに量が多い。
 別に今日が特別なわけではなく、諏訪家ではいつもそうである。
 基本的に諏訪家全員、身体を動かす機会が多いせいか健啖家揃いで、朝食が一日で一番分量が多いのだが、皆胃もたれとは無縁である。
 実家でも似たようなものだったので、美燕は特にそれに関して驚かなかったが、細く見える静流ですら、自分と同じくらい食べるのには多少びっくりした。
「みーーぃーーちゃーーん! がっこーーいこーー!」
 美燕が食後の茶を飲んでいると、まるで小学生のような声が玄関からかかる。
「朝っぱらからテンションの高い……」
 同じく茶を飲んでいた士郎が、顔をしかめつつ立ち上がった。
「おはよー、みーちゃん。よく眠れた?」
 支度を終えて出てきた美燕に向かって、白い半袖のシャツに紺色のプリーツスカートという夏制服姿の葉弥乃が、高々と挙手して挨拶する。
「はい、お陰様で。葉弥乃さんも、朝からお元気ですね」
「あはは、それしか取り柄がないからねー。それと、あたしのことは呼び捨てでいいって言ったでしょ?」
「あ、そうでしたね、すいません」
「んーー、その敬語もどうにかしたいんだけど、ま、今はいいや。それより、みーちゃん、その格好で登校するの?」
「……やはり、おかしいでしょうか」
 美燕の姿は、昨日に引き続き剣士姿。荷物も刀袋だけだった。
「んーん、別におかしくないと思うよ。それだって、制服みたいなもんと言えばそうだし、他の街ならともかく、この街じゃさほど目立たないでしょ。たんに、みーちゃんのスカート姿も見たかったかな、と思ってね」
「制服はまだ注文もしていなくて。前の学校は私服でも良いところでしたので、学生服自体を持っていないのです」
「そろそろ出ねーと遅刻するぞ」
 美燕と葉弥乃が話し込んでいる横で、トレッキングシューズに履き替えた制服姿の士郎が忠告する。
 その言葉に、葉弥乃は意地悪そうにアゴを突き出して言い返した。
「あたしはみーちゃんを迎えに来たんですー。別に待ってないで先行けばいーじゃん」
「そうするよ」
 言い争うのも無駄と思ったか、士郎はあっさりと背を向けてさっさと歩き出す。
「あ、こら! ヘソ曲げんじゃないわよ!」
「あー待って待って、わたしも一緒に出ます!」
 士郎を追って玄関を出た二人に静流も加わり、四人そろって家を出た。
「みーちゃんは、どこか部活とか入るの?」
 のんびりと三人並んで歩きながら、葉弥乃が美燕に訊く。
「部活ですか……考えてなかったですね。前の学校では入っていませんでしたし。葉弥乃さ──」
「葉弥乃!」
「──は、なにか部活をしているのですか?」
「あたし? あたしは新聞部。ちなみに部長よ」
「新聞部?」
「そ。意外?」
「運動部かと思いました。運動神経は良さそうなので」
「まあ、我ながら悪くないと思うけどね。そういうのは見てる方が好きかな、特に武術系は。そうそう、それを言うなら、静流ちゃんの方が凄いんだよ」
「そうなのですか?」
 葉弥乃を挟んで向こうの静流に目を向けると、恥ずかしそうに首を横に振った。
「そんなことないですよ。ちゃんとどこかに所属してるわけじゃないし」
「入学早々、血で血を洗う勧誘合戦が勃発してね。そういや、あの時は新聞のネタに困らなかったなぁ」
 妙に物騒な単語が混じったことにやや怯みながら、美燕は重ねて訊いた。
「勧誘合戦というのは?」
「いや、小学校高学年の頃から、静流ちゃんは色々勇名を馳せていたからねぇ。運動系の部活は軒並み獲得に血眼になったのよ。で、最終的には、どこにも所属しない代わりに、どの部にも助っ人として参加するのを認めるという条約がね」
「なにか政治情勢みたいな話ですね」
「いやー端で見てる分には面白かったけどね。静流ちゃん自身は、家事の手伝いとかがおろそかになるから、部活そのもののをやるつもりがなかったんだけど。この子もお人好しだから」
「ひあっ?」
 笑いながら、葉弥乃がうにっと静流の脇腹を摘むと、脇腹は弱点なのか、静流は妙な悲鳴を上げて身をよじった。
「もう、脇腹はやめて下さいって。……本当は、つっぱねた方が良かったのかもしれませんけど、皆さん凄く熱心だったので。家事に影響が出ない程度ならいいかなって」
「も〜〜、なんて良い子なのなのかしら。……万年帰宅部のくせして進んで家事を手伝うわけでもない、どっかの誰かさんと血が繋がってるなんて信じられないわねぇ」
 静流の腰を抱き寄せつつ、多分に意地の悪い笑みを浮かべ、家を出てからこっち背を向けたまま一人先を行く士郎の背中に言葉を投げる。
 だが、士郎は軽く鼻を鳴らしただけで、振り返りもしなかった。
「あ、気にしないでね。こいつ、単に人見知りが激しい上に愛想が悪いだけで、別に怒ってるわけじゃないから。いつもこんな感じなの」
 なにか含みがあったわけではないが、何の気なしに士郎の背中を見ていた美燕に、葉弥乃が取り繕うように言う。
 ふと興味を覚えて、美燕が尋ねる。
「あの、お二人の付き合いは長いのですが?」
「士郎のこと? 付き合いっていうのもなんだけど、うん。生まれた時から家族ぐるみの付き合いだよ。聞いた話では、お父さんがおじさまの大ファンだったとか。だからってわけじゃないけど、家も近所だし、ちっちゃい頃から半分おじさまンとこの子供みたいなもんだったし、要は腐れ縁?」
「お母さんがいなくなった直後は、葉弥乃さんのご両親にすごくお世話になりました。おばさまにはよくご飯を食べさせてもらいましたし」
「それほど長い間じゃなかったけどね。なんでか士郎とは、ずーーーーっと同じクラスだったし」
 そんな話をしながら歩いていると、やがて家並みの向こうに、古めかしい木造の大きな建物が見えてくる。
 美燕が通うことになる中学校は、今時大変珍しい木造二階建ての校舎だった。
 学校としてはかなり歴史が古いらしく、校庭の隅にある碑には大正の年号が掘られているのが見えた。
 まだ多少門限まで時間があるが、校門に入るとそれなりに多くの生徒が歩いている。
 明らかに違う学年の生徒からもちらほらと挨拶を受け、愛想良く返事を返す葉弥乃を見て、顔が広いものだなと感心しながら歩いていた美燕は、玄関前で葉弥乃達と別れた。
 その足で来客用の窓口に転校生である旨を伝えると、ほどなく職員室に案内された。
「やあ、君が上泉さんの娘さんかい?」
 職員室で待っていた担任だという、肩幅の広く髪の短い四十絡みの教師は、歳に不釣り合いな溌剌とした笑顔で金堂と名乗った。
「懐かしいな。上泉さんがこの街で過ごしていた頃、随分世話になったものだよ」
「あの……父の、清澄(きよすみ)のことでしょうか?」
「ああ、そうだよ。上泉……紛らわしいか。清澄さんは、若い頃この街にいたんだが、聞いてないのかい?」
「……初耳です」
 思わないところで耳にした父の昔話。
 考えて見れば、父にだって若い頃はあったろうし、その時分に色々と見聞を広めていて当然だ。なんとなく、父はずっと父のままだったように思い込んでいたことに、いわく言い難い複雑な感情が浮かんでくる。
「色々と話してみたいんだが、すぐにホームルームだからね。その後は終業式で、すぐに放課だ。一応夏休みの課題も出すが、あまり気張らなくていいから、解る範囲でやれば構わないよ。今日中にまとめておくから、明日以降取りに来てくれるかな」
「お手数おかけしまして、すいません」
「いや、本当は今日中に渡せるはずだったんだがね。面倒臭いだろうが、また足を運んで欲しい。じゃあ、行こうか」
 美燕が頷くと、金堂は出席簿を手に立ち上がった。
 
      弐
 
「随分面白そうなのが来たみてえだなぁ、おい」
 小柄で痩せ気味の身体に、不思議な精力を漲らせた男が、縁側に片あぐらをかいて座っている。片方の何も入っていない袖が、微風に揺れていた。
「面白そうな、ですか?」
 大きな身体で、正座したまま武人が少し首を傾げる。
 大半の襖や障子が開け放たれた屋敷の中を流れる風には、香の香りが混じっていた。
「とぼけんじゃねえよ」
 隻腕の男は雪駄を履いた足をぶらぶらさせながら、熱い番茶をすする。
「あいつの娘、もうきてんだろ?」
「美燕くんのことですか」
「そんな名前か。まだ年端もいかねえ娘っ子だろうに、そこそこ使えるみてえだなぁ」
「もう、お会いに?」
「うんにゃ。昨日、俺のところに伸されたチンピラ餓鬼が転がり込んできてな。そのやり口見てピンときたのよ」
 にやにやと嬉しそうな笑いを浮かべる男とは対照的に、武人は苦笑いを浮かべる。
「真面目そうな娘だったので、そういう話とは無縁かと思ってたのですがね。来た早々にですか」
「血は水よりも濃しっていうしな。あいつの娘だったら当然じゃねえか?」
「まあ、そうかもしれませんが」
「しかしまあ」
 言いつつ、男は中身が半分程になった茶碗を縁側に置き、お茶請けの羊羹を一切れ口に放り込む。
おめえあいつの餓鬼が、もう一端に使うようになりやがったか。時間の流れってのは早ぇもんだな。おめえらに出会ったのなんざ、ほんのつい最近みてえな気がするんだがなぁ」
 ず、とまた茶をすする。
 蝉の声と陽光を含んだ風が吹く。
「あの頃ぁ、楽しかったな。なあ、タケよ?」
「そうですね」
 ほろりと笑みを浮かべて、武人が頷く。
「爪先から毛ぇ一本一本の先まで、パンパンになるくれぇ充実してなよなぁ。……そういや、おめえとは何回やったっけな?」
「三度ほど」
「そんなもんか。いまんとこ、おめえにゃ一度も勝ててねえな」
「楽に勝てたことなど、一度もありませんが」
「あたりめえだ、馬鹿。これでも『蝮』(まむし)の二つ名もらった身だ。楽に勝てたなんて言われたら立場がねえ」
 苦笑い混じりに、ジロリと一つ横目で睨みつけておいて、空になった茶碗を差し出す。
「まあ、あいつはすこぅし毛色が違ってたがな」
「そうでしたね」
 時間という名の埃を随分と被ってしまった思い出を掘り起こし、武人は懐かしそうに笑った。
「剣鬼とは、ああいう者を言ったのでしょうね」
 新しく淹れた熱い番茶を、蝮に差し出す。
「鬼、か……そうだな。異質って意味じゃ当たってたかもな。ちょっとでも腕に覚えのある奴ぁ、軒並みあいつとやんのを嫌がったっけか」
「それは仕方ないでしょう。彼の闘いを一度でもみれば、もし向かい合ってしまったら、後は死闘しかないと解りますから。それを恐れる者は少なかったでしょうが、気軽に交われない相手だと皆思ってたでしょう。覚悟のいる勝負というのは、軽々に行えるものではありませんから」
「ん? なんかどっかの誰かは、わりと簡単に勝負を挑んでたような気がしたがなぁ」
 意地悪く笑みを含んだ蝮の視線に、武人は照れ笑いを浮かべて顎を掻いた。
「そう見えていただけですよ。なにより私も若かったですから。それに、彼を見た瞬間、解ったような気がしたのですよ。彼が何を求めているのか。その望みを……乾きをなんとかするのは自分の役目だと、そう思ったのです。何故、と言われても困りますが」
「と、言われてもな。なんでだよ、としか言いようがねえな」
「その時には、解っていたのかもしれませんね。でも今は……」
 ふと、武人の顔に哀しみの影が横切る。
「もう、それがなんだったのか、今の私には解らなくなってしまいました」
 しばらく、蝮が茶をすする音と蝉の声だけが聞こえた。
「……活人、か」
 唐突に、庭を眺めながら、蝮がボツリと口にする。
「およそ『武』というもんが生まれてから今日まで、連綿とくっついて回る思想っつーか、理想だな。本朝においては、剣豪の祖って言われる剣術者が『害になる人間を切り捨てて、他の人間を生かす』とか言ってたそうだが。殺人・活人ってなれば、理屈は通ってそうだが……なんていうんだかな、感触みてえなもんが違うんだよなぁ。うまく説明できねぇな。……まあ、『武』による活人ってもん自体、俺はただの理想に過ぎねえと、そう思ってたからな。俺自身、それなりに長ぇこと、いろんな奴とやってきた実感としてな」
 トン、と音を立てて茶碗を縁側に置く。
「おめえと会って、おめえとやって、おめえがあいつとやるのを見るまではよ」
 武人が目を向けると、蝮は背中を向けたまま続けた。
「あれから、俺はおめえに克つことだけ考えてきた。俺とて武の道を歩む者よ。おめえに打ち克つことで、もっと先に、先人も辿り着かなかったところに行けるかもしれねえと、そう思ったのよ。無論、今だってそう思ってんだ」
 怒りでも懇願でもない。
 何か強い気持ちが、哀切すら含んだそれは、聞く者の心に染み込むなにかだった。
「──申し訳ありません」
 言い訳もなく、ただ頭を下げる武人に、蝮は、ち、と舌を鳴らした。
「謝んじゃねえ。解ってんだよ、今のおめえにゃ俺が克つべき『何か』が無えってな。今のおめえに克っても意味がねえ。だからこうしておめえが元に戻んのを待ってんじゃねえか。……何年だって待つぜ、俺ぁよ」
 夏特有の爽やかな風が、さあっと吹き抜けた。
「あれは」
 蝉の声が一段落した隙間に、武人が呟き、蝮が振り向く。
 武人の視線は開け放たれた屋敷の奥、仏間の方を見つめていた。
「幸せだったでしょうか」
 蝮は顔をしかめる。
「知るか。オレに訊くんじゃねえよ。おめえがくたばったらあの世で本人に訊け」
 ぶっきらぼうな老人の言い様に、武人は困ったような笑いを浮かべた。
 庭のどこかで、また蝉が鳴き始める。
「時に──てめえらの餓鬼どもの話だがよ」
 蝉の声に耳を傾けていたように見えた蝮が、縁側から庭へ降りながら言う。
「餓鬼のいねえ俺がいうのもなんだがな。おめえらが何を思おうと、何を企もうと、結局はなるようにしかならねえと思うぜ? ま、黙ってみてらんねえってのもわからなくねえがよ」
「もう、お帰りですか?」
 蝮の言葉には応えず、武人は逆に問い返した。
「おう。診療所も開けねえとなんねえからな。ほいじゃごっそさん、またくるぜ」
 あっさりと言って行きかけた蝮が、ふと立ち止まり、肩越しに武人を振り返った。
「そういやぁな」
 茶碗を片付けかけていた武人は手を止め、顔を上げた。
「あの娘は、おめえの話をしてる時が、一番綺麗だったぜ」
 さらりと口にして、さっさと去っていく蝮の背中に、武人は黙って頭を下げた。
 薄く立ち上る線香の煙。その向こうで、写真の女性はただ優しく微笑んでいる。
 
       **********
 
 美燕の通っていた学校も木造だったが、規模がまったく違うし、なにより建物内の気配は桁違いに多い。
 それなりに手入れはされているらしい木造校舎の廊下を、金堂の後ろについて歩きながら、美燕は少し落ち着かない気分を味わっていた。
 別に緊張しているのではないが、どちらかといえば気配に敏感な質なので、大勢の気配に慣れないのだ。
 やがて一番奥まった場所の教室に辿り着く。教室内の賑やかなやりとりが、入り口の戸越に聞こえてくる。
「じゃ、いいかな?」
 声をかけてくる金堂に返事を返すと、金堂は頷いて勢いよく戸を開けた。
「おはよう! ホームルーム始めるぞー」
 金堂の後について教室に入ると、あ、という聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 不審に思って、美燕がそちらに目を向けると、三十以上の机が並ぶ最後列の席に、見覚えのある眼鏡の少女がいた。
「え〜〜、一緒に勉強するのは夏休みが開けてからになるが、転入生の上泉美燕くんだ。休み明けにまた改めて紹介することになるとは思うが」
 金堂が美燕を振り向くと、美燕は頷いて一歩前に出た。
「上泉です。今後ともよろしくお願いします」
 ぴしりと背筋の通った礼をして顔を上げると、葉弥乃が満面の笑みで、中途半端に上げた手をニギニギしていた。
 思わず美燕が笑み溢れると、葉弥乃がニギニギを止めて窓際の方を指さす。
 指先を辿ると、そこにも見知った顔があった。つまらなそうに窓の外を眺めている、窓際最後列の席は士郎だった。
 その無言のやりとりを見た金堂は、興味深そうに葉弥乃へ尋ねた。
「なんだ、一ノ瀬は知り合いか?」
「もうばっちりステディですよ!」
「そういえば、上泉くんは諏訪さんのところに下宿だったな。それならどうせだから、上泉くんの事はお前に任せようか」
「OKで〜〜す」
 頭の上に両手で大きく丸を作る葉弥乃に苦笑いを浮かべ、簡単に連絡事項を伝え終わると、生徒達に体育館へ移動するように指示した金堂は一足先に教室を出て行った。
 椅子を鳴らしてそれぞれに立ち上がるクラスメート達の間をすり抜けて、葉弥乃が軽い足取りで美燕のところまでやってくる。
「やっぱり同じクラスになったね。これって運命って奴?」
「そうかもしれませんね」
 溢れるような笑顔で両手を取ってくる葉弥乃に、美燕も屈託無く笑顔を返す。
「そういえば、今日は終業式だけなんだから、無理に出なくても良かったんじゃ?」
「担任の先生にも言われたのですが、部屋にいてもやることがありませんから……」
「そっか、この街に来たばっかりだもんね。時間潰す場所も知らないか。よし、学校終わったら、いろんな場所案内してあげる! 予定は無いんでしょ?」
「葉弥乃……さえ良ければ、お願いします」
 無意識にさん付けしてしまいそうになったところで軽く睨まれ、咄嗟に言い換える。
 美燕はどこかしら厳格というか、やや近寄りがたい雰囲気はあるものの、凛とした佇まいにはえも言われぬ存在感がある。
 平素であればそれなりに同級生の興味を引いただろうが、生徒のほとんどは目の前に迫った夏休みに気がいってしまっているようで、わざわざ美燕のところまでやってきて話をしようという者はいないようだった。
 やがて、終業式は粛々と行われ、どこの学校にもありがちな校長の薫陶なのか諸注意なのか分かり難い長話が終わると、また簡単なホームルームがあり、放課後になった。
「部活には、顔を出さなくて良いのですか?」
 下校する生徒達で混雑し始めた玄関で、靴を履き替える葉弥乃に美燕が訊いた。
「うん。先週夏休み前の特大号出したばっかりだしね。後は登校日に発行する特別号の準備まで、まだ少し暇があるから。ぼちぼち後輩にも任せていかないとダメだしね」
 開放感に満ちた挨拶を投げていく同級生に、愛想良く返しながら葉弥乃は言った。
「どうも、お待たせしました」
 そこへ、登校時よりもかなり荷物の増えた静流が合流する。
「いやいや、ぐっどたいみんぐよぅ」
 三人で連れ立ち校門を出たところで、美燕は違和感に気付いて立ち止まった。
「あの、そういえば、士郎さんは待たなくていいのですか?」
「士郎? ……ああ、そっか」
 美燕に訊かれて、気がついたわけでは無さそうだが、葉弥乃と静流は顔を見合わせた。
「お兄ちゃんはですね」
「学校が終わると、どっか消えるのよ、あいつ」
「消える?」
「葉弥乃さんの話も合わせると、もう何年も前からみたいなんですけどね。学校が終わるとすぐにいなくなって、どこにいるのかさっぱり判らないんです。学校を出て行くのを見たって話は聞きますし、部活にも入ってないはずですから、少なくとも学校にはいないみたいです。日が暮れる頃には帰ってくるんですが」
「何度か尾行しようとしたんだけどね、いつも撒かれちゃうのよ。別に悪い連中と付き合ってるわけでもなさそうだし、今のところ気にしなくてもいいかな、と思ってるんだけどね」
「び、尾行ですか」
「わたしは、うちに帰ってお父さんにシゴかれるのがイヤなんだと思いますけど」
 妙に怪しげな単語が出てきたことに目を白黒させていると、静流が笑って付け足す。
「ま、あいつのことは、そういうわけだから心配しなくていいよ。それより、お昼ご飯どうする?」
「今朝はわたしが当番だったんで、お昼の仕込みもしておいたんです。葉弥乃さんの分も用意しておきましたよ」
「ほんと? 静流ちゃんの作るご飯、美味しいからねぇ。お邪魔しようかな。じゃあ、ご飯食べたら出かけましょう。みーちゃん、それでいい?」
「はい、お任せします」
「おでかけですか?」
「うん、みーちゃんに街の案内してあげようと思ってね。静流ちゃんも一緒にどう?」
「喜んでご一緒します。最近おでかけしてませんでしたから」
「決定ね。さ、急いで帰って、ご飯にしましょう」
 
      **********
 
 ぎりり、と弓を絞るように、筋肉が伸縮する。
 限界までの酷使に握力が耐えきれず、どすんと大きな石が両手からこぼれ落ちる。
 流れ落ちる汗を拭いながらぎこちなく調息すると、ほとんど休みを取らずに次の鍛錬を始める。
 端から見れば、それは拷問じみた鍛錬だった。
 何がそこまでさせるのかは解らないが、そこに悲壮感は無く、ただ強い意志と燠火に似た静かな情熱だけがあった。
 それは、荒い息に滴る汗、地面を踏みしめる音や風切り音に包まれ、ただひたすらに黙々と行われていた。
 
        参
 
 なお。
 特徴ある綺麗な鳴き声に美燕がその主を捜すと、真っ白い日本猫が、すぐ隣に座りこんで、縦に割れた金色の瞳で美燕を見上げていた。
 まるでその姿勢で生まれてきたように、その姿は自然で美しい。なぜか見た瞬間、その猫が雌だと判った。
 美燕達は学校から帰宅し、そろって食事の用意を済ませた後、行方不明の士郎と、所用で留守にすると書き置きがあった武人を除いた三人で食卓を囲んでいるところだった。
 自分が今食べているチーズリゾットが目当てかと美燕は思ったが、その猫の双眸は、はっきりと美燕の顔に注がれていた。
 白描は、美燕の心の奥底まで見通すような、不思議な目で見つめてくる。
 美燕も、その得体の知れない凝視から目をそらせずに、しばしの間見つめ合う。
 ふと白描が目をつむり、食卓を向くとその場にしゃがみ込んだ。
「あ、帰ってきたんだ」
 食卓の右斜め向かい側で、一人と一匹の見つめ合いに気付いた静流が、食卓の下から覗き込んで言う。
「こちらの、猫ですか?」
 思わず、お知り合いですかと訊きそうになりながら美燕が問う。
「はい、蘭(らん)っていうんですよ」
 答えつつ静流は立ち上がり、小走りに台所へ向かった。
「ちょこちょこいなくなるんだよね。ここしばらく見てなかったんだけど。女の子なのにフーテンぽいのよ」
 美燕の左斜め向かいで自分の分の昼食をぱくぱくと口に運んでいた葉弥乃が補足する。
「今後こちらでお世話になる美燕です。よろしくお願いします」
 威風堂々としたその態度に恐れ入ったわけでもないだろうが、美燕は丁寧な言葉で蘭に話しかけた。どうも、そんな気になってしまう妙な威厳のある猫なのだ。
 蘭は閉じた目を少し開いて、返事するように喉の奥で小さく鳴いただけで、またすぐに目を閉じてしまった。
「なんでか知らないけど、士郎に一番懐いてるんだよね」
「お兄ちゃんに拾われたのを覚えてるんじゃないですか?」
 新聞と猫用の器を持った静流が戻ってきた。
 食卓の横に新聞紙を引いて器を置き、戸棚から乾燥食(カリカリ)と猫缶を出して盛りつけ、もう一つの器に水を注いでやる。
 準備が終わってから蘭はゆっくりと立ち上がり、ガツガツとしたところが一切ない悠々とした足取りで食事に近づくと、静かに食べ始めた。
 それは小さいながらも、肉食獣の仕草だった。
「士郎さんが、ですか?」
「意外?」
「はい」
 きっぱりと答える。
「そうかなー? ああいう少しヒネたところのある奴って、案外動物好きが多いと思うよ。まあ、動物好きだからって、良い人とは限らないんだけどね」
 蘭がカリカリを噛み砕く乾いた音が聞こえてくる。
「でも、お兄ちゃんが蘭のこと可愛がってるの、ほとんど見たことありませんよ?」
 そんな調子で談笑しつつ食事を終えた三人は、先に食事を終えて庭先の木陰で一休みしていた蘭に一声かけ、連れだって出掛けた。
 
 まずは、制服を注文しておきたいという美燕の要望に応えて、最初に学校指定の店で採寸を済ませた三人は、駅前から続く通り沿いにあるデパートに足を運んだ。
 駅前からはややというか、かなり離れたそのデパートは、地下階を含めて四フロアあり、高さはないが床面積がかなり広く、意外に規模の大きい店だった。
 地下階は食品テナント中心のフロア。一階は生鮮食品売り場。二階は服や生活雑貨で、三階は電気屋と、趣味色の強いテナントで構成されている。
「欲しいものがあるけど、売ってるところが判らないって時は、ここにくれば大体みつかると思うよ」
 というのは葉弥乃の弁。
「もっとマニアックなものが欲しい時とか、慣れてきたら商店街の方がいいよ。仲良くなったら、ここよりもサービスいいし」
 次に案内されたのは、その商店街。
 デパートのあった通りの隣の通りが昔からの商店街とのことで、行ってみると確かに道は多少狭いものの、雑多な店が多く、活気の溢れる場所がそこにあった。
 その外れには、昨日葉弥乃に案内された喫茶店もある。
「昨日、駅に着いた時にも感じたのですが……」
 商店街の入り口に差しかかり、駅前の通りよりも整然さと開放感はないものの、ずっと活気に溢れた雑多な店々を眺めながら、美燕がどちらにともなく尋ねた。
「この街は、駅前が少し寂しくありませんか?」
 普通は、駅前がそれなりに賑やかなものだと思うが、と美燕が付け加えると、葉弥乃が答えた。
「そりゃあ、こっちの方が歴史があるからじゃないかな」
 葉弥乃の説明によれば、この街は元々城下町で、商店街の通りは城の側まで続く大通りが前身なのだそうだ。
 新しく発展した街ならいざ知らず、それなりに歴史が古い街なので、鉄道が引かれる頃には街が出来上がっていたらしい。
 用地買収や経路の関係で、町外れに駅が建てられたとのこと。
「一応、計画としては駅前通を新しく整備して、商売の中心にしようとしてたらしいけど、この辺は良くも悪くも田舎で、ちょっと閉鎖的だし。結局、慣れた方に落ち着いたってところかな。うまいこと共存できてるみたいだしね」
 地方の城下町は、大体どこも同じじゃない? と付け加える。
 その説明で、商店街通りの古風な印象と、独特の美しさの正体が美燕には解った。
 車など存在しない古くから整えられた街だからこそ、徒歩で歩くことにより、その美しさは引き立つ。
「詳しいですね」
「んー? 小学生の頃、社会の授業で調べたからね」
 まんざらでもなく、葉弥乃は微笑んだ。
「じゃあ、てきとーに冷やかして歩こうか」
 デパートの時とは違い、勝手知ったる何とやらで、葉弥乃は意気揚々と歩き出した。
 どうも葉弥乃は商店街でもかなり知られた顔らしく、店先で仕事をしている老若男女、ほぼ全員がなんらかの好意的反応を見せた。
 それは静流も同じで、葉弥乃のように陽気な返事をしないが、それでも丁寧に会釈を返していた。
「静流さんも、良く知られているようですね?」
「あたしは、お父さんが有名人ですし。葉弥乃さんともよく歩きますから」
 はにかみ混じりの可愛らしい笑顔で、美燕にはそれだけが理由でないことが解る。
 実際、葉弥乃は案内人としてこれ以上はなく有能だった。
 表通りの店は言うに及ばず、支道の隠れた店や裏道の店。果ては露店まで総てを把握しているようだった。
「ここ、ちょっとよっていこう」
 葉弥乃が示した店は、何本目かの支道を入ってすぐのところにあった。
 それほど大きくはない店だが、外から見える商品から察するに、セレクトショップの類のようだ。看板には形容しがたい、丸いというかなんというか表現に困る書体で「ぶらうに〜」と表記されている。
 葉弥乃と静流の後に続いて入店した美燕は、やや商品が多めで雑多な印象はあるものの、掃除と整理の行き届いた清潔感ある店内に好感を持った。
 店は縦長の構造らしく、やや奥まった辺りにカウンター兼レジがあり、その向こうに座っていた長身で華やかな雰囲気の女性が、葉弥乃達を見つけて声をかけてきた。
「おや、葉弥乃ちゃんに静流ちゃん。いらっしゃい、今日は何をお探し?」
「こんちは、ムラさん。今日は賑やかしなの、ごめんね。今度うちのクラスに来た転校生に、このお店紹介したくて。みーちゃん、こちら村雨さん。ここの店長さんだよ」
 そう言って葉弥乃が美燕を示すと、その女性は美燕に目を向け、客商売らしい人好きのする笑顔を見せた。柔らかい香水の匂いがほのかに鼻をくすぐり、うっすらとした化粧に健康的な色気が漂う。
「格好いい子ね。初めまして」
「は、初めまして、上泉です」
 あまりこういう女性然とした人物に知り合いがいない美燕は、緊張気味に頭を下げた。
「なにか買い物することがあったら、よろしくね、ムラさん」
「もちろん。葉弥乃ちゃんがわざわざ紹介するような友達だもの、サービスするわよ」
 ゆっくり見ていってね、という村雨の言葉に甘えて、三人で店内を物色する。
 ぶらうに〜で扱っているのは服だけでなく、小物雑貨の品揃えもそれなりに豊富だった。村雨がニコニコしながら肘をついている硝子張りのカウンターには、アクセサリーの類が陳列されている。
 田舎暮らしが長かった美燕は、しばし物珍しさから意外と熱心に店内を見ていたが、ふと表情を暗くした。
「どうかしたの、みーちゃん?」
 いち早く美燕の変化に気付いた葉弥乃が、気遣いげに声をかける。
 美燕はそれに首を横に振って応え、そろそろ出ませんか、と二人を促した。
 急な美燕の態度の変化を多少いぶかしく感じたものの、葉弥乃達はそれに従って村雨に声をかけ、店を後にした。
 すでにほとんどの案内を終えていた三人は、そのまま商店街通りを外れた一つ隣の通り、川沿いの道を諏訪邸に向かって歩く。
 ガードレールの向こう、道路から一メートル半ほど下を流れる川は、幅が四メートル程度だ。かなり古い時代に整備されたものらしく、苔むした石垣で護岸されていて、昔はよく利用されていたのだろう、川端に降りる石段があちこちにあった。
「普通は」
 黙然と川沿いに歩いていた美燕が、ふと口を開く。
「ん、なに?」
 突然態度が変わった美燕を気にしていたのだろう、前を歩いていた葉弥乃が、少し大げさに振り返った。
「……すいません。なんでも、ありません」
 視線を落としてすぐに謝る美燕に、かく、と葉弥乃の肩がコケる。
「なによう、気になるじゃない〜〜。なによう、なになに?」
「…………その」
 黙り込もうとした美燕だったが、結局は葉弥乃の視線の圧力に耐えかねて、渋々ながらも口にする。
「普通──普通の女の子というのは、ああいう店にいったら喜ぶものなのですよね?」
「は?」
 予想外の質問だったのか、思わず聞き返したが、美燕からはそれ以上の言葉は出てこない。葉弥乃は困ったように人差し指でこめかみを掻く。
「ん〜〜、人による、んじゃないかな。ひょっとして、気に入らなかった?」
「いえ、そういうわけでは……ないんです。すいません」
 もう一度謝ったきり、美燕はぴたりと黙り込んでしまった。
 気に入らなかったわけではない。ただ、あの綺麗な服や装飾品を、自分が身につける可能性のあるものとして、まったく見られない自分に気がついただけだ。
 それがとても、葉弥乃達に対して失礼な気が美燕にはしたのだった。
 ──本当に、自分は変われるのだろうか。
 考えれば考えるほど、どんどん気持ちが重くなっていくのを止められない。
 身体の一部のように持ち歩いている刀袋を握る手に、自然と力がこもる。
 そんな美燕の様子を見た葉弥乃が弱り切った顔で静流に視線を振る。静流も似たような表情をしていたが、取り繕うように笑った。
「お茶してから、帰りましょうか」
 太陽が、ほんの少し赤みを増し始めている。
 
       ********** 
 
「それでは、どうしても立ち会ってはいただけないと?」
「その通りです」
 開け放たれた障子から庭が一望できる客間で、分厚い一枚板の卓を挟んで向き合っていた二人の男、その片方である武人が頷く。
「そうですか……」
 武人の答えに軽く眼を細めたのは、座った状態でも明らかに武人より背が高い偉丈夫だった。そのスーツに包まれた厚みのある身体から発散する気配が、重く、濃い。
 所用を終えて帰宅した武人を待ち構えていた男である。直接顔を合わせなければ相手をしてくれないと知っての待ち伏せだったのだろう。なんの前触れも無しだった。
 武人にとっては日常茶飯事とは言えなくも、初めてではなかったし、多分最後でもないだろう。
 男の年齢は三十前後くらいだろうか。胸板は厚く、顎はがっしりとしていて、半袖から覗く腕が太い。餃子のように潰れた耳は、明らかに寝技のある格闘技を長く続けている証拠だった。
「では、貴方が私との勝負から逃げた、と触れ回っても?」
「御随意に」
 あからさまな挑発にもまったく乗ってこない武人に、男ははっきりと苛立ちを見せた。
「……では、そのようにさせて頂きます。『闘神』の名は名ばかりだったということですね。本当に残念ですよ」
「なんでぇ、客が来てんのか」
 唐突に庭の方から伝法な口調で声がかかり、すぐに大きな魚籠(びく)を下げた隻腕の男が姿を見せたと思うと、すぐに男の姿を見つけて片眉を吊り上げた。
「おう、面白げなのがいるじゃねぇか。どしたい、余所もんのあんちゃん。弟子入りか、道場破りか?」
「老先生」
 話がややこしい方向に行きそうなのを感じた武人が、困った顔で蝮に声をかける。
 だが時既に遅く、男の眉間には不愉快そうな皺がはっきりと刻まれた。
「どちらでもありません。その名前がどれほどのものか、多少なりとも見たかったのですがね。帰ったら『闘神恐れるに足りず』と周りには言わせて頂くことにします」
「ははン、兄ちゃんフられたか。ま、気持ちは解るが、止めておいたほうがいいぜ」
 蝮に鼻で笑われ、男の眉間の皺が一層深まる。
「どうしてです?」
「少しでもこいつを知ってる奴ぁそんな戯言に耳は貸さねえだろうし、なにより俺が面白くねえ」
 にいっ、と蝮はあまり質の良くない笑みを浮かべた。
「手ぶらで帰んのもなんだろうしな。俺が相手してやるよ」
「あんたが? あんたみたいなジジイに勝って、オレになんの得があるんだ?」
 怒りが一線を越えたのだろう、男の口調が粗暴なものに変わった。おそらくこちらの方が本来の性格なのだろう。
「ジジイと言われるほど年寄りじゃねえと思ってんだがな。タケ(こいつ)のこと知ってんなら、蝮って名前に聞き覚えはねえか?」
「知らねえな」
「そうかい。帰ったら年寄りに訊いてみな、誰か知ってんだろ。で、やんのか、やらねえのか」
「…………」
「こんな年寄りが怖えかい、坊主?」
「死んでも知らねえぞ」
「お互い様さ」
 ドスを利かせた男の台詞に、蝮は飄々と肩をすくめた。
 二人のやり取りを横で見ていた武人が、片手で顔を押さえて天井を仰いだ。
「老先生……」
「てことだからよ、ちいと場所借りるぜ。それとこいつは土産だ」
 うきうきとそういいながら、口から笹の葉がはみ出た魚籠を縁側に置くと、意外に重たい音がして、中身がびちびちと跳ねた。
「捕ってきたばっかの鮎だ。終わったら一杯やろうぜ」
「……くれぐれも、お手柔らかにお願いしますよ?」
「解ってる解ってる」
 困り果てた様子の武人に、蝮がいい加減に頷く。
 明らかに自分を軽んじている蝮の態度に、男はなにかを言いたげにしていたが、どうせすぐに解消できると判断したのか、案外大人しく黙って稽古場へとついてくる。
 誰もいない、傾き始めた夏の日差しが差し込む中で、蝮と男は向き合った。
 両者の身長差は大体頭二つ。体重差は目算で倍近いだろう。普通に考えたら、蝮に勝ち目があるようには見えなかった。
「着替えなくて大丈夫かい?」
 やってきたままの黒に近い紺色の作務衣姿で、蝮は男に訊いた。
 男は上着を脱いでネクタイを外し、袖をめくり上げつつ答える。
「必要ねえよ。で、どういうルールにすんだよ?」
「ルール? なんだ、案外眠てえこと言いやがんだな。なんでもいい、どっちかが動けなくなったらでいいだろうがよ。ほれ、いつでもいいからかかってきな」
 棒立ちのまま、ひらひらと手を振る老人に、男の額に血管が浮き出た。
 それでもいきなり殴りかかったりせずに、慎重に間合いを取った男は、両手を目の前に構え、体重をやや前にかけた前傾姿勢。相手が何か攻撃を仕掛けてきたら、すぐさま組み付いて寝技に持ち込もうという構えだった。
 対する蝮は、にやにや笑いを浮かべ棒立ちのまま。構える気配もない。
 いつまでも構えない蝮に最初は警戒していた男だったが、牽制を繰り返しても身動ぎ一つしない老人に焦れたか、思い切って低い体勢から組み付きにいった。
 その巨体にしてはかなり素早い動きだった。
 蝮は顎を引いて受け身はとったものの、無抵抗のままあっさりと仰向けにひっくり返され、みぞおちの上にのし掛かられる。
 マウントポジションとも呼ばれる、男にとって絶対優位な体勢だ。
 さらには男の膝が蝮の片腕の上に乗って反撃の動きを封じており、一見その絶対的な体重差を跳ね返すのは不可能に思われた。
「どうだい爺さん?」
 勝ち誇った男が、組み敷いた蝮に言った。
「どうってのは?」
 蝮のにやにや笑いは微塵も崩れていない。
 そのあまりに余裕な態度に、男は怒りと困惑の混じった複雑な顔をした。
「あんた、この状態から逃げられると思ってんのか?」
「そりゃ、やってみねえとな。少なくとも、俺はこうしてまだぴんぴんしてるぜ」
「死んでも恨むなよ」
 言い捨てた男が、蝮の顔面に拳を振らせようと、小さく速い動作で拳を引いた。
 そこで初めて蝮の顔から笑みが消えた。
「おめえ、この街向きじゃねえよ」
 いつの間にか蝮の手は男の太股へひたりと添えられていた。
 ぶち。
「ぎゃあああぁぁ!?」
 なにかが千切れる小さな音に続いて、男の絶叫が上がり、蝮の上に乗っていた腰が僅かに浮いた。
 その隙間へ、蝮の手がまさしく毒蛇のように滑り込んだ。
「……!?」
 唐突に悲鳴が途切れると、男の目がくるんと裏返り、股間を押さえたままの巨体が音を立てて横倒しになった。
「長えこと、くっつきすぎだ」
 その横で、よっこらしょ、と老人が立ち上がる。
「穏便に、とお願いしたのですが」
 いつの間にか救急箱を持って稽古場の端で立ち合いを見守っていた武人が、盛大に溜息をつきつつ男の様子を見に近づいてきた。
「穏便だろうが。ちゃんとカタタマ残してやったんだからよ」
 手にこびりついた血を男のシャツで拭っていた蝮が、大笑いしながら言う。
 男は寒さに耐えるような姿勢で身体を丸め、痙攣しつつ口の端から泡を吹いていた。
 左の太股が服ごと抉れ、かなり派手に流血している。まるで獣に噛みちぎられたような傷跡だ。
「相変わらず化け物じみた握力ですね」
「おめえに化け物呼ばわりたあ、心外極まるな」
「一応、病院に運びましょう。鮎はとりあえずお預けです」
「なんだと? 救急車なりタクシーなり呼んで、放り込んでおけばいいじゃねえか」
「そういうわけにもいきませんよ」
 ち、と蝮は舌を鳴らした。
「相変わらすお人好しな野郎だな」
「有名人だから、というわけはありませんが、そう邪険にもできないでしょう」
「こいつ、有名人なのか?」
「プロの格闘家ですよ。名刺をもらいました」
「ははあ、どうりで動きにアクがねえわけだ。動きが南米辺りの柔術家くせえのに、えげつなさが足りねえと思ったよ」
「彼には災難でしたね。とにかく、老先生も一緒に来て下さい」
「しょうがねえな、わかったよ」
 
    **********
 
 紅くなり始めた空で、暮れガラスが鳴いている。
「……なんで誰もいないんだ?」
 門を潜った士郎は、そろそろ暗くなり始めるというのに、人の気配がない屋敷を眺めて呟いた。
 にい。
 特徴的な鳴き声がして、なにやら暖かくて柔らかいものが士郎の脛をこする。
「なんだ、帰って来てたのか」
 尻尾をピンと立ててまとわりついてくる蘭を見つめる士郎の表情が柔らかく変わる。
「風呂でも沸かすかな」
 歩き出した士郎の足を、蘭が追いかけていった。
 
**********
 
「諏訪様の稽古場は、なぜ使われていないのですか?」
 昨日も葉弥乃に案内された喫茶店で、一息ついて多少は気が落ち着いたらしい美燕がどちらにともなく尋ねた。今日はアイスコーヒーが美燕の前に置かれている。
「あれだけ立派な稽古場を遊ばせておくのは、勿体ないと思うのですが」
「わたしもそう思うんですけど。お父さん自身には、いまのところ稽古場を再開する気はないみたいです。来年からの入居者に開放するとは言ってます」
 カフェオレの氷をストローで突きながら、静流が答えた。
「再開、ということは、以前は稽古生がいたのですね?」
「はい、その……お母さんがいた頃は」
「……そうですか」
 どうやらなにか複雑な事情がありそうなのを察し、美燕はそれ以上その話題には触れないことにした。
 その時ふと、今朝士郎と交わしたやり取りを思い出す。
「あの、士郎さんのことなのですが」
「ん? みーちゃん、あいつのこと気になるの?」
「はい」
「ん〜〜そうかそうか。まあちょっと無愛想だけど、悪い奴じゃないよ。顔も悪くはないし、ぎりぎりオススメできるかな。あ、一応言っておくけど、あたしとあいつは何もないからね? いっつも一緒にいるからそういう仲だと思ってる人も多いみたいだけど。あいつとはオムツしてる頃からの付き合いだし、異性ってーよりも、姉弟って感じだからね。面倒臭いから、周りにはいちいち説明してないけど。そういうことにしておけば、うるさい虫もあんまり近づいてこないしね」
 突然機関銃のように話し出した葉弥乃に、美燕は目を白黒させたが、すぐに葉弥乃がなにを言わんとしているか察すると、慌てて否定した。
「い、いえ、そういうことではなくてですね!」
 今朝の稽古場でのやり取りを二人に話し、その上で質問する。
「士郎さんは、武術が嫌いなのですか?」
 問われた葉弥乃と静流は、顔を見合わせた。
「……今は嫌いみたいですね」
「今は?」
「ん〜〜、昔はね、武術馬鹿だったんだよ、あれでも」
「それはどういう」
 らしくもなく、性急で強い口調で重ねる美燕。おそらく後継者としての立場を追われた自分と、その逆の環境である士郎を無意識に比べてしまっているのだろう。
「この話は、また今度にしましょうか。そろそろ帰って夕飯の支度もしないといけませんし」
 熱くなりかけた美燕を、静流がやんわりと押しとどめる。
 そこですぐに冷静に戻った美燕は、潔く引き下がる。これからしばらく一つ屋根の下で暮らしていれば、いずれ知ることもあるだろうと思ったからだ。
 そう、時間はあるのだ。
 それこそ飽くほどに。
 胸の奥に生まれたわだかまりも、そのうち消えるだろう、きっと。
 店内から見える日差しは、もう随分赤さを増していた。
 
       四
 
 夏休み初日。
 朝食を済ませた美燕は、担任の金堂に言われた課題を受け取るため、昨日とそう変わらない時間に諏訪邸を出た。
 昨日帰り際に金堂から、できれば顧問をしている部活が始まる前か、終わった後に来てくれると助かると言われていた。練習の開始は平日の授業開始と同じくらいの時間ということだったので、まだ職員室にいるだろう。
 学校に着いた美燕は、スリッパに履き替えて職員室に向かった。
「お、来たね」
 職員室で取り次ぎを頼んでいると、色あせた紺色の剣道着で机に向かっていた金堂が、美燕を見つけて手招いた。
 夏休みに入っても、さほど人が減ったとも見えない職員室の机を抜けて金堂のところまで行くと、大学ノート数冊分ほどの厚みのある、わら半紙の束を差し出された。
「もしやってない範囲があったら、一ノ瀬に訊くといい。あれでも学年トップクラスの成績の持ち主だからね。教科ごとの担任もまだ判らないだろうしね」
 どうしてもできないものはとばして構わないよ、と言いつつ、金堂は腰を上げた。
 昨日のネクタイ姿と違い、剣道着の金堂は長年武道を歩んできた者特有の雰囲気を発散していた。剥き出しになっている肘から手首までが太く、縄がうねるように筋肉が浮き出している。
「せっかく学校まで来たんだから、少しうちの部を見学していくかい?」
 どちらかといえば男臭い顔に、優しげな笑顔を浮かべて尋ねる。
「清澄さんから仕込まれている君から見れば、まだまだ未熟かも知れないが、うちの生徒もそこそこは使えると思っているんだ。もちろん、この後に予定が無ければだけど、どうかな?」
 その申し出に一瞬身を固めた美燕だったが、少し思うところもあって、それを受けることにした。
 承諾を伝えると、金堂は年齢によらない子供のような笑顔を浮かべた。そのまま案内されたプレハブの剣道場は、諏訪家の稽古場に比べると少し手狭だった。
 それでも、柔道部などとの共同使用ではなく、専用の場所らしいので、充分ではあるのだろう。
 すでに二十人以上の部員が準備運動を開始しており、金堂が姿を見せると、皆身を正して気合いの入った挨拶をする。
 美燕は道場の入り口で一礼してから、金堂の後について道場に入り、練習の邪魔にならないように隅の方へするすると進みいり、刀袋を身体の右側に置くと、そこにぴたりと正座する。
 見慣れない転校生の姿に、部員の大半はなにがしかの興味を持ったようだが、すぐに金堂の号令で練習が始まったので、そちらに集中する。
 それから約一時間ほど、美燕はじっとその練習風景を見つめていた。
 金堂が言うだけあって、部員の練度は高かった。気合いの乗りも良いし、厳しい練習にもよくついてきている。顧問である金堂の指導も的確なものだ。
「どうかな、うちの教え子達は?」
 指導していた生徒に反復練習を命じて、金堂が美燕のところにやってきて訊いた。
「はい、よく鍛えられていると思います」
 乱取り稽古の一団を眺めていた美燕は、金堂に視線を移して答える。世辞ではない。
「参加してみるかい? 君にとっては物足りないかもしれないが、うちの教え子には良い勉強になると思うんだが」
 金堂の言葉には皮肉や謙遜など無く、ただ事実を口にしている無造作さがあった。
 どうやら、美燕の立ち居振る舞いから、ある程度その実力に見当がついているらしい。
「……ご迷惑でなければ」
 
 つい先程まで、練習の喧噪に溢れていた道場内に、今はざわめきが流れていた。
 美燕はそれを聞くとも無しに聞きながら、貸してもらった防具を身につけていく。
 実家の鍛錬で防具は使用したことがないが、一応一通りの身につけ方は知っていた。
 淀みのない動作で準備を終えると、これも貸してもらった竹刀を手に立ち上がり、感触を確かめるように数回振る。普段使い慣れている木刀に比べ、長さも重さも違うことにやや違和感を感じるが、それほど問題にはならないだろう。
 美燕の準備が終わるのを確認してから、金堂は手を叩いて部員達の気を引く。
「彼女は私の恩師の娘さんで、古流剣術の使い手でもある。剣道とは少し違うが、実力は折り紙付きだ。誰かやってみないか? 良い勉強になると思うぞ」
 とても嬉しそうな態度で金堂が一同を見回すと、防具姿の部員が一人進み出る。
「先生、わたしが……」
 それは、さきほど美燕が眺めていた乱取りで受け手を勤めていた人物だ。面のせいで顔は見えないが、声からすると女子のようだ。
「お、須藤(すどう)か。上泉くん、須藤は君と同じ三年生で、全国出場経験もある、うち一番の女傑だ。どうだい?」
 もともと選べるほど相手を知らないし、その気も美燕には無い。
「よろしくお願いします」
 美燕が頭を下げると、須藤も礼を返した。
 興味津々な様子の部員達が見守る中、道場の真ん中で美燕と須藤は向き合った。
 ちらほらと、須藤を応援する声が後輩達から上がる。
「始め!」
 審判を務める金堂の声が上がるやいなや、先手必勝とばかりに、須藤がなかなか鋭い踏み込みで前に出る。
「なっ?!」
 須藤が驚きの声を漏らして畳を踏む音と、美燕の竹刀がその小手を打つ軽い音が、ほぼ同時に聞こえた。
 道場内が静まり返り、金堂の片手が上がる。
「小手有り、一本!」
 ざわ、と部員達がざわめく。
 部内屈指の実力者である須藤があっさり負けたことに対する驚きと、今の一瞬に見せた美燕の動きに対する困惑の反応だ。
 美燕の動きはそれほど速かったわけでもないし、特別なことをしたわけでもない。
 須藤が踏み込む動作を見せた瞬間に美燕が踏み込み、須藤が振り上げようとした竹刀を自分の竹刀で押さえただけ。それも、ごく軽い動作に見えた。
 だがそれで完全に拍子とバランスを崩されて死に体になった須藤の小手へ、美燕の竹刀が滑った。その滑っただけに見えた一撃は、小手に触れた瞬間、はっきりと打撃音を響かせる。
 部員達には、それらがいかに異常なことかはっきりと判った。
 そもそもの動きの理屈自体が自分たちと違う、と。
 動きと動きの繋ぎ目にごくあっさりと割り込み、加速する距離がほとんどない状況で打撃力を産みだしたのだ。
 速いというより早い。それはまるで魔法のように部員達には感じられた。
「ほ〜〜……」
 静まり返る道場の中で、金堂だけが面白そうに顎を撫でた。
「いや、まさかここまでとは」
「もう一度、もう一度お願いします!」
 呆然と突っ立っていた須藤は、金堂の声で我に帰ったか、慌てた様子で言った。その声の調子から、今の勝負に納得していないのが感じられる。
「上泉くん、いいかな?」
 美燕が頷く。
 須藤が気を取り直すのを待ち、仕切り直す。
「始め!」
 今度の美燕は速かった。
 まるで音のない雷のような速さで間合いを詰める。先の須藤に比べて、数段速い。
 ばん!
 踏み込みながら独特の下段構えに変化していた美燕の放った片手打ちは、まさに落雷の勢いで須藤の面を上から捕らえる。
 端で見ていた者達には、美燕の竹刀の先が須藤の後頭部を叩いたように錯覚した。それほど速く、強烈な一撃だった。
 須藤は縦に揺れて竹刀を取り落とし、勢いよく尻餅をつく。
 もうざわめきも起こらない。
「面有り、一本!」
 文句のつけようが無かった。
「大丈夫ですか?」
 尻餅をついたまま、またも茫然自失の体になる須藤に、助け起こそうと美燕が手を差し出す。
 差し出された手を見た須藤は驚いて身を竦めたものの、素直にその手を借りて立ち上がる。
 小さな声で「参りました」と言い、足取りもしっかりしているので、尻餅でケガをしたり脳震盪の心配もなさそうだった。
 気持ち背中を丸めて須藤が下がると、さらに金堂が訊いた。
「他に、誰か挑戦者はいないか?」
 誰一人声も上げない。今の一戦で、自分たちが敵う相手では無いと理解したのだろう。
「なんだだらしない。誰も勝てとは言ってないぞ。胸を借りるつもりでやってみろ。水上(みなかみ)。お前どうだ?」
 その言葉に、部員達の視線が一カ所へ集まる。
「え、オレっスか?」
 糸目にツンツン頭の男子が、自分に集まる視線をきょろきょろと見回し、自分を指さして訊いた。中肉中背で、見た目も仕草もどこが茫洋としたものが漂っている。
「この部じゃ、須藤より腕が立つのはお前だけだろ」
「今勝たなくていいって言ったくせに……自信は無いッスよ?」
 と言いながらも、水上はテキパキと防具を身につけていく。
「んじゃ、やりましょうか。みんな、応援よろしくね〜」
 ぐるりと肩を回して進み出る。
 水上なら望みがあると思ったのか、力のこもった声援がかけられた。
「始め!」
 するり、と美燕が踏み込む。
 パン!
 無造作に、しかし鋭く速い美燕の小手打ちを、水上が最小限の動きで受ける。弾かれた美燕の竹刀は、そのまま水上の面へと伸びる。切り返しが速い。
 水上はこれも受ける。
 美燕の動きは、須藤相手の二本目と同じく速いが、水上ははっきりと反応する。
 部員達の間に歓声が上がった。
 美燕と水上は、擦れ違うようにして間合いを取った。
 そして、向き直った水上のピタリと構えられた竹刀に、美燕は感心する。
 水上の構えは、最も基本的な青眼。教科書に載せたくなりそうなほど基本に忠実な構え方だ。ある意味本人の印象通りの、これといった特徴の無い構え。
 難しい相手だな、美燕は思う。
 特徴が無いということは、転じて言えば長所もないが短所もないということ。
 要するに隙がない。攻め手に困る一番厄介な部類の相手だ。
 加えて、美燕は剣道の試合に慣れているとは言えない。それに身につけた技術そのものも、何合も打ち合うことにそれほど向いていないのだ。
 剣道という枠で戦う限り、その枠に慣れている方が有利なのは自明の理でもある。
 慎重に水上の出方をうかがう美燕に対し、剣道経験者としては珍しく、ピタリと剣先を静止したまま摺り足で間を詰めていた水上が動く。
 竹刀が打ち合う音が連続する。
 部員達の歓声が大きくなった。
 水上の打ち込みは、鋭く、速く、力感に溢れている。
 危なげなくそれを捌いた美燕が、水上の踏み込みで詰まった距離を開こうと、するりと身を引いた。
 それを見た水上が、ぐっとさらに前進し、開こうとした距離をやや強引に詰め、竹刀も振れないほど肉薄する。
 美燕は同年代の女子に比べれば多少身長が高いものの、水上と比べれば身長も体重も劣る。そこにつけ込んでの体当たりにきたのだ。
 だが。
「……おっ?」
 面の奥で、水上の糸目が見開かれる。
 衝突音と共に弾かれたのは水上の方だ。
 体格差に加え、美燕は下がっている状態、水上は追う状態だったのにも関わらずだ。
 足腰が強靱なのか、それともなんらかの技術や体捌きなのかは判らないが、美燕の方が一方的に打ち勝ってしまった。
 弾かれた水上は倒れこそしなかったが、すぐにするすると近づいてきた美燕の一撃を躱すほどの余裕は無い。
 美燕の竹刀が水上の面を捕らえ、快音が響く。
「面有り、一本!」 
 息を詰めて勝負を見守っていた部員達の嘆息が漏れ、体勢が崩れたところに一撃をもらった水上は、そのまま後方にごろんと一回転して起き上がった。
 笑みを浮かべて金堂が確認する。
「もう一回やるか、水上?」
「いや、無理ですって。とてもじゃないけど、勝てそうに無いッス」
 妙に軽い調子であっけらかんと手を横に振る水上。
「そうすると、もう相手がいないな。……それでは」
 キラリ、と金堂の目に子供じみた怪しい光が走る。
「先生」
 唐突に美燕から声をかけられ、金堂の目から怪しい光が消える。
「寮の方に、昼までには帰ると言ってありますので……」
「む、そうかね……少し残念だが、まあいいか。またいつなりと来るといいよ。歓迎するからね」
 あからさまに残念そうな金堂と、少し引き気味の部員達にも一礼し、道場の隅まで下がった美燕は、面を外して息をつく。
 面をつけていると、やりにくいな。
 暑い中、防具を着けて二人相手に立ち回ったというのに、ほとんど汗をかいていない美燕は、それだけ思う。
 身繕いを済ませ、一礼を残して道場を出て行く美燕を見送る金堂に話しかけたのは水上だった。
「いやあ、強い娘ッスね。この前来てくれた範士の人に動きが似てたッスけど」
「彼女の流派は、体系的にそういう動きを身につけるものだからな。相当歴史が古いらしいが、確か源流は戦国時代まで遡れるそうだぞ」
「マンガみたいッスね」
「まあ、その実効性というのは今見たとおりだ。……う〜〜ん、もう少し早く転校してきてくれてればな」
「部が全体的にレベルアップできたってことッスか? それはどうでしょうね」
「ん?」
「あれは剣道じゃないッス。あの娘も剣道家じゃないでしょ。あんな異質なものぶち込まれて、いい影響だけとは考えられないッスけど」
 金堂は片眉を吊り上げて水上を見たが、なにかしら心当たりでもあるのか、深々と溜息をついて頷いた。
「そうだな」
「ま、勉強にはなったッスよ、もの凄く。須藤にはなりすぎたみたいッスけど。すげーヘコんでますよ、あいつ」
「最近天狗になりつつあったから、丁度良いといえば丁度いいが……。薬が効きすぎて大会に支障が出ても困るな。水上、お前少しフォローしてやってくれるか?」
「効果なくても怒んないで下さいね」
「期待してるぞ」
「……へーーい」
 
 とぼとぼと重い足取りで、美燕は家路についていた。
 須藤、水上と連破したものの、美燕の心にはこれといった感慨は無かった。
 むしろ、かえって気持ちが重くなってしまった気さえする。
 二人が弱かったからというわけではない。確かに結果としては自分が勝ったが、二人とも質の良い練習を積んでいることは伺えたし、内容の濃い勝負だったと思う。
 少し前なら、充分に満足できていたはずだ。
 金堂の誘いを受けたのは、自分の中で変化している諸々を確認するためだったのだが。
 ──剣を振るのは、こんなにつまらないものだっただろうか。
 また来るといい、と金堂は言ってくれたが、もうあそこに足を運ぶこともないだろう。
 足は鉛のように重く、肩に照りつける日差しにすら重さを感じる。
 無意識に唇を噛む。
 真夏の太陽の下、勝者とは思えない美燕の背中は、ゆっくりと遠ざかっていった。
 
  • 剣で、拳で。目次へ戻る
  • inserted by FC2 system